数十万年前
日本列島がまだユーラシア大陸と陸続きで、厳しい寒さの「氷河期」だった時代。人々は打製石器(だせいせっき)を使い、マンモスやナウマンゾウなどの大型動物を狩り、木の実などを採集しながら、獲物を追って移動するテント生活を送っていました。長年「日本には旧石器時代はない」と思われていましたが、群馬県の岩宿遺跡の発見によって日本の歴史が大きく覆りました。土器がまだ発明されていなかったため「無土器時代」とも呼ばれる、人類の壮大なサバイバルの時代です。
紀元前14000年頃
氷河期が終わり、暖かくなったことで今の日本列島の形ができた縄文時代。約1万年以上も続いたこの時代の人々は、狩りや漁、木の実の採集などをして暮らしていました。最大の革命は、表面に縄の模様がある縄文土器の発明です!これによって「煮る」という調理法が生まれ、食べられるものが劇的に増えました。また、身分の差や貧富の差がなく、人々が助け合いながら自然と共に生きた、戦争のない平和で豊かな時代でもありました。青森県の三内丸山遺跡などが有名です。
前10世紀頃 〜 250年
紀元前10世紀頃から紀元後3世紀中頃まで続く弥生時代は、日本で本格的に稲作(お米づくり)が始まった重要な時代です。大陸から伝わった金属器(鉄器や青銅器)が使われるようになり、人々の生活は狩猟採集から農耕へと大転換しました。食べ物を蓄えられるようになったことで、貧富の差や身分の違いが生まれ、土地や水をめぐる「戦争」が始まりました。やがて小さな村はまとまって「クニ」という小さな国になり、邪馬台国の女王・卑弥呼が登場するなど、現在の日本の基礎が形作られた激動の時代です。
4世紀前後
入の沢遺跡 集落の廃絶(陸奥国、現:宮城県栗原市)
事件
4世紀後半
北九州・倭国の新羅侵攻 敗北
合戦
年代不明
日本の建国神話として『古事記』や『日本書紀』に記されている、初代天皇・神武天皇(カムヤマトイワレビコ)の東征の物語です。九州の日向(宮崎県)を出発し、瀬戸内海を経て大和(奈良県)を目指す過程で、嵐や毒気、宿敵である長髄彦(ながすねひこ)との激戦など数々の困難を乗り越え、ついに大和を平定して即位します。神話でありながら、近畿地方を中心に巨大な力を誇ったヤマト王権が成立していく過程や、古代国家形成の歴史的事実を色濃く反映しているとされる、歴史の端緒を開いた重要な物語です。
年代不明
孔舎衙坂の戦い(河内国、現:大阪府南東部))
合戦
年代不明
健磐龍命、阿蘇派遣・九州中部占領(肥後国、阿蘇地方)
合戦
年代不明
神渟名川耳尊・手研耳命の皇位継承争い(大和国)
事件
年代不明
武埴安彦の乱(大和国、山城国)
合戦
年代不明
温羅の乱(吉備国、瀬戸内海周辺)
合戦
年代不明
四道将軍の派遣(日本各地)
合戦
年代不明
出雲振根(阿多命)討滅(出雲国)
合戦
年代不明
武五百建命、信濃派遣(信濃国)
合戦
年代不明
都怒我阿羅斯等の来朝と新羅との争い(日本及び任那、新羅、現:朝鮮半島)
合戦
年代不明
狭穂彦王の乱(大和国)
合戦
年代不明
景行天皇、西征への出立(九州地方)
合戦
年代不明
倭建命の征討活動(日本各地)
合戦
年代不明
仲哀天皇の征西(長門国、筑前国)
合戦
年代不明
神功皇后・田油津媛の戦い(筑後国)
合戦
年代不明
日本の歴史書『古事記』や『日本書紀』に記されている、第14代仲哀天皇の皇后である神功皇后(じんぐうこうごう)が、お腹に子ども(のちの応神天皇)を宿したまま海を渡り、朝鮮半島の新羅・百済・高句麗(三韓)を降伏させたとされる伝説です。史実としての証明は困難ですが、古代のヤマト王権が鉄資源を求めて朝鮮半島に強く進出していた歴史的背景や、古代日本の外交姿勢を反映した物語として重要です。その後の日本と朝鮮半島の関係を基礎づける端緒を開いた神話として知られています。
年代不明
麛坂王・忍熊王の乱(近畿地方)
合戦
年代不明
大浜宿禰、海民騒動を鎮圧
運動
年代不明
武内宿禰、盟神探湯の決着(九州、大和国)
合戦
年代不明
葛城襲津彦、加羅攻撃(新羅、加羅、現:朝鮮半島)
合戦
葛城襲津彦が新羅の美女2人の誘惑に掛かり、新羅を攻めずに加羅(から)を攻撃する。この行為に天皇からの怒りを買い、石穴に入り死んだと伝えられている。
年代不明
大山守皇子の乱(山城国)
合戦
年代不明
仁徳天皇、隼総別皇子 誅殺(大和国、伊勢国)
事件
年代不明
上毛野君田道・新羅征伐(新羅、現:朝鮮半島)
合戦
年代不明
武振熊、両面宿儺 討滅(飛騨国)
合戦
年代不明
住吉仲皇子の乱(摂津国、大和国)
合戦
年代不明
允恭天皇、玉田宿禰 誅殺(大和国)
事件
年代不明
木梨軽皇子の失脚(大和国)
合戦
年代不明
安康天皇、大草香皇子 殺害(大和国)
合戦
年代不明
眉輪王の変(大和国)
合戦
年代不明
膳斑鳩、対高句麗の防御戦(新羅)
合戦
年代不明
倭王武(雄略天皇)、吉備下道前津屋一族 誅殺(備中国)
事件
年代不明
吉備氏の乱(任那、現:朝鮮半島)
合戦
年代不明
紀小弓、大伴談らによる新羅征伐(新羅、現:朝鮮半島)
合戦
年代不明
星川皇子の乱(大和国、備前国、備中国)
合戦
年代不明
紀大磐、三韓の王「神聖」失敗(任那、百済)
合戦
年代不明
平群真鳥、平群鮪父子 誅殺(大和国)
事件
1334年05月03日頃
1334年(建武元年)、鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇が、建武の新政における土地問題の混乱を収めるために発布した法令です。当時、幕府滅亡のドサクサで土地を奪われたり、逆に不当に占拠したりする者が続出し、土地の所有権を巡る裁判が爆発的に増加していました。そこで「元の持ち主に土地を返す」という徳政令を出しましたが、例外規定が多すぎたために問題は全く解決せず、かえって武士たちの不満を増幅させる結果となりました。建武の新政がわずか数年で崩壊へ向かう歴史の重要な分岐点となった法令です。
250年 〜 592年
3世紀半ばから約300年間続いた、日本各地で王様のお墓である「古墳」が盛んに造られた時代。近畿地方を中心に強大なパワーを持ったヤマト王権が誕生し、日本列島の広い範囲を支配するようになります。お墓の形や大きさで身分の高さが示され、世界最大級の面積を誇る前方後円墳も造られました。また、朝鮮半島や中国との交流も活発になり、海を渡ってきた渡来人たちが漢字や仏教など大陸の最先端技術を日本に伝えました。単なる小さな村の集まりから、日本が一つの国としての土台を大きく形作った重要な時代です。
266年 〜 413年
空白の四世紀
時代
日本の歴史には、西暦266年から413年にかけて、「空白の4世紀」「空白の150年」と呼ばれる期間がある。この時代の日本には文字がなく、中国の書物、文献から歴史をひも解くしかない。西暦266年「倭の女王が西晋に朝貢した」と中国晋朝の歴史書『晋書(しんじょ)』武帝紀・倭人伝に記したのを最後に日本に関する記述が一切途絶えた。この時の倭の女王は、卑弥呼の宗女・台与(とよ、別名:壱与(いよ))のことである。また、中国王朝(蜀・魏・呉)では大きな戦いが起こったことも理由として考えられる。次に日本の事が記されているのは約150年経った西暦413年「倭王讃(わおうさん)が東晋に朝貢した」と『晋書』安帝紀に登場する。その間、日本の歴史が空白となっており、文字ではなく、考古学から読み起こすしかない。
391年
4世紀末から5世紀初頭にかけて、朝鮮半島の覇権と鉄資源を巡り、倭(当時の日本)と北方の強国・高句麗(こうくり)の間で繰り広げられた激しい戦争です。倭軍は同盟国である百済(くだら)を助けるために海を渡りましたが、好太王(広開土王)が率いる高句麗の強力な鉄の騎馬軍団の前に大敗を喫しました。しかし、この敗戦のショックが最先端の軍事技術や乗馬の風習、新しい外交戦略(中国への接近)を日本にもたらし、ヤマト王権が強力な国家へと成長していく決定的な契機となった重要な歴史的事件です。
478年
478年、日本のヤマト王権のトップである倭王武(わおうぶ:雄略天皇)が、中国の南朝である「宋」の皇帝に宛てて送った公式な手紙(上表文)に関する出来事です。中国の歴史書『宋書』倭国伝に記録されており、ヤマト王権が日本列島を武力で統一していく様子や、朝鮮半島での軍事的な権威を中国に認めてもらおうとする必死の外交戦略が描かれています。5世紀の日本の姿を現代に伝える貴重な記録であり、古代日本の国家形成の歩みを知る上で重要な歴史の分岐点です。
531年
安閑天皇 即位
官職
535年
屯倉 設置
政治
ヤマト王権の支配制度で全国に多数設置した直轄地。
538年
538年(または552年)、朝鮮半島の百済から大和政権(日本)へ公式に仏教が伝わった歴史的出来事です(仏教公伝)。百済の聖明王から欽明天皇へ、美しい金銅の仏像や経典が贈られました。これを機に、先進的な仏教を取り入れたい蘇我氏と、日本古来の神々を重んじる物部氏の間で激しい権力闘争が勃発します。また、伝来した年については最新の研究で「538年説」が有力となっています。日本の宗教観や政治体制を根本から変える、歴史の決定的な転換点となりました。
539年
12月30日
欽明天皇 即位
官職
540年
渡来人 秦人、漢人 戸籍作成
行事
百済・高句麗などから亡命してきた渡来人である秦人・漢人の戸籍が作り、支配したとされる。『日本書紀』八月の条に記述されている。
571年
5月24日
欽明天皇 崩御
死去
574年
1月1日
聖徳太子(厩戸皇子)が生まれる
誕生
聖徳太子は、用明天皇(ようめいてんのう)と皇后・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)の間に生まれる。聖徳太子が亡ってから功績を称え贈られた諡号(しごう)で、宮中の馬小屋の前で生まれたことから付いた名は、厩戸皇子(うまやどのおうじ、みこ)、厩戸豊聡耳皇子(うまやどのとよさとみみのみこ)である。
?
用明天皇 即位
官職
用明天皇の父は、欽明天皇(きんめいてんのう)で、皇后・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)の間に聖徳太子(しょうとくたいし、別名:厩戸皇子(うまやどのおうじ))が誕生している。
?
用明天皇 崩御
死去
587年
7月
587年、百済から伝わった「仏教」をめぐり、賛成派の蘇我馬子と反対派の物部守屋が激突した古代日本の内乱。宗教論争に天皇の後継者争いが絡んで武力衝突に発展し、若き日の聖徳太子も蘇我軍として参戦しました。激戦の末に物部氏が滅ぼされたことで、日本は正式に仏教を受け入れる国となり、華やかな仏教文化が花開く飛鳥時代への扉が開かれました。権力を独占した蘇我氏の全盛期をもたらした重要な戦いです。
588年
崇峻天皇 即位
官職
591年
朝鮮半島の任那日本府(みまなにほんふ)任那に派兵する。
行事
592年 〜 710年
592年から710年まで、奈良県の飛鳥地方を中心に天皇や貴族が政治を行った時代。聖徳太子が天皇を中心とする国づくりを目指し、その後、中大兄皇子らによる大化の改新を経て、法律に基づいた強い国づくり(律令国家)が進められました。仏教が深く根付き、日本初の本格的なお寺である飛鳥寺や法隆寺が建てられたのもこの時期です。激しい権力争いと内乱を乗り越え、ついに国号が「日本」となり、君主が「天皇」と呼ばれるようになった、現代の日本の骨格が完成した超重要な激動の時代です。
592年
11月3日
崇峻天皇 暗殺
事件
崇峻天皇と対立関係となった蘇我馬子(そがのうまこ)は、東漢駒(やまとのあやのこま)に崇峻天皇を暗殺するように命令する。日本史上で唯一、暗殺された天皇となった。東漢駒は馬子の娘であり崇峻天皇の妻である河上娘(かわかみのいらつめ)を奪って妻とするが、父の馬子は怒り、駒を殺害した。一説では暗殺の口封じのため、駒を殺害したともいう。
592年
12月8日
592年、日本史上初となる女性の天皇、推古天皇(すいこてんのう)が即位した歴史的な出来事です。当時、政治の実権を握っていた蘇我馬子(そがのうまこ)が前天皇を暗殺するという前代未聞の危機の中、混乱を収めるために白羽の矢が立ちました。彼女は甥である聖徳太子(しょうとくたいし)を政治の補佐役(摂政)に任命し、馬子と三人で協力して国づくりを進めます。仏教を中心とした国づくりや遣隋使の派遣など、日本が本格的な国家へと成長していく歴史の決定的な契機となりました。
593年
聖徳太子 摂政 任命
官職
593年
四天王寺 建立
文化
推古天皇の命により、聖徳太子が開基となり、現在の大阪市天王寺区四天王寺に建立した。
594年
594年、日本初の女性天皇である推古天皇(すいこてんのう)が、仏教を深く信仰し、国を挙げて保護・発展させることを宣言した法令です。これを三宝興隆の詔(さんぽうこうりゅうのみことのり)と呼びます。「三宝」とは、仏(お釈迦様)、法(その教え)、僧(教えを伝える人々)という仏教の3つの宝を指します。聖徳太子や蘇我馬子とともに、豪族同士の血みどろの争いを終わらせ、仏教の平和な教えを中心とした新しい国づくりを進めるための、歴史の決定的な契機となりました。
595年
百済の僧 慧聡 来日
行事
慧聡は、聖徳太子の仏教の師となり、法興寺(ほうこうじ、現:奈良県高市郡明日香村、後の飛鳥寺安居院(あすかでらあんごいん))が造営すると高句麗の僧・慧慈(えじ)と住み、三宝の棟梁と称された。
595年
高句麗の僧 慧慈 来日
行事
慧慈は、聖徳太子の仏教の師となり、法興寺(ほうこうじ、現:奈良県高市郡明日香村、後の飛鳥寺安居院(あすかでらあんごいん))が造営すると百済の僧・慧聡(えそう)と住み、三宝の棟梁と称された。
600年
600年から、推古天皇や聖徳太子(しょうとくたいし)が中国の巨大帝国「隋」に派遣した使節団です。これを遣隋使(けんずいし)と呼びます。最初の派遣では日本の遅れを笑われますが、607年の第2次派遣では小野妹子(おののいもこ)が「日出づる処の天子…」という強気な手紙を渡し、対等な関係を要求しました。同時に派遣された留学生たちが持ち帰った最先端の知識や法律は、のちの「大化の改新」の土台となる歴史の超特大ドミノとなりました。
600年
2月
600年、推古天皇と聖徳太子の時代に、朝鮮半島南部の任那(みまな)を救うため、日本の朝廷が新羅(しらぎ)へと大軍を派遣した事件です(第1次新羅征討)。征新羅大将軍である蘇我境部摩理勢(そがのさかいべのまりせ)が軍を率いて5つの城を落とし、一度は新羅を降伏させました。しかし、日本軍が撤退すると新羅はすぐに約束を破って裏切ります。武力だけでは外交問題は解決しないと痛感した日本が、進んだ国家を作るために遣隋使を派遣するようになる歴史の重要な分岐点です。
602年
新羅征討 第2次計画
合戦
新羅を討伐するため、来目皇子 (くめのおうじ、聖徳太子の実弟)を征討将軍として、約2万5千人の兵を筑紫国(つくしのくに、現:福岡県東部)に集結させるも来目皇子が急死したため中止となる。
602年
小墾田宮 遷都
政治
現在の奈良県明日香村にある雷丘(いかづちのおか)にあった宮殿とされる。
603年
広隆寺 建立
文化
真言宗の寺院・広隆寺は、京都市右京区太秦にあり、本尊を聖徳太子とする京都最古の寺といわれている。
603年
12月5日
603年、聖徳太子(厩戸皇子)が日本で初めて定めた役人のランク分け制度。それまでの「家柄(氏姓制度)」だけで地位が決まるルールを壊し、才能や手柄があれば身分が低くても出世できるという画期的な「実力主義」のシステムを取り入れました。役人のレベルを「徳・仁・礼・信・義・智」の6つの儒教の言葉に大小をつけた12段階に分け、紫・青・赤・黄・白・黒のカラフルな「冠(かんむり)」の色で一目でランクが分かるようにしました。有能な人材を集め、天皇中心の強い国を作るための大改革です。
604年
604年、聖徳太子(厩戸皇子)が制定したとされる、日本で初めての文章で書かれたルール。当時の役人や貴族たちが守るべき道徳や心構えを全17条にまとめたものです。「和を以て貴しと為す」という争いを避けて話し合いを重視する精神や、仏教を深く信仰すること、そして何よりも「天皇の命令は絶対である」という天皇中心の国づくりの基本方針がハッキリと示されました。前年に定められた冠位十二階と共に、日本の政治のレベルを劇的に引き上げた歴史的な大改革です。
604年
斑鳩宮 建立
文化
604年
斑鳩宮(いかるがのみや)に聖徳太子が住む。
行事
607年
飛鳥時代、聖徳太子(厩戸皇子)と推古天皇が、亡き用明天皇の遺志を継いで奈良県の斑鳩(いかるが)の地に建立したと伝わる日本を代表するお寺。金堂や五重塔などの西院伽藍(さいいんがらん)は、現存する世界最古の木造建築物として世界的にも有名です。ギリシャ建築の影響を受けたと言われるエンタシス(胴張り)の柱など、大陸の進んだ文化を積極的に取り入れた飛鳥文化の最高傑作であり、1993年に姫路城と共に、日本で初めてユネスコの世界文化遺産に登録されました。
607年
第1次・遣隋使 帰国
外交
607年
第2次・遣隋使 派遣
外交
小野妹子らを隋へ送ったと記されているが、『隋書』では2回目と記載されているが、『日本書紀』には1回目の遣隋使がこの年と記されており、608年という説もある。
609年
法興寺 建立
文化
法興寺は、現在の奈良県高市郡明日香村にあり、後の飛鳥寺(あすかでら)となる。三宝の棟梁と称された渡来した高句麗の僧・慧慈(えじ)、百済の僧・慧聡(えそう)と住む。
622年
2月22日
聖徳太子 死去
死去
626年
5月20日
蘇我馬子 死去
死去
『日本書記』には蘇我馬子の遺体を桃原墓(ももはらのはか)を葬った記されている。桃原墓は、石舞台古墳(いしぶたいこふん、現:奈良県明日香村)が有力とされている。
628年
遣唐使 派遣(第1次・犬上御田鍬ら)
外交
628年
4月15日
推古天皇 崩御
死去
629年
舒明天皇 即位
官職
630年
8月5日
630年から632年にかけて、舒明天皇(じょめいてんのう)の命令により、日本史上初となる遣唐使(けんとうし)が派遣され、無事に帰国を果たした歴史的事件です。初代大使には最後の遣隋使でもあったベテラン外交官の犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)が選ばれました。彼らは命がけの航海の末、世界最大の帝国である唐の最新の政治や法律を学び、帰国時には唐の公式な使者である高表仁(こうひょうじん)や、24年間も中国で学んだ留学僧の旻(みん)を伴うことに成功しました。日本の政治を大きく進化させる決定的な契機となります。
640年
舒明天皇 崩御
死去
642年
2月19日
女帝・皇極天皇 即位
官職
642年
11月
聖徳太子の子・山背大兄王(やましろのおおえのおう)は、古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)を皇位継承者とする蘇我入鹿(そがのいるか)たちの軍に斑鳩宮を襲われ、斑鳩寺(現:法隆寺)で一族共に自害した。
行事
643年
11月1日
蘇我入鹿が山背大兄王一族を滅ぼす。
合戦
蘇我入鹿は、巨勢徳多(こせのとこた)、土師猪手(はじのいて)、大伴 長徳(おおとも の ながとこ)率いる100名の兵で山背大兄王一族がいる斑鳩宮(いかるがのみや)を攻めた。山背大兄王やその妃妾(ひしよう)など一族は、斑鳩寺で首を吊って自害した。
645年
6月
孝徳天皇 新政権発足
行事
大化の改新後、孝徳天皇による新政権が発足する。左大臣に阿倍内麻呂(あべのうちのまろ)、右大臣には蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)が任命された。
645年
6月12日
645年の乙巳の変で蘇我氏を滅ぼしたことに始まり、701年の大宝律令完成まで続く、日本を根本から変えた一連の政治大改革。それまでの豪族中心の政治から、天皇中心の政治へと大きく生まれ変わりました。翌年出された「改新の詔」では、土地と人々をすべて国のものにする公地公民のルールが定められました。中国(唐)をお手本にした新しい政治システムを作り上げ、「日本」という国名や「天皇」という呼び名もこの時期に誕生したとされています。
645年
6月12日
645年、中大兄皇子と中臣鎌足らが、当時の政治を牛耳っていた最大の権力者・蘇我入鹿を宮中(飛鳥板蓋宮)で暗殺した、日本史上最も有名なクーデター事件です。入鹿の父である蘇我蝦夷も自害に追い込まれ、長年権力を握っていた蘇我氏の本流は滅亡しました。この衝撃的な事件を皮切りに、天皇を中心とした新しい国づくりを目指す大化の改新という政治の大改革がスタート。長きにわたる日本の歴史の方向性を決定づけた、超重要なターニングポイントです。
645年
6月14日
皇極天皇 退位
官職
645年
6月14日
孝徳天皇 即位
官職
皇極天皇から弟の軽皇子(かるのみこ) へ譲位し、孝徳天皇が即位する。当初、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)へ譲ろうとしたが、乙巳の変が天皇になるためと思われるため断ったとされる。
645年
7月1日
645年、蘇我入鹿が暗殺された「乙巳の変(いっしのへん)」の直後、新しく即位した孝徳天皇(こうとくてんのう)によって定められた日本で最初の元号が「大化(たいか)」です。「大いなる徳で人々を教え導く」という意味が込められており、ここから天皇を中心とした新しい国づくりである「大化の改新」がスタートします。現在の「令和」まで続く、日本の元号の歴史の記念すべき第一歩となった、テストにも頻出する非常に重要な出来事です。
646年
1月1日
646年、中大兄皇子や中臣鎌足らが中心となり、新しい国づくりの基本方針として発表された4つの法令です。これを改新の詔(かいしんのみことのり)と呼びます。豪族が私有していた土地と人々を国家のものとする公地公民(こうちこうみん)をはじめ、新しい地方行政、戸籍と班田収授法、そして新しい税制(租・庸・調)の導入が宣言されました。日本が天皇を中心とした近代的な律令国家へと生まれ変わるための、歴史の決定的な転換点となった最重要の宣言です。
647年
2月
647年、孝徳天皇と中大兄皇子らが中心となり、役人の身分制度である七色十三階冠(ななしきじゅうさんかいかん)が制定されました。かつて聖徳太子が定めた冠位十二階(かんいじゅうにかい)を発展させたもので、役人のランクを13段階に細かく分け、7色の冠や高級な布の素材で身分を視覚的に区別しました。伝統的な大豪族もこのランク制度に組み込み、天皇中心の中央集権的な律令国家(りつりょうこっか)へと移行するための、歴史の重要な転換点となる制度改革です。
649年
649年(大化5年)、孝徳天皇と中大兄皇子が「大化の改新」の政治改革を進める中で制定した、朝廷の役人の身分を19段階に分けた制度です(冠位十九階)。聖徳太子の「冠位十二階」や、直前の「七色十三階冠」をさらに細かくアップデートしたもので、個人の能力に応じて役職を与え、古い豪族たちを天皇の支配下に組み込むことを目的としました。天皇を中心とする中央集権的な律令国家を完成させるための、歴史の重要な分岐点となる制度改革です。
649年
孝徳天皇、難波長柄豊崎宮 遷都(場所:摂津国・難波(大阪府北中部、兵庫県南東部))
行事
649年
3月17日
左大臣・阿倍内麻呂 死去
死去
649年
3月25日
右大臣・蘇我倉山田石川麻呂 自害
死去
石川麻呂は謀反を疑われ、妻子8人と共に法相宗の寺院・山田寺(やまだでら、現:奈良県桜井市山田)で自害した。山田寺は、石川麻呂の自害の後に完成して、蘇我倉山田石川麻呂が開基である。
651年
難波長柄豊崎宮 完成(なにわのながらのとよさきのみや かんせい、場所:摂津国・難波(大阪府北中部、兵庫県南東部))
文化
654年
11月24日
孝徳天皇 崩御
死去
655年
1月3日
斉明天皇へ重祚
官職
皇極上皇が斉明天皇へ重祚する。重祚とは、一度退いた天皇が再び即位すること。ちなみに日本で重祚した天皇は2人おり、いずれも女性の天皇で、皇極上皇が斉明天皇となり、孝謙天皇(こうけんてんのう)が称徳天皇(しょうとくてんのう)となる。
658年
蝦夷・粛慎征討
合戦
660年
3月
660年、日本の古くからの同盟国であった朝鮮半島の百済(くだら)が、超大国である唐と新羅の連合軍に攻め込まれて滅亡した事件です。東アジアのパワーバランスが大きく崩れ、百済の復興を支援しようとした日本が、のちの白村江の戦いへと巻き込まれていく歴史の決定的な契機となりました。この強烈な危機感が、天皇を中心とする強力な国づくり(律令国家の形成)を極めて早いスピードで進めることになります。
660年
5月
中大兄皇子 日本初の時計「漏剋」作成
行事
漏刻とは、遣唐使によって中国から伝えられた水時計のことで、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ、後の天智天皇(てんじてんのう))が初めて製造した。671年6月10日に実用化され、近江京(おうみきょう、場所:滋賀県大津市)で漏刻(水時計)を設置して時報と使用、時が来ると鐘や太鼓を鳴らして人々にを知らせたといわれる。この6月10日は「時の記念日」に制定されている。
662年
662年頃、祖国である百済の滅亡と白村江の戦いでの完全敗北により、日本に滞在していた百済の王子・善光(ぜんこう)が、帰る国を失い日本へ亡命(定住)した事件です。天智天皇は彼を手厚く保護し、「百済王(くだらのこにきし)」という特別な地位を与えて難波(大阪)に住まわせました。善光の子孫たちは日本の貴族として朝廷に仕え、最新技術で律令国家づくりに貢献し、のちの桓武天皇の血脈へと繋がる歴史の決定的な分岐点となりました。
663年
8月27日
663年、朝鮮半島の白村江(はくすきのえ)で起きた、古代の東アジアを巻き込む大規模な国際戦争。滅亡した同盟国・百済(くだら)を復活させようと、中大兄皇子が約2万7千の兵と約千隻の船を大派遣しましたが、超大国・唐(中国)と新羅(しらぎ)の最強連合軍の前に大惨敗を喫しました。この敗戦により、日本は朝鮮半島での影響力を完全に失い、「唐が日本に攻めてくる!」という強烈なパニック(国防の危機)に陥り、その後の国づくりに大きな影響を与えました。
666年
666年、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れて滅亡した百済(くだら)から、約2,000人もの男女が日本へ逃れてきた集団亡命事件です。彼らは渡来人(とらいじん)として日本に受け入れられました。祖国を失った彼らは、大陸の最新の学問、法律、建築技術、武器の製造方法などを日本に伝えました。 天智天皇(中大兄皇子)は彼らの知識をフル活用して防衛網を築き、天皇を中心とした律令国家を建設していきます。日本の文化と政治システムが飛躍的に進化する決定的な契機となりました。
667年
3月19日
近江大津宮 遷都
行事
中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が飛鳥から近江国・大津(現:滋賀県大津市)に都を移した。
668年
668年に生まれ、奈良時代に民衆への布教と巨大な社会事業を行った僧侶・行基(ぎょうき)の数奇な生涯です。当時の仏教は貴族のものであり、勝手な布教は法律で禁止されていましたが、彼は法を破ってでも貧しい農民たちを救い、ため池や橋を造り続けました。朝廷から激しい弾圧を受けながらも圧倒的な民衆の支持を得た行基は、やがて聖武天皇と歴史的な和解を果たし、東大寺の大仏造立という国家プロジェクトの最高責任者に大抜擢されます。日本の仏教が民衆のものへと変わる歴史の決定的な契機を作った偉人です。
668年
668年、天智天皇(てんじてんのう)の命令により作られたとされる、日本で最初の本格的な法律(法典)が「近江令(おうみりょう)」です。唐や新羅の脅威に対抗するため、天皇を中心とした強力な国造りを目指す中で編纂されました。中心となって作成したのは、大化の改新で活躍した中臣鎌足(藤原鎌足)だと言われています。現物は発見されておらず実在を疑う声もありますが、後の「大宝律令」へと繋がる、日本の律令国家への歩みを進めた歴史の重要な分岐点です。
668年
1月3日
668年、大化の改新を主導した中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が、ついに正式な天皇である天智天皇(てんじてんのう)として即位した歴史的事件です。白村江の戦いでの大敗という国家存亡の危機を受け、彼は都を内陸の近江大津宮(おうみおおつのみや)へ移し、強力な国防体制を築きました。そして即位後は、日本初の全国的な戸籍「庚午年籍(こうごねんじゃく)」を作成し、国家のルールである近江令を制定。天皇を中心とする強力な中央集権国家を形作る決定的な契機となりました。
668年
10月16日
中臣鎌足 臨終に藤原姓を賜る。(なかとみのかまたり りんじゅうにふじわらのせいをたまわる)
行事
669年
10月16日
中臣鎌足 死去
死去
670年
670年、天智天皇(てんじてんのう)の強力なリーダーシップのもとで作成された、日本史上初となる全国的な戸籍です(庚午年籍)。白村江の戦いでの大敗北後、唐や新羅からの防衛を急ぐため、国民を正確に把握して兵役や税金を課す必要がありました。人々の身分や氏姓(うじかばね)を確定させる基本台帳となり、後世の戸籍が作り直される際にも廃棄されず「永久保存」とされました。天皇を中心とする律令国家へと歩みを進める歴史の決定的な契機となった大事業です。
671年
大友皇子 太政大臣
行事
671年
6月10日
近江京 日本初の時報開始
行事
天智天皇(てんじてんのう)は、自らが作成した漏刻(水時計、ろうこく)を近江京(おうみきょう、場所:滋賀県大津市)に設置して時報と使用、時が来ると鐘や太鼓を鳴らして人々にを知らせたといわれる。この6月10日は「時の記念日」に制定されている。
671年
12月3日
天智天皇 崩御
死去
671年
12月5日
大友皇子 弘文天皇 即位
官職
672年
乃楽山の戦い(大和国、現:奈良県)
合戦
672年
当麻の戦い(大和国、現:奈良県)
合戦
672年
倉歴の戦い(伊賀国、現:三重県西部)
合戦
672年
倭京の戦い(大和国、現:奈良県)
合戦
672年
葦池の戦い(大和国、現:奈良県)
合戦
672年
箸墓の戦い(大和国、現:奈良県)
合戦
672年
息長横河の戦い(近江国、現:滋賀県)
合戦
672年
安河浜・栗太の戦い(近江国、現:滋賀県)
合戦
672年
瀬田橋の戦い(近江国、現:滋賀県)
合戦
672年
6月24日
672年、天智天皇の死後に起きた、古代日本における最大規模の内乱(跡目争い)です。これを壬申の乱(じんしんのらん)と呼びます。天皇の息子である大友皇子(おおとものみこ)と、天皇の弟である大海人皇子(おおあまのみこ)が、次の天皇の座を巡って激突しました。結果は、地方の豪族たちを味方につけた弟・大海人皇子が、現役の政府軍(近江朝廷)を打ち破るという歴史的な大逆転勝利!勝った大海人皇子は天武天皇として即位し、天皇の権力を絶対的なものにする強力な国づくり(律令国家の建設)を猛スピードで進めていくことになります。
673年
2月27日
673年、古代最大の内乱である壬申の乱に勝利した大海人皇子(おおあまのおうじ)が、新しい都・飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)で天武天皇(てんむてんのう)として即位した歴史的事件です。彼は豪族を排除して皇族だけで政治を行う強力な独裁体制(皇親政治)を敷き、天皇の権力を絶対的なものにしました。「天皇」という称号や「日本」という国号が使われ始めたのもこの頃とされ、天皇を中心とする強力な律令国家が形作られる、歴史の決定的な転換点となりました。
681年
飛鳥浄御原令 編纂開始
行事
684年
10月
684年、天武天皇(てんむてんのう)が古い身分制度を改め、新しく編成した天皇中心の身分制度です。これを八色の姓(やくさのかばね)と呼びます。上から順に「真人(まひと)、朝臣(あそみ)、宿禰(すくね)、忌寸(いみき)、道師(みちのし)、臣(おみ)、連(むらじ)、稲置(いなぎ)」の8つのランクが定められました。天皇の親戚や忠実な家臣を上のランクに引き上げ、古い名門豪族を格下げすることで、天皇の権力を絶対的なものにする歴史の重要な契機となりました。
686年
9月9日
天武天皇 崩御
死去
689年
689年、持統天皇の命により施行された全22巻からなる法典が飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)です。大国である唐(中国)に負けない国づくりを目指した亡き天武天皇の遺志を継ぎ、役所の仕組みや行政のルール(令)を明確に定めました。原本は現存しませんが、この法典に基づいて全国的な戸籍である「庚寅年籍(こういんねんじゃく)」が作成されました。天皇を中心とする律令国家の建設に向けた、歴史の決定的な契機となった重要な法律です。
690年
690年、持統天皇(じとうてんのう)の命によって作成された全国規模の戸籍が庚寅年籍(こういんねんじゃく)です。天智天皇が作った日本初の戸籍である庚午年籍(こうごねんじゃく)を受け継ぎ、施行されたばかりの飛鳥浄御原令に基づいて作成されました。この戸籍により、すべての人々に土地を分け与えて税を取り立てる班田収授法(はんでんしゅうじゅほう)が本格的にスタートし、「6年に1度戸籍を作り直す」というルールが確立しました。天皇を中心とする律令国家の土台を完成させる歴史の決定的な契機となった重要な政策です。
690年
1月1日
持統天皇 即位
官職
694年
12月
694年、持統天皇(じとうてんのう)が飛鳥(現在の奈良県)に建設した、日本初の本格的な中国風(唐風)の都が藤原京(ふじわらきょう)です。これまでの天皇一代ごとに引っ越すプレハブのような宮殿とは違い、道路が碁盤の目状に整備された条坊制(じょうぼうせい)という最新のデザインが取り入れられました。亡き夫・天武天皇の夢を引き継いで完成させたこの都から、日本は「天皇を中心とした強力な国家(律令国家)」として本格的に動き出します。テストに頻出する超重要キーワードです。
697年
8月1日
文武天皇 即位
官職
701年
3月21日
藤原不比等(ふじわらのふひと)、正三位大納言に任ぜられる。
官職
701年
8月
701年、唐(中国)の進んだ法律をお手本にして作られた、日本初の本格的で完璧な法律のセット。悪いことをしたときの罰則を決めた「律(りつ)=刑法」と、政治の仕組みや人々の生活のルールを決めた「令(りょう)=行政法・民法」から成り立っています。この大宝律令の完成により、天皇を頂点として国全体をルールでガッチリと管理する律令国家(りつりょうこっか)の仕組みが完成しました。大化の改新から始まった「天皇中心の強い国づくり」が、ついにゴールを迎えた歴史的瞬間です。
703年
12月22日
持統天皇 崩御
死去
707年
6月15日
文武天皇 崩御
死去
707年
7月17日
元明天皇 即位
官職
708年
1月11日
藤原不比等(ふじわらのふひと)、正二位に任ぜられる。
官職
708年
3月13日
藤原不比等(ふじわらのふひと)、右大臣に任ぜられる。
官職
708年
5月11日
708年、武蔵国(現在の埼玉県)で質の良い銅が発見されたことを記念して「和銅」と元号を改め、日本で初めて本格的に流通した公式な貨幣(お金)である和同開珎が発行されました。唐(中国)の「開元通宝」というお金を真似て作られた丸い形で真ん中に四角い穴が空いた銅銭です。国は「これからはお米や布の代わりに、このお金を使って税金を払ったり買い物をしたりしなさい!」と人々に強制的に使わせようとしましたが、すぐには浸透しませんでした。
710年 〜 794年
710年に元明天皇が平城京に都を移してから、794年に平安京へ移るまでの約80年間。大宝律令による天皇中心の強い国づくりが進められましたが、農民たちは租・庸・調という重い税金に苦しみました。さらに疫病や反乱が続いたため、聖武天皇は仏教の力で国を平和にしようと東大寺の大仏を造ります。遣唐使がもたらした国際色豊かな天平文化が花開き、『古事記』や『万葉集』などの歴史書・文学が完成したのもこの時代。華やかさと人々の苦しみが交差する、古代国家のピークと言える時代です。
710年
3月
710年、元明天皇によって藤原京から奈良の平城京へと都が移されました。「なんと(710)立派な平城京」の語呂合わせでおなじみですね。大宝律令で整備された国づくりの総仕上げとして、唐(中国)の首都・長安をモデルに造られた、碁盤の目のような区画(条坊制)を持つ巨大な国際都市です。ここから約80年続く奈良時代が始まり、シルクロードを通って伝わった国際色豊かな天平文化が華やかに花開きました。現在、平城宮跡は世界文化遺産に登録されています。
712年
1月28日
712年(和銅5年)、元明天皇の命により完成し献上された、現存する日本最古の歴史書です。天武天皇の発案から約30年、天才的な記憶力を持つ稗田阿礼(ひえだのあれ)が暗唱した歴史を、文官の太安万侶(おおのやすまろ)が漢字を工夫して書き記し、全3巻にまとめ上げました。上巻は神々の誕生から建国までの神話、中・下巻は初代神武天皇から第33代推古天皇までの歴史をドラマチックに描いています。天皇が日本を支配する正当性を国内に示し、のちの『日本書紀』へと繋がる国家確立の決定的な契機となりました。
712年
9月23日
出羽国 成立(でわのくに せいりつ、現:山形県、秋田県)
行事
713年
5月
『風土記』編纂
行事
元明天皇の命により、日本の地方における風土、文化、産物、地形、古伝説や地名の由来などを記した書物を作成を開始した。
715年
5月25日
遠江国地震
天災
遠江国(現:静岡県)で大地震が発生。この地震により天竜川が堰き止められ、10日後に決壊して洪水が発生、死者が多数でており、田も損害を受けた。
715年
9月
元明天皇 退位
官職
715年
9月
元正天皇 即位
官職
717年
郷里制 施行
政治
大宝律令により施行された地方行政、官制の方式である国郡里制(こくぐんりせい)を改正。人口増加と耕地面積の拡大に対応して、地方行政を徹底させるために里を郷と改称してその下に新たに里を設置した。
718年
718年、最高権力者であった藤原不比等(ふじわらのふひと)の主導によって、日本の基本となる法律「養老律令(ようろうりつりょう)」の編纂(作成)が始まりました。これは、以前の大宝律令を当時の社会の状況に合わせてアップデート(マイナーチェンジ)したものです。しかし、編纂中に不比等が亡くなったことなどから、実際に法律として施行(スタート)されたのはなんと39年も後の757年でした。奈良時代の律令国家の完成を象徴する重要な法律です。
720年
720年(奈良時代)、天武天皇の命令から約40年という長い歳月をかけて完成した、日本の公式な歴史書(正史)。舎人親王(とねりしんのう)がリーダーとなって編纂し、神々の時代から飛鳥時代の持統天皇までが時系列で記録されています。国内向けの『古事記』に対し、『日本書紀』は外国(中国など)に日本の立派さをアピールするために漢文で書かれたのが特徴です。天皇家の正当性を主張する国家プロジェクトであり、古代日本を知るための最も重要な史料の一つです。
720年
羊太夫の乱(上野国、現:群馬県)
合戦
720年
2月
隼人の反乱
合戦
九州南部に住む隼人が朝廷に対して起こした反乱。大隅国(現:鹿児島県東部)で発生し、戦いは1年半近く行われた。結果、隼人側の敗北となり、朝廷の支配下となる。
720年
3月
大伴旅人 征隼人持節大将軍 任命
官職
720年
8月
藤原不比等 死去
死去
721年
1月
長屋王(ながやおう)、右大臣に任ぜられる。
官職
722年
4月25日
百万町歩開墾計画 発令
政治
人口増加によって民に与える口分田が不足したため、多くの土地を開墾して田を増やすために出された長屋王(ながやおう)による政府の計画。奥羽国(でわのくに、現:東北地方)に向け出された理想である。
723年
悲田院 設置
政治
藤原不比等の子・光明子(こうみょうし、後:聖武天皇の妻・光明皇后)が仏教の慈悲の思想に基づいて、身寄りのない老人や貧しい人や孤児(親のない子供)たちを救うために作られた施設。難波京や平城京内の興福寺に設けられた。
723年
施薬院 設置
政治
藤原不比等の子・光明子(こうみょうし、後:聖武天皇の妻・光明皇后)が仏教の慈悲の思想に基づいて、貧しい病人や怪我や病気で苦しむ人を救うために薬を与え、無料で治療をした施設。難波京や平城京内の興福寺に設けられた。
723年
4月17日
723年(養老7年)、人口増加による田んぼの不足を解消するため、奈良時代の政府が出した法令です(三世一身法)。新しく用水路を作って田んぼを開墾した者には「三代(本人・子・孫)」にわたって、古い用水路を利用した者には「一代(本人)」に限って、その土地の私有を認めるという内容でした。しかし、期限が近づくと農民が耕すのをやめて土地が荒れ果ててしまったため、のちに永久の私有を認める墾田永年私財法へと繋がり、公地公民の原則が崩れていく歴史の分岐点となりました。
724年
鎮守府(ちんじゅふ)が、陸奥国の支配、多賀城(たがじょう、現:宮城県多賀城市)を築城する。
政治
724年
2月
元正天皇 退位
官職
724年
2月
長屋王(ながやおう)、左大臣に任ぜられる。
官職
724年
2月4日
724年、奈良時代を代表する天皇である聖武天皇(しょうむてんのう)が即位した歴史の重要ドミノです。彼は、日本で初めて「藤原氏の血を引くお母さん」から生まれた天皇でした。この即位により、藤原一族が天皇の親戚として絶大な権力を握る土台が完成します。彼の時代は、大地震や疫病などのパニックが連続しましたが、それを乗り越えるために東大寺の大仏や国分寺を造り、シルクロードの影響を受けた華やかな天平文化を花開かせた激動の時代となりました。
724年
3月25日
陸奥海道の蝦夷の反乱
合戦
724年
4月
藤原宇合 征隼人持節大将軍 任命
官職
728年
6月
遣渤海使 派遣
行事
渤海国の使節が訪日をしたのを機に日本が渤海に派遣した使節である。第一次遣渤海使の正使として貴族・引田虫麻呂(ひけたのむしまろ)らが渤海に向け出発した。728年から811年までの間に14回と記録がある。渤海(ぼっかい)とは、中国北東部(現:遼東半島(りょうとうはんとう)、北朝鮮を含む北東側)にあった国。
729年
2月10日
729年(神亀6年)、奈良時代前期の政治を主導していた天武天皇の孫・長屋王(ながやおう)が、無実の罪を着せられて妻子とともに自害に追い込まれた政変です。天皇の正妻である「皇后」には皇族の女性しか就けないという絶対的なルールがありましたが、藤原四兄弟は妹の光明子(こうみょうし)を聖武天皇の皇后にしようと企てました。これに猛反対する長屋王を排除するため、四兄弟は「国家を傾ける妖術を使っている」と密告させ、長屋王を死に追いやりました。藤原氏の権力独占へ向けて歴史の端緒を開いた重大な事件です。
729年
8月
年号「天平」改元
行事
729年
8月10日
藤原不比等の子・光明子(こうみょうし)が聖武天皇の妻・光明皇后(こうみょうこうごう)となる。
他
730年
興福寺五重塔 建立
文化
光明皇后(こうみょうこうごう)の発願により興福寺(こうふくじ)に五重塔が建てられることになる。興福寺は、現在の奈良県奈良市登大路町に存在する藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院である。
731年
7月25日
大伴旅人 死去
死去
732年
遣新羅使
行事
遣新羅使とは、日本が新羅に派遣した使節(新羅使(しらぎし))のこと。
732年
6月20日
遣新羅使 派遣
行事
日本が朝鮮半島の新羅に派遣した使節である。第一次遣渤海使の正使として学者・高向玄理(たかむこのくろまろ)らが新羅に向け出発した。780年に正規の遣新羅使は停止され、28回派遣したと記録がある。
734年
4月
畿内七道地震
天災
畿内(現:関西地方)を中心として発生した大地震。地割れ、山崩れ、川が塞がりなどが発生して、民衆の家が倒壊して、多くの者が圧死したと記録がある。
737年
桓武天皇が生まれる
誕生
桓武天皇は、光仁天皇(こうにんてんのう)と夫人・高野新笠(たかののにいがさ)の間に生まれる。
737年
天然痘 大流行
行事
737年
737年、奈良時代の政治を独占していた藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)が、当時猛威を振るっていた疫病の天然痘(てんねんとう)に感染し、わずか数ヶ月の間に全員病死してしまった未曾有の大事件です。政権のトップが全滅したことで朝廷は大パニックに陥り、藤原氏の勢力は一時的に大きく後退しました。代わって橘諸兄が政権を握りますが、これに不満を持った藤原氏による反乱や、社会不安に怯えた聖武天皇による大仏造立へと繋がる、奈良時代の決定的な契機となった歴史の転換点です。
738年
1月13日
橘諸兄 右大臣 任命
官職
738年
7月
長屋王(ながやおう)の冤罪(えんざい)が判明する。
行事
738年
12月
藤原広嗣 太宰府へ左遷
行事
740年
8月29日
740年(天平12年)、九州の大宰府で起きた藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)による大規模な反乱です。当時の朝廷で権力を握っていた橘諸兄(たちばなのもろえ)や、彼を支える吉備真備(きびのまきび)、玄昉(げんぼう)への不満が爆発し、広嗣が大軍を率いて挙兵しました。反乱はわずか2ヶ月で鎮圧されましたが、この事件に大きなショックを受けた聖武天皇(しょうむてんのう)は、都を次々と移し替える「彷徨(ほうこう)」を開始し、やがて大仏を造るという一大プロジェクトへと繋がっていきます。奈良時代の政治の混乱を象徴し、国の形を大きく変える決定的な契機となった重要な事件です。
740年
10月23日
値嘉島(ちかのしま、現:.長崎県・五島列島、平戸島など)に潜伏していた藤原広嗣、綱手(つなて)の兄弟は、安倍黒麻呂(あべのくろまろ)によって捕らえられる。
行事
740年
11月
藤原広嗣、綱手兄弟 処刑
死去
大野東人(おおののあずまびと)は、肥前国・松浦郡唐津(現:佐賀県唐津市)で藤原広嗣と綱手の兄弟を斬首とした。
740年
12月15日
740年、聖武天皇(しょうむてんのう)が長年住み慣れた平城京を突如として捨て、現在の京都府木津川市にあたる恭仁京(くにきょう)へ都を移した歴史的事件です。当時は大地震や天然痘(てんねんとう)の大流行によって社会が混乱し、九州で藤原広嗣の乱が勃発していました。反乱の恐怖と社会不安から逃れるように、天皇は難波宮や紫香楽宮へと5年間にわたって都を転々とします(聖武天皇の彷徨)。この遷都は、天皇が仏教の力で国家を守ろうと決意する歴史の決定的な契機となりました。
741年
2月14日
741年、聖武天皇(しょうむてんのう)が、仏教の力で国家の災いを鎮める「鎮護国家(ちんごこっか)」の思想に基づき、日本全国の各国に国分僧寺と国分尼寺を建立するよう命じた歴史的な法令です。当時、天然痘の大流行や藤原広嗣の乱、度重なる自然災害により国家は存亡の危機にありました。天皇はこの危機を乗り越えるため、各国に七重塔を建て、自ら写経した『金光明最勝王経』を納めさせました。のちの大仏造立(東大寺)へと繋がる一大国家プロジェクトであり、仏教を国家の柱と定める歴史の決定的な契機となりました。
742年
1月
太宰府 廃止
行事
742年
8月
聖武天皇、近江国・紫香楽宮(しがらきのみや、現:滋賀県甲賀市)を造営する。
政治
743年
5月
橘諸兄 左大臣 任命
官職
743年
5月27日
743年、聖武天皇の時代に出された「新しく開拓した田んぼ(墾田)は、永久に自分の土地にしていいよ!」という国家ルールの歴史的な大変更です。大化の改新で決めた「土地も人もすべて国のもの」という公地公民の原則が、わずか100年足らずで崩れるターニングポイントとなりました。この法律を利用して、お金持ちの貴族やお寺が広大な私有地である荘園(しょうえん)を拡大し、のちの武士の誕生へと繋がっていく超重要な法令です。
743年
10月
天武天皇の孫・塩焼王(しおやきおう)伊豆国に配流される。
行事
743年
10月15日
743年(天平15年)、聖武天皇(しょうむてんのう)が「仏教のパワーで日本を平和にしたい!」と願い、巨大な大仏(盧舎那仏:るしゃなぶつ)を造るよう命じた宣言です。これを大仏建立の詔(だいぶつこんりゅうのみことのり)と呼びます。当時の日本は、恐ろしい疫病(天然痘)のパンデミックや大地震、貴族の反乱など、まさに地獄絵図のような大パニック状態でした。「国家の危機を、国民全員が協力して仏様にすがることで乗り越えよう」と考えた聖武天皇は、カリスマ僧侶である行基(ぎょうき)の協力も得て、のちに東大寺の大仏となる国家的一大プロジェクトをスタートさせました。
743年
12月
恭仁京 造営中止
行事
744年
2月
難波宮 遷都
政治
745年
1月
行基、大僧正 任命
官職
行基は、日本で初めて僧の最高位である「大僧正」の位を贈られました。僧正には、大僧正、権大僧正、僧正、権僧正の4つの位があり大僧正が僧官制の頂点に位置づけれている。行基は、奈良時代の僧侶で朝廷が寺や僧が自由に仏教を布教することを禁止していた当時、多くの人々に仏の教えを伝えた人物。 また、貧しい人たちには食べ物を与えたり、宿泊先を提供したり、寺院や橋、ため池、治水など様々人々の生活に役立つ社会事業にも尽力した。後に聖武天皇は、行基の実績と能力が認め、奈良の大仏(東大寺)造立の責任者に任命する。
745年
1月
紫香楽宮 還都
政治
745年
4月27日
天平地震
天災
美濃国(現:岐阜県)を中心として発生した地震。大きな地震、余震が7日続いたとされ、寺院や民家が倒壊したとされる。この災いに聖武天皇(しょうむてんのう)は、難波宮から平城京へ遷都する。
745年
5月
平城京 還都
政治
745年
6月
太宰府 再び設置
行事
747年
新薬師寺 建立
文化
新薬師寺は、聖武天皇、光明皇后が創立したと伝える奈良県奈良市高畑町にある華厳宗の寺院である。
747年
東大寺大仏(とうだいじだいぶつ、盧舎那仏(るしゃなぶつ))の鋳造が始まる。
経済
749年
2月
行基 死去
死去
行基は、多くの人々に仏の教えを伝えるだけでなく、貧しい人たちには食べ物を与えたり、宿泊先を提供したり、寺院や橋、ため池、治水など様々人々の生活に役立つ社会事業に貢献した人物。日本で初めて僧の最高位である「大僧正(だいそうじょう)」になった僧侶。自らが建立した喜光寺(きこうじ、現:奈良県奈良市菅原町)に眠る。
749年
4月
聖武天皇、東大寺 行幸
行事
聖武天皇、東大寺に行幸して大仏の前に着座し、仏の僕(しもべ)を意味する「三宝の奴」(さんぼうのやっこ)と称した。
749年
7月
聖武天皇 退位
官職
749年
7月
孝謙天皇 即位
官職
749年
7月
年号「天平勝宝」改元
行事
750年
1月
吉備真備(きびのまきび)、筑前守(ちくぜんのかみ)に左遷される。
行事
752年
4月
東大寺 大仏開眼供養
行事
753年
12月20日
753年、唐(中国)の高僧である鑑真(がんじん)が、日本に正しい仏教のルールである戒律(かいりつ)を伝えるために来日を果たした出来事です。日本からの熱心な招待に応じた鑑真でしたが、嵐による難破や弟子たちの密告などにより5度も渡航に失敗しました。その苦難の旅の中で両目の視力を完全に失いながらも、12年の歳月をかけて6度目の航海でついに日本の土を踏みました。日本の仏教界を正しく整備し、華やかな天平文化の発展に大きく貢献した、歴史の決定的な契機となる偉大な足跡です。
754年
4月
鑑真、東大寺に戒壇を築く。
行事
鑑真は、東大寺の戒壇(かいだん)を築き、聖武天皇を始めとする430人に授戒を行った。戒壇とは、仏教用語で授戒(じゅかい、戒律を授けるため)の場所であり、授戒とは、仏様の前で戒律を守ると誓い、仏教徒、弟子として認められ仏僧となるための儀式、またはそのことである。
756年
5月
聖武天皇 崩御
死去
757年
757年、藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)の主導によって施行された国家の基本法典が養老律令(ようろうりつりょう)です。実はこの法律、彼の祖父である藤原不比等(ふじわらのふひと)が718年に完成させていたものでしたが、長らくお蔵入りになっていました。先行する大宝律令の内容を実情に合わせて微修正したもので、内容に大きな変更はありませんでしたが、仲麻呂が自らの権力基盤を固めるために引っ張り出して施行しました。この後、平安時代まで長く日本の基本法として使われ続けることになります。
757年
1月
橘諸兄 死去
死去
757年
7月
橘奈良麻呂の乱
合戦
橘奈良麻呂が藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)を滅ぼそうと、淳仁天皇(じゅんにんてんのう)の廃立を企てたが、密告により未遂に終わった政変。橘奈良麻呂、道祖王(ふなどおう、黄文王(きぶみおう)、大伴 古麻呂(おおとものこまろ)などの首謀者は、拷問され死亡したとされる。
758年
藤原仲麻呂による新羅征討計画
合戦
758年
8月
孝謙天皇 退位
官職
758年
8月
淳仁天皇 即位
官職
758年
8月25日
藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)が恵美押勝(えみのおしかつ)の名を賜り、改名する。
行事
759年
第2次新羅征討
行事
藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)は大宰府をはじめ諸国の防備することを命じ、新羅征伐の準備をはじめる。原因は、新羅が日本の使節に無礼な扱いをしたことだった。兵士・約40,000人、軍船・約400隻の計画を立てたが、孝謙上皇と仲麻呂との不仲により上手くまとまらず計画倒れとなる。
759年
759年、唐(中国)から命がけで来日した高僧・鑑真(がんじん)が、奈良の都に唐招提寺(とうしょうだいじ)を建立した出来事です。当時の日本には僧侶になるための正式なルール(戒律)がなかったため、鑑真は5回もの渡航失敗と失明という大きな苦難を乗り越えて来日しました。東大寺で聖武天皇らに戒律を授けた後、私寺としてこの寺を開きました。日本の仏教が国家の制度として本格的に整えられ、国際色豊かな天平文化が大きく花開く決定的な契機となった重要な歴史イベントです。
759年
1月
759年頃に完成したとされる『万葉集』は、日本に現存する最古の和歌集です。全20巻の中に約4500首もの歌が収められており、天皇や貴族だけでなく、農民や九州を警備する防人(さきもり)など、あらゆる身分の人々の歌が記録されています。編纂には貴族の大伴家持(おおとものやかもち)が深く関わったとされ、漢字の音だけを借りて日本語を表す万葉仮名(まんようがな)が用いられました。日本独自の文字と文学が発展し、のちの国風文化へと繋がる歴史の決定的な契機となった極めて重要な文化遺産です。
760年
1月
藤原仲麻呂、太政大臣 任命
官職
760年
6月
光明皇后 崩御
死去
764年
9月
764年、奈良時代の政治のトップに立っていた藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)が、権力を取り戻すために起こした大規模な反乱です。天皇から「恵美押勝」という特別な名前をもらっていたため、恵美押勝の乱(えみのおしかつのらん)とも呼ばれます。引退したはずの孝謙上皇とお坊さんの道鏡(どうきょう)が政治に口を出してきたことに怒り、軍隊を動かしてクーデターを狙いました。しかし、天才軍師である吉備真備(きびのまきび)の活躍によって反乱は失敗。仲麻呂一族は滅亡し、これによって道鏡の権力が一気にトップへと駆け上がる歴史の重要ドミノとなりました。
764年
10月
称徳天皇へ重祚
官職
孝謙上皇が重祚して称徳天皇となる。重祚とは、一度退いた天皇が再び即位すること。ちなみに日本で重祚した天皇は2人おり、いずれも女性の天皇で、皇極上皇が斉明天皇となり、孝謙天皇(こうけんてんのう)が称徳天皇(しょうとくてんのう)となる。
765年
8月
和気王 処刑
死去
和気王は、称徳天皇に跡継ぎがいないことから、自らがその皇位が望んで謀反を企てた。死霊が乗り移る巫女として有名な紀益女(きのますめ)にまじないを依頼して、謀反の成功を祈った。しかし、謀反の計画が発覚すると、伊豆国へ流罪となる。配流の途中、絞殺されて死亡する。
765年
10月
道鏡、太政大臣禅師 任命
官職
太政大臣禅師とは、仏教と政治の最高権力を持つ位として、道鏡のために用意された職で称徳天皇が任命した。
765年
10月23日
淳仁天皇 自害
行事
淳仁天皇は、孝謙上皇と対立しており、上皇から国家の大事と賞罰の権を奪った。また、藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)と通じて道鏡との関係を断ち切ろうとしていた。乱の後、淡路国(現:兵庫県淡路島)へ流罪となりに幽閉され、自害をした。
766年
10月
道鏡、法王 任命
官職
道鏡は、称徳天皇の引立てにより、宗教界の最高の位であり、宗教上では天皇よりも身分が高い「法王」となった。
767年
8月18日
最澄 誕生
誕生
天台宗の開祖として知られる最澄(別名:伝教大師、でんぎょうだいし)が近江国に生まれる。唐(現:中国)に渡って仏教を学び、帰国後に比叡山延暦寺を建て、天台宗を開いた。
769年
7月
769年、皇族ではないお坊さんの道鏡(どうきょう)が、神様のお告げを捏造して日本のトップ(天皇)になろうと企んだ前代未聞のクーデター未遂事件です。これを宇佐八幡宮神託事件(うさはちまんぐうしんたくじけん)と呼びます。道鏡は称徳天皇(しょうとくてんのう:女性の天皇)の寵愛を受けて権力の絶頂にいましたが、お告げの真偽を確かめに行った忠臣・和気清麻呂(わけのきよまろ)の決死の報告により、野望は阻止されました。この事件の後、「もう絶対に女性を天皇にするのはやめよう(お坊さんに騙されるから)」というルールが暗黙の了解となり、平安時代への歴史の転換点となりました。
770年
1月
阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)が、唐(現:中国)で国家の試験に合格して登用され、唐朝の高官となったが、日本に帰国が叶わず、客死(かくし)する。「客死」とは、主に外国などの旅先で死亡すること。
行事
770年
8月
称徳天皇 崩御
死去
770年
8月
770年、称徳天皇(しょうとくてんのう)の深い寵愛を受けて権力の頂点に立っていた僧侶の道鏡(どうきょう)が、天皇の崩御(死去)に伴って一気に失脚し、追放された事件です。道鏡は看病をきっかけに異例の大出世を遂げ、あわや天皇の座を奪う寸前までいきました(宇佐八幡宮神託事件)。しかし最大の理解者であった天皇が亡くなると、反発していた貴族たちによって直ちに下野国(栃木県)へ左遷されます。僧侶による行き過ぎた政治介入が終わりを告げ、後の平安京遷都へと繋がる歴史の決定的な契機となりました。
770年
10月
光仁天皇 即位
官職
770年
10月
吉備真備 右大臣 辞職却下
行事
吉備真備は、高齢を理由に右大臣の辞職を光仁天皇(こうにんてんのう)に願いでるが、中衛大将のみ辞任となり右大臣を続けた。
771年
2月
左大臣・藤原永手 死去
死去
771年
9月
吉備真備 右大臣 辞職
行事
吉備真備は、高齢を理由に右大臣の辞職を再度、光仁天皇(しらかべおう)に願いでて許可され、政界より引退した。
772年
4月
道鏡 死去
死去
774年
桃生城襲撃事件(陸奥国、現:宮城県)
合戦
774年
宝亀五年の征夷(陸奥国、現:宮城県)
合戦
774年
8月18日
空海 誕生
誕生
真言宗の開祖として知られる空海(別名:弘法大師、こうぼうだいし)が讃岐国・多度郡屏風浦(さぬきのくに・たどのこおりびょうぶがうら、現:香川県善通寺)に生まれる。唐(現:中国)に渡って仏教を学んでいた空海だが、師・恵果阿闍梨(けいかあじゃり)から、早く故郷に戻って密教を流布しなさいと諭され、わずか2年で日本に帰国する。帰国後、高野山に総本山金剛峯寺を建て、天台宗を開いた。書に優れ、橘逸勢(たちばなのはやなり)、嵯峨天皇(さがてんのう)とともに三筆(さんぴつ)の一人としても有名である。
775年
10月
吉備真備 死去
死去
776年
宝亀七年の征夷(陸奥国、現:宮城県)
合戦
780年
3月
宝亀の乱
合戦
伊治公呰麻呂(これはるのきみあざまろ)が陸奥国、出羽国(現:東北地方)で多賀城(たがじょう、現:宮城県多賀城市)を占拠して按察使(あぜち)を殺害、放火するなどした反乱。伊治城(いじじょう、現:宮城県栗原市)、多賀城の物資を略奪して焼失させたが、呰麻呂は捕らえられることなく、朝廷の討伐軍が撤退で戦いに幕を閉じた。按察使とは、地方行政を監督する官職で国司の国や民を治める能力や功績を調査、監督する役職である。
781年
1月12日
藤原魚名 左大臣 任命
官職
781年
4月
光仁天皇 退位
官職
781年
4月
桓武天皇 即位
官職
782年
1月
氷上川継の乱
合戦
天武天皇の曾孫で塩焼王の子・氷上川継が謀反の計画をするが、事前に発覚して失敗した反乱未遂事件。川継は死罪は逃れ、妻と共に伊豆国への流罪となり、母、姉妹は淡路国へ流された。
782年
6月14日
藤原魚名 左大臣 罷免
行事
782年
12月23日
光仁天皇 崩御
死去
784年
11月11日
784年、桓武天皇(かんむてんのう)が約70年続いた平城京から山城国(京都府)の長岡京(ながおかきょう)へ都を移した歴史的な出来事です。最大の目的は、政治に深く口出ししてくる奈良の仏教勢力(巨大な寺院や僧侶たち)から離れ、天皇中心の新しい政治を立て直すことでした。さらに、川を利用した水上交通が便利な場所を選ぶことで、税金として集められる物資をスムーズに運ぶ狙いもありました。しかし、関係者の暗殺や怨霊の噂など不幸が重なり、わずか10年で平安京へ再遷都することになる、波乱に満ちた都の移動でした。
夜
785年(延暦4年)、長岡京の造営最高責任者であった藤原種継(ふじわらのたねつぐ)が、建設現場の視察中に何者かに矢で射殺された暗殺事件です。事件の首謀者として大伴継人らが処刑され、さらに桓武天皇の弟である皇太弟・早良親王(さわらしんのう)が黒幕として捕らえられ、無念の餓死を遂げました。この後、都に疫病や身内の不幸が相次いだため「早良親王の怨霊の仕業」と恐れられ、わずか10年で長岡京を捨てて平安京へ遷都する歴史の決定的な契機となった重大な事件です。
788年
天台宗の開祖・最澄、比叡山に一乗止観院(いちじょうしかんいん)を建立し、延暦寺の基を開いた。
文化
789年
延暦八年の征夷(陸奥国、現:岩手県)
合戦
789年
巣伏の戦い(陸奥国、現:岩手県奥州市)
合戦
794年 〜 899年
794年、桓武天皇が都を京都の平安京に移してから約400年続く平安時代の最初の約100年間です。「鳴くよ(794)ウグイス平安京」の語呂合わせでおなじみですね。この時期は、天皇が自ら政治を引っ張り、東北地方の蝦夷(えみし)を平定したり、最澄や空海が新しい仏教(天台宗・真言宗)を広めたりと、エネルギーに満ち溢れていました。しかし後半になると、天皇の親戚となった藤原氏が政治の実権を握る「摂関政治」の土台が作られ、さらには遣唐使の廃止によって日本独自の文化へと向かう準備が整っていく激動の時代です。
794年
延暦十三年の征夷(陸奥国、現:岩手県)
合戦
794年
10月
794年、桓武天皇(かんむてんのう)が現在の京都市に新しい都を移した超重要イベントです。これが平安京(へいあんきょう)です。「鳴くよ(794)ウグイス平安京」の語呂合わせでおなじみですね。政治に口出ししてくる奈良のお坊さんたちから逃れ、天皇の権力を強くするために引っ越しを決意しました。この日から1185年の鎌倉幕府成立(諸説あり)まで、約400年も続く平安時代がスタートします。日本独自の華やかな貴族文化(国風文化)が花開く、歴史の大きなターニングポイントです。
795年
如空から空海へ改名
行事
空海は、僧侶として教海(きょうかい)と名乗っていましたが如空と名乗るようになる。そして、空海が22歳の時に東大寺で受戒し、如空から空海と改名した。諡号(しごう)を弘法大師(こうぼうだいし)という。
796年
11月
隆平永宝 発行
行事
隆平永宝は、日本で鋳造、発行された銅の貨幣(銭貨、せんか)。皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん)の4番目にあたる。通貨に刻まれている「隆平永宝」の文字は、桓武天皇と空海が書いたとされる。
797年
勘解由使 設置
政治
勘解由使とは、中央から派遣された国司(こくし、例:都道府県知事のような役人)による不正等を調査、監視する令外官(りょうげのかん)。当時は、国司などによる不正が多く、民衆から過剰な税を取って人々を苦しめ、その分を国に納めず自分の取り分とする者もいた。桓武天皇(かんむてんのう)は、地方政治の腐敗、税収の減少をなくすために勘解由使を設置して、厳しい監査をさせた。国司の任期が満了した際、新しく担当する国司がこれまでの前任者に職務、事務などに過失がなかったことを記して「解由状(げゆじょう)」という書類を渡す。この際、勘解由使の裁定を厳しく受け、問題がなければ、晴れて帰京が可能となる。この制度は、地方政治の改善だけでなく、都の遷都や蝦夷討伐(えみしとうばつ)のを行うための費用が必要となるため、税収の増加も目的となった。
797年
11月5日
797年、桓武天皇(かんむてんのう)が東北地方の蝦夷(えみし)を平定するため、武勇と人徳に優れた坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を征夷大将軍(せいいだいしょうぐん)に任命した出来事です。田村麻呂は、それまで朝廷軍を苦しめていた蝦夷の英雄・アテルイを降伏させ、東北地方における朝廷の支配を大きく拡大しました。この役職は、のちに源頼朝が鎌倉幕府を開く際に武士のトップの称号として使われるようになる、歴史の重要な分岐点となる超重要キーワードです。
798年
7月2日
坂上田村麻呂 清水寺 建立
文化
800年
3月14日
富士山延暦噴火
天災
富士山の西小富士(北東斜面)と天神山・伊賀殿山(北西斜面)の2ヵ所から噴火が発生した推測されている。
801年
延暦二十年の征夷(陸奥国、現:岩手県)
合戦
804年
7月
空海、最澄、遣唐使船 出航
外交
空海と最澄は、留学生として遣唐使船で難波津(なにわつ、現:大阪府)から唐(現:中国)へ向けて出航する。遣唐使船は、4隻あったが第1船に空海が乗船しており、橘逸勢(たちばなはやなり)も同乗、第2船に最澄が乗船した。空海は唐の都である長安(ちょうあん、現:せいあん)の青龍寺(せいりゅうじ、現:陝西省の古都)へ、最澄は霊地として有名な天台山(てんだいさん、中国浙江省天台県)へそれぞれ向かった。
805年
805年、唐(中国)に渡って最新の仏教を学んだ最澄(さいちょう)が、日本に帰国して天台宗(てんだいしゅう)を開き、比叡山(滋賀県と京都府の境)に比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)を創建した出来事です。国家の平和を祈る新しい仏教として桓武天皇の厚い保護を受けました。のちに延暦寺は「日本仏教の母山(総合大学)」と呼ばれ、法然や親鸞、日蓮など鎌倉新仏教の開祖たちを次々と輩出することになり、日本の仏教と文化の歴史を大きく変える決定的な分岐点となりました。
806年
勘解由使 廃止
行事
勘解由使とは、中央から派遣された国司(こくし、例:都道府県知事のような役人)による不正等を調査、監視する令外官(りょうげのかん)。桓武天皇(かんむてんのう)が地方政治の腐敗、税収の減少をなくすために勘解由使を設置して、厳しい監査をさせた。国司の任期が満了した際、新しく担当する国司がこれまでの前任者に職務、事務などに過失がなかったことを記して「解由状(げゆじょう)」という書類を渡す。この際、勘解由使の裁定を厳しく受け、問題がなければ、晴れて帰京が可能となる。この制度は、797年から続けられたが一旦廃止となり、825年に復活する。
806年
3月17日
桓武天皇 崩御
死去
806年
3月17日
平城天皇 即位
官職
806年
5月18日
平城天皇 譲位
官職
平城天皇は、病に苦しみ体が思うようにならず、僅か3年で退位して上皇になること決意し、弟の嵯峨天皇(さがてんのう)へ譲位された。
806年
5月18日
嵯峨天皇 即位
官職
807年
伊予親王の変
事件
藤原南家の失脚を狙った藤原仲成(ふじわらのなかなり)が藤原吉子、伊予親王の母子を平城天皇(へいぜいてんのう)に対する謀反の疑いをかけ、川原寺(かわらでら、現:奈良県高市郡明日香村川原)に幽閉され自殺に追い込んだ事件。後に母子の無罪が認めれ、藤原仲成は810年に発生した薬子の変(くすこのへん)で母子を謀反の罪に陥れた容疑で処刑された。
809年
12月
平城上皇(へいぜいじょうこう)、旧都・平城京へ移り住む。
行事
810年
810年、平安京の嵯峨天皇と、平城京にいる兄の平城上皇(へいぜいじょうこう)との間で起きた、トップ同士のドロドロの権力争い事件。上皇の愛人だった藤原薬子とその兄・仲成が「もう一度都を平城京に戻して、私たちが政治を操ろう!」と企んだことが発端です。しかし、嵯峨天皇と藤原冬嗣らが素早く軍隊を動かして反乱を鎮圧。この事件をきっかけに、天皇の秘密の秘書である蔵人頭(くろうどのとう)という役職が作られ、藤原北家が権力を握る摂関政治への重要な第一歩となりました。別名「平城太上天皇の変」。
811年
弘仁二年の征夷(陸奥国、現:青森県)
合戦
813年
興福寺・南円堂 建立
文化
藤原北家の藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)が父・藤原内麻呂(ふじわらのうちまろ)の冥福(めいふく)を祈り、仏事を行うために藤原氏の氏寺である興福寺(こうふくじ、現:奈良県奈良市)に建立した。
813年
弘仁の韓寇(対馬国、現:長崎県対馬市)
合戦
816年
816年、唐(中国)で最新の密教をマスターして帰国した空海(くうかい)が、嵯峨天皇から紀伊国(和歌山県)の高野山(こうやさん)を譲り受け、真言宗(しんごんしゅう)の根本道場として金剛峯寺(こんごうぶじ)を創建した歴史的出来事です。国家の平安を祈るとともに、山林での厳しい修行を行う真言密教の聖地となりました。最澄の天台宗と並んで平安仏教の二大巨頭となり、日本の宗教や文化に多大な影響を与え続ける歴史の決定的な分岐点です。
818年
11月
公鋳銭「富寿神宝」鋳造開始
経済
820年
弘仁新羅の寇(肥前国、現:佐賀県、対馬と壱岐を除く長崎県)
合戦
820年
2月13日
弘仁新羅の乱
合戦
遠江国(とおとうみのくに、現:静岡県西部)、駿河国(するがのくに、現:静岡県中東部)に移配した新羅人在留民700人が暴動を起こし、人民を殺害し建物に火を付けるなどした反乱。暴動は鎮圧され、捕まった殆どの新羅人は処刑された。原因として、新羅人の帰化停止、貿易を含め、外交や海外交易施設の鴻臚館(こうろかん)から締め出しと考えられる。
820年
4月
820年、嵯峨天皇の命令により、藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)らが中心となって編纂した法令集『弘仁格式(こうにんきゃくしき)』が完成しました。大宝律令などの古い法律を補うための追加法令である「格(きゃく)」と、細かい施行マニュアルである「式(しき)」がバラバラになっていたものを、使いやすいように一つに整理整頓したものです。この後作られる貞観格式、延喜格式と並んで「三代格式(さんだいきゃくしき)」と呼ばれ、平安時代の法律と政治を安定させる決定的な契機となりました。
822年
6月11日
比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)、嵯峨天皇より「大乗戒壇設立の勅許(だいじょうかいだんせつりつのちょっきょ)」が下される。
経済
823年
1月
空海、東寺を下賜
行事
嵯峨天皇は、官寺(かんじ)である東寺(とうじ、教王護国寺(きょうおうごこくじ)、現:京都市南区九条町)を空海(くうかい、弘法大師(こうぼうだいし))に託した。官寺とは、国家により設営された寺院が主で、私設の寺院でも国家の経済援助をうけるようになった寺院のこと。空海は、この寺を密教の根本道場(こんぽんどうじょう)とし、真言宗の総本山となる。
823年
4月16日
嵯峨天皇 譲位
官職
823年
4月16日
淳和天皇 即位
官職
825年
9月
勘解由使、再設置
行事
勘解由使とは、中央から派遣された国司(こくし、例:都道府県知事のような役人)による不正等を調査、監視する令外官(りょうげのかん)。桓武天皇(かんむてんのう)が地方政治の腐敗、税収の減少をなくすために勘解由使を設置して、厳しい監査をさせた。国司の任期が満了した際、新しく担当する国司がこれまでの前任者に職務、事務などに過失がなかったことを記して「解由状(げゆじょう)」という書類を渡す。この際、勘解由使の裁定を厳しく受け、問題がなければ、晴れて帰京が可能となる。この制度は、797年から続けられたが一旦廃止となったが、復活した。
828年
12月15日
空海、綜芸種智院 創設
行事
空海(くうかい、弘法大師(こうぼうだいし))が右大臣・藤原三守(ふじわらのただもり)の九条邸(現:京都府南区西九条池ノ内、東寺の北東部)に開設した私立学校。庶民を対象に仏教、儒教を教授することを目的としている。当時は、学校への入学することは厳格な身分制限があり、一般の庶民が学問を志すことは非常に困難であった。内典(仏書)、外典(儒書)の講義を行い、種智(仏道、真理を究めようとする心)を高めることが目的とした。残念ながら、空海没後は後継者がなく廃絶する。
834年
2月28日
淳和天皇 譲位
官職
834年
2月28日
仁明天皇 即位
官職
836年
1月1日
承和昌宝 発行
行事
承和昌宝は、日本で鋳造、発行された銅の貨幣(銭貨、せんか)。日本初の流通貨幣の和同開珎(わどうかいちん)の元号「和銅」の説もあるが、同じ文字の元号を銭文に冠した日本最初の貨幣とされる。皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん)の6番目にあたる。
836年
3月21日
空海、高野山で入寂
行事
840年
5月8日
淳和天皇 崩御
死去
842年
7月15日
嵯峨上皇 崩御
死去
842年
7月17日
842年(承和9年)、平安京で発生した皇位継承をめぐる政治的な大事件です。藤原北家の藤原良房(ふじわらのよしふさ)が、「皇太子を連れて東国で反乱を起こそうとしている」という理由で、政治のライバルであった橘逸勢(たちばなのはやなり)や伴健岑(とものこわみね)らを逮捕し、流罪に処しました。この事件を機に良房は自分の甥を次の天皇(文徳天皇)に据え、天皇家と親戚関係を結ぶことに成功します。藤原氏が他の有力な一族を政治の舞台から追い出す「他氏排斥(たしはいせき)」の最初の事件であり、のちの摂関政治へと繋がる歴史の重要な端緒を開きました。
848年
10月
長年大宝 発行
行事
長年大宝は、日本で鋳造、発行された銅の貨幣(銭貨、せんか)。皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん)の7番目にあたる。
850年
3月19日
文徳天皇 即位
官職
850年
3月21日
仁明天皇 崩御
死去
850年
10月16日
出羽国地震
天災
出羽国(現:山形県、秋田県)で大地震が発生し、死者多数で多くが圧死した。
855年
5月5日
地震により、東大寺大仏の頭が落下する。同年に修理、復元された。
天災
857年
2月19日
藤原良房、太政大臣 任命
官職
858年
8月27日
文徳天皇 崩御
死去
858年
8月27日
清和天皇 即位
官職
859年
4月
饒益神宝 発行
行事
饒益神宝は、日本で鋳造、発行された銅の貨幣(銭貨、せんか)。皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん)の8番目にあたる。
863年
6月17日
越中・越後地震
天災
越中国(えっちゅうのくに、現:富山県)、越後国(えちごのくに、現:新潟件)で大地震が発生し、山崩れ、民家倒壊などの被害により、圧死する死者が多くでた。
864年
864年から約2年間にわたり発生した、富士山の歴史上最大規模となる巨大噴火です。これを貞観大噴火(じょうがんだいふんか)と呼びます。大量のマグマ(青木ヶ原溶岩)が流れ出して北西のふもとを飲み込み、巨大な湖(せのうみ)を二つ(現在の精進湖と西湖)に分断しました。さらに、この溶岩の上に千年の長い時間をかけて木々が根を張り、現在の広大な青木ヶ原樹海(あおきがはらじゅかい)が形成されました。富士山の地形を現代の姿へと大きく変えた、自然災害の歴史における重要な出来事です。
866年
3月10日
866年、平安京の中心にある「応天門(おうてんもん)」が放火されたことをキッカケに起こった、ドロドロの政治サスペンス事件です。これを応天門の変(おうてんもんのへん)と呼びます。ライバルの仕業だと嘘の告発をした伴善男(とものよしお)が、逆に「真犯人はお前だ!」と密告されて流罪(島流し)になり、名門・伴氏(大伴氏)が滅亡しました。そして、この事件をうまく利用して事件を解決した藤原良房(ふじわらのよしふさ)が、皇族以外で初めて摂政(せっしょう)という最高の位に就き、藤原氏が絶対的な権力を握る巨大なドミノとなりました。
866年
8月19日
866年、応天門の変でライバルの伴氏らを追放した藤原良房(ふじわらのよしふさ)が、天皇の代わりに政治を行う「摂政(せっしょう)」という最高の役職に任命された歴史的な出来事です。これまで摂政は聖徳太子のように「天皇の親戚(皇族)」しか就けない特別なルールがありましたが、良房は皇族以外の普通の貴族(人臣)として初めてこの特権を手に入れました。この出来事は、藤原氏が天皇の権力を利用して政治を独占していく摂関政治(せっかんせいじ)の基礎が完成した、歴史の決定的な分岐点としてテストに頻出します。
868年
7月8日
播磨国地震
天災
播磨国(はりまのくに、現:兵庫県姫路市付近)で発生した地震である。播磨諸郡の官舎がくずれ、諸定額寺の堂塔が倒れた。平安京・内外にの建造物も崩壊したといわれる。別名は、播磨・山城地震(はりま・やましろじしん)という。
869年
貞観の韓寇(豊前国、現:福岡県東部、大分県北西部)
合戦
869年
4月13日
869年から871年にかけて、清和天皇(せいわてんのう)の命令により編纂された法令集『貞観格式(じょうがんきゃくしき)』が完成・施行されました。約50年前に作られた弘仁格式以降に溜まった追加法令(格)と施行マニュアル(式)を再び一つに整理整頓したものです。藤原良相が開始し、藤原氏宗らが引き継いで完成させました。前の弘仁格式、のちの延喜格式と合わせて「三代格式(さんだいきゃくしき)」と呼ばれ、平安時代の法律と政治をアップデートして社会を安定させた重要な法令集です。
869年
5月26日
貞観地震
天災
陸奥国(むつのくに、現:秋田県、山形県を除いた東北地方)・東方沖の海底を震源域として大規模な津波を伴った巨大地震。多賀城が崩壊したとされ、津波による溺死者が数多くでたとされる。
869年
8月
歴史書『続日本後紀』完成
文化
870年
1月
貞観永宝 発行
行事
貞観永宝は、日本で鋳造、発行された銅の貨幣(銭貨、せんか)。皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん)の9番目にあたる。
874年
3月25日
薩摩国・開聞岳大噴火
天災
876年
11月29日
清和天皇 譲位
官職
876年
11月29日
陽成天皇 即位
官職
876年
12月
藤原基経、摂政 任命
官職
藤原基経は、陽成天皇(ようぜいてんのう)が僅か9歳で天皇となると、摂政に任じられる。清和天皇に続き、陽成天皇、光孝天皇、宇多天皇の四代にわたり朝廷の実権を握り続けることになった。摂政(せっしょう)とは、君主である天皇がまだ幼少であったり、女帝の場合や病弱などの理由で政務を行うことができない場合、代わって政治を主導する官職のこと。このような皇族以外の有力な臣下(しんか)が務めることを「人臣摂政(じんしんせっしょう)」ともいい、天皇の職務を皇族が代行して摂政を務めること「皇族摂政(こうぞくせっしょう)」という。
878年
元慶の乱(出羽国、現:山形県、秋田県)
合戦
878年
3月
元慶の乱
合戦
出羽国(現:山形県、秋田県)の夷俘(いふ、別称:俘囚(ふしゅう)、蝦夷(えみし))の反乱勢力が、朝廷の厳しい政治に対して蜂起した反乱。反抗勢力は秋田城を襲い、雄物川(おものがわ)より北側の朝廷の支配が及ばないよう独立を要求した。朝廷側はこれに軍をもって、鎮圧しようとしたが苦戦した。摂政・藤原基経 (ふじわらのもとつね)は、藤原保則(ふじわらのやすのり)、小野春風(おののはるかぜ)を起用し、寛政(かんせい、ゆるやかで情のある政治)の方針とした。これにより、秋田城にいた夷俘の集団は降伏していった。
880年
5月28日
貴族・歌人 在原業平 死去
死去
880年
10月14日
出雲地震
天災
出雲国(いずものくに、現:島根県)で発生した地震。社寺仏閣、官舎、庶民の住居が倒壊や傾いた。22日まで振動が止まらず、長い余震があったとされる。
880年
12月4日
藤原基経、太政大臣 任命
官職
884年
884年、藤原良房の養子である藤原基経(ふじわらのもとつね)が、気性の激しい陽成天皇を強制的に退位させ、新たに光孝天皇を即位させた後、実質的に日本で初めて「関白(かんぱく)」に就任した歴史的出来事です。大人の天皇を補佐して実権を握るという新しい権力システムが生み出されました。のちの「阿衡の紛議」で天皇すら逆らえない絶対的な権威を示し、藤原北家による摂関政治(せっかんせいじ)の土台を完璧に作り上げた、歴史の重要な分岐点です。
884年
2月4日
陽成天皇 譲位
官職
884年
2月4日
光孝天皇 即位
官職
886年
1月16日
菅原道真、讃岐守 任命
官職
887年
7月30日
仁和地震
天災
南海トラフ沿いで発生した巨大地震で五畿七道(ごきしちどう)で大きな被害が発生した。マグニチュード8以上はあったとされる。多くの民家の倒壊して、圧死する者が多数いた。また津波も発生しており、溺死者も多数いたとされる。余震も数多く1ヵ月も続いた。
887年
8月26日
光孝天皇 崩御
死去
887年
8月26日
宇多天皇 即位
官職
887年
11月
887年、新しく即位した宇多天皇(うだてんのう)と、最高権力者である藤原基経(ふじわらのもとつね)の間で起きた激しい政治的対立です。天皇が基経を関白に任命する際、文章の中に「阿衡(あこう)」という言葉が使われました。これに対し基経は「実権のない名誉職だ」と激怒して仕事をボイコットします。政治が完全にストップしてしまったため、天皇は自ら謝罪して文章を取り消すことになりました。天皇よりも藤原氏の権力が上であることを世間に見せつけ、摂関政治が絶対的なものとなる決定的な契機となりました。
889年
寛平・延喜東国の乱
合戦
890年
5月
寛平大宝 発行
行事
寛平大宝は、日本で鋳造、発行された銅の貨幣(銭貨、せんか)。皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん)の10番目にあたる。
894年
894年、宇多天皇(うだてんのう)の命令で遣唐大使に任命された菅原道真(すがわらのみちざね)が、唐(中国)への使節団派遣の中止を提案し、事実上の遣唐使の廃止(白紙)が決定された出来事です。内乱でボロボロになっていた唐へ危険な海を渡って行く意味はないと判断されました。 これにより、約260年続いた中国から学ぶ時代が終わり、日本独自の国風文化(こくふうぶんか)が花開いていく歴史の決定的な転換点となりました。
894年
8月21日
菅原道真(すがわらのみちざね)、遣唐大使に任ぜられる。
官職
897年
7月3日
宇多天皇 譲位
官職
897年
7月3日
醍醐天皇 即位
官職
899年
2月14日
藤原時平、左大臣 任命
官職
899年
2月14日
菅原道真、右大臣 任命
官職
900年 〜 1067年
900年から1067年頃までの平安時代中期は、貴族のトップである藤原氏が天皇の代わりに政治を行う摂関政治(せっかんせいじ)で栄華を極めた時代です。藤原道長や頼通の時代には「この世はすべて自分のもの」と詠むほどの絶頂期を迎えました。文化面では、中国の影響を離れて日本らしさを追求した国風文化が花開き、かな文字を使った『源氏物語』などの名作が誕生しました。一方で、地方では政治が乱れて治安が悪化し、自分たちの土地を武器で守る「武士」が登場。やがて彼らが歴史の主役へと成長していく、華やかさと武力の胎動が入り交じる重要な時代です。
901年
1月25日
901年、天皇の厚い信頼を受けて右大臣にまで大出世した天才学者・菅原道真(すがわらのみちざね)が、ライバルである左大臣・藤原時平(ふじわらのときひら)の陰謀によって、突如として九州の大宰府へ左遷(左遷=低い地位に落とされて追放されること)された事件です。これを昌泰の変(しょうたいのへん)と呼びます。道真はこの2年後に絶望の中で亡くなり、やがて怨霊として恐れられるようになります。藤原氏が他氏を排斥して権力を独占し、摂関政治を確立していく歴史の重要な契機となりました。
901年
8月
歴史書『日本三代実録』完成
文化
902年
3月13日
902年、平安時代の第60代・醍醐天皇(だいごてんのう)が、国の税金不足を解決するために出した日本初の「違法な私有地(荘園)を取り締まる法律」です。当時、税金逃れのために有力な貴族や寺社に土地を寄付するズルい手口が横行し、国の財政がピンチに陥っていました。そこで、天皇自らが「新しい荘園を作るな!不正な土地は没収だ!」と厳しく命じました(延喜の荘園整理令)。しかし、取り締まる側の貴族たちがズルをしている張本人だったため、残念ながら大きな効果は上がらず失敗に終わりました。
903年
2月25日
菅原道真、太宰府にて死去
死去
905年
4月18日
905年、第60代・醍醐天皇の命により、紀貫之(きのつらゆき)らが中心となって編纂した日本初の勅撰和歌集(ちょくせんわかしゅう:天皇の命令で作られた和歌集)である『古今和歌集』が完成し、奏上された出来事です。唐(中国)の文化を真似る時代から、日本の風土や感情に合った文化を見直そうとする中で生まれました。巻頭にはひらがなで書かれた「仮名序(かなじょ)」が添えられ、日本独自の国風文化(こくふうぶんか)が花開く決定的な契機となった歴史的傑作です。
907年
11月
延喜通宝 発行
行事
延喜通宝は、日本で鋳造、発行された銅の貨幣(銭貨、せんか)。皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん)の11番目にあたる。
908年
12月
延喜格式 編纂
行事
延喜格式は、醍醐天皇の命により、藤原時平(ふじわらのときひら)が編纂を開始し、時平の死後は藤原忠平(ふじわらのただひら)が引継ぎ、927年に完成したが改訂を重ね、967年に施行される。弘仁格式、貞観格式と並び、三代格式(さんだいきゃくしき)の一つになる。
911年
弘仁新羅の賊(対馬国、現:長崎県対馬市)
合戦
913年
弘仁新羅の賊(肥前国、現:佐賀県、対馬と壱岐を除く長崎県)
合戦
921年
10月
真言宗の宗祖・空海、弘法大師の諡号(しごう)を与えられる。
行事
923年
4月20日
菅原道真(すがわらのみちざね)の祟りを恐れ、醍醐天皇は道真を左遷した時の詔書などを焼き捨て、右大臣の職に復し、正二位を追贈する。
行事
927年
12月
延喜格式 完成
文化
延喜格式は、醍醐天皇の命により、藤原時平(ふじわらのときひら)が編纂を開始し、時平の死後は藤原忠平(ふじわらのただひら)が引継ぎ、927年に完成したが改訂を重ね、967年に施行される。弘仁格式、貞観格式と並び、三代格式(さんだいきゃくしき)の一つになる。
930年
9月22日
朱雀天皇 即位
官職
930年
9月29日
醍醐天皇 崩御
死去
934年
空也、口称念仏 布教
行事
空也は尾張国(おわりのくに、現:愛知県西部)の国分寺で出家した僧。播磨国(はりまのくに、現:兵庫県西南部)、奥羽(おうう、現:東北地方)、四国で修行して、東北地方で布教を始める。仏の心や姿や相を想い描くような観想念仏はせず、鉦(しょう、かね)をたたきながら「南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)」と口で称える口称念仏を信念とした。938年には京都に入り布教を行い、身分の高い低いを問わず、様々な人々に広め指示を得る。六波羅蜜寺 (ろくはらみつじ、現:京都市東山区)の空也上人立像(くうやしょうにんりゅうぞう)は有名な像で空也の口から出た蓮の花の上に立つ6体の仏像は「南・無・阿・弥・陀・仏」の念仏を具現化している。別名では、市聖(いちのひじり)、市上人(いちのしょうにん)ともいう。
935年
935年から941年にかけて、関東地方と瀬戸内海という離れた2つの地域で同時期に発生した巨大な武力反乱の総称です。関東で「新皇」を名乗って独立国を作ろうとした平将門の乱(たいらのまさかどのらん)と、瀬戸内海の海賊を率いて暴れ回った藤原純友の乱(ふじわらのすみとものらん)を合わせて承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょうのらん)と呼びます。朝廷はこの反乱を鎮圧するため、地方で実力をつけていた別の武士たち(平貞盛や源経基など)を頼りました。貴族の衰退と、実力ある「武士」が政治の表舞台に台頭する歴史の決定的な分岐点となった大事件です。
935年
935年から940年にかけて、関東地方で起きた歴史を変える大反乱です。強い武力を持つ平将門(たいらのまさかど)が、親戚同士の争いや、農民を苦しめる腐敗した国司(役人)とのトラブルをきっかけに国府(役所)を襲撃。さらに、京都の天皇を無視して自らを「新皇(しんのう:新しい天皇)」と名乗り、関東に独立国を作ろうとしました!朝廷は大パニックになり、平貞盛(たいらのさだもり)や藤原秀郷(ふじわらのひでさと)らに討伐を命じて将門を倒しました。同時期に起きた「藤原純友の乱」と合わせて承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょうのらん)と呼ばれ、「武士の力」を全国に見せつけた超重要ドミノです。
938年
938年頃、諸国を放浪していた僧・空也(くうや)が京都に入り、庶民に向けて浄土教の教えを本格的に広め始めた歴史的出来事です。難しい経典の勉強ではなく、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と声に出して唱えれば(口称念仏)誰でも極楽浄土に行けると説きました。 疫病や戦乱に苦しむ人々は彼を「市聖(いちのひじり)」と呼んで深く慕い、その教えは貴族から庶民まで爆発的に流行します。平安時代後期から鎌倉時代へと続く仏教の大衆化を促した、決定的な契機となる布教活動です。
938年
4月15日
天慶地震
天災
京都市内の家屋に損害を受けた他、宮中で4名が亡くなり、寺にも多くの被害が発生した地震。
939年
939年から941年にかけて、藤原純友(ふじわらのすみとも)が瀬戸内海の海賊たちを率いて起こした大反乱です。元々は海賊を取り締まる役人でしたが、逆に彼らを束ねるボスとなって四国や中国地方へ勢力を拡大し、九州最大の役所である大宰府(だざいふ)まで焼き落とす大暴れをしました。同時期に関東で起きた「平将門の乱」と合わせて承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょうのらん)と呼ばれ、テストに超頻出する重要キーワードです。最終的に源経基(みなもとのつねもと)ら武士の力によって鎮圧されました。
939年
天慶の乱(出羽国、現:山形県、秋田県)
合戦
946年
4月20日
朱雀天皇 譲位
官職
946年
4月20日
村上天皇 即位
官職
947年
藤原是助の乱(伯耆国、現:鳥取県西部)
合戦
958年
3月
乾元大宝 発行
行事
乾元大宝は、日本で鋳造、発行された銅の貨幣(銭貨、せんか)。皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん)の最後にあたる。
967年
5月25日
村上天皇 崩御
死去
967年
5月25日
冷泉天皇 即位
官職
967年
7月
967年、平安時代の超重要な法律集である延喜格式(えんぎきゃくしき)が、ついに正式なルールとしてスタート(施行)した出来事です。「格式」とは、基本の法律(律令)を時代に合わせて使いやすくアップデートした「追加ルール(格)」と「細かいマニュアル(式)」のことです。醍醐天皇の命令で藤原時平らが作り始め、なんと完成・施行までに数十年の歳月がかかりました。日本の古代法典の集大成であり、当時の政治や人々の生活を知るための超一級の歴史資料です。
969年
3月25日
969年(安和2年)、左大臣の源高明(みなもとのたかあきら)が謀反の疑いをかけられ、九州の大宰府へ左遷された事件です(安和の変)。武士である源満仲(みなもとのみつなか)らの密告によって引き起こされたこの事件は、藤原北家がライバルとなる他氏を朝廷から追い出す「他氏排斥」の総仕上げとなりました。この事件以降、藤原氏の地位を脅かす有力な貴族は完全に姿を消し、藤原氏が天皇を操る摂関政治(せっかんせいじ)が確立する歴史の決定的な契機となりました。
969年
8月13日
冷泉天皇 譲位
官職
969年
8月13日
円融天皇 即位
官職
973年
藤原兼通(ふじわらのかねみち)の娘・藤原媓子(ふじわらのこうし)が円融天皇の皇后となる。
行事
976年
7月22日
山城・近江地震
天災
山城・近江地震は、家屋全壊、東寺、西寺、八省院、豊楽院など、京内の寺社や堂舎が多数の倒壊し、死者が50名以上といわれる。
984年
8月27日
円融天皇 譲位
官職
984年
8月27日
花山天皇 即位
官職
985年
源信(げんしん)、『往生要集(おうじょうようしゅう)』著す
行事
『往生要集』とは、末法の世に惑う人々に死後の往生の方法を説くため、浄土教の観点から多くの仏教の経典や論書などの極楽往生に関する重要な要素・文章を集めた仏教書。3巻10章からなり、984年11月から書き始め、翌年4月に完成した。源信とは天台宗の僧で、幼い頃から努力で学才に恵まれ、浄土教にとどまらず、因明(いんみょう、仏教論理学)、性相(しょうそう、万物の本体と現象)など幅広い分野に優れ、『因明論疏四相違略註釈』(いんみょうろんしょしそういりゃくちゅうしゃく)、『大乗対倶舎抄』(だいじょうたいくしゃしょう)などの著作を残した。恵心僧都(えしんそうず)、横川僧都(よかわそうず)と尊称される。ちなみに866年に応天門の変(おうてんもんのへん)に登場する左大臣・源信(みなもとのまこと)とは別人である。
986年
6月23日
花山天皇 譲位
官職
986年
6月23日
一条天皇 即位
官職
993年
天然痘 九州で流行
行事
994年
4月
994年、平安京(京都)で天然痘(てんねんとう)が爆発的に大流行した恐ろしい事件です。致死率が非常に高く、当時の人々からは「もがさ」と呼ばれて恐れられました。人口の約半数が命を落としたとも言われ、朝廷のトップクラスの貴族たちも次々と病に倒れます。特に、権力を握っていた藤原氏の有力者たちが相次いで亡くなったことで、五男であった藤原道長(ふじわらのみちなが)に政治の実権が転がり込みました。平安時代の貴族社会の勢力図を完全に塗り替え、道長の栄華へと繋がる歴史の決定的な契機となった疫病の大流行です。
995年
天然痘 日本各地で流行
行事
天然痘(てんねんとう)は993年に九州地方で流行し始めたのきっかえに、京都では994年4月から7月にかけて京都の人口の半分が死亡するほどの大流行となる。さらに翌年までに日本の全国各地へ広まったとされる。天然痘は別名、疱瘡(とうそう)といい、当時の人々は「もがさ」といって恐れた。
995年
5月11日
995年、激しい権力闘争の末にライバルを破った藤原道長(ふじわらのみちなが)が、一条天皇から「内覧(ないらん)」という超重要な役職に任命された出来事です。内覧とは、天皇に届くすべての重要書類を「天皇より先にチェックできる」という、関白と同じくらい強力な権限を持つ役職でした。道長はあえて「関白」という肩書きにはこだわらず、この実権に満ちた「内覧」と「左大臣」の地位を利用して、誰も逆らえない絶対的な摂関政治の黄金時代を築き上げていく歴史の決定的な分岐点となります。
996年
1月16日
996年、藤原伊周(これちか)・隆家(たかいえ)の兄弟が、女性関係の勘違いから前天皇である花山法皇(かざんほうおう)を襲撃した前代未聞の事件です(長徳の変)。天皇経験者に弓を引くという大事件を起こした二人は九州の大宰府などへ左遷され、政治の舞台から完全に追放されました。この事件によって最大のライバルが自滅したことで、叔父の藤原道長(ふじわらのみちなが)が朝廷の権力を完全に掌握し、藤原氏が栄華を極める「摂関政治」の全盛期を迎える歴史の決定的な契機となりました。
997年
長徳の入寇(九州全域)
合戦
999年
大宰府南蛮人追討(九州、奄美大島)
合戦
999年
11月7日
藤原道長の長女・彰子(しょうし、あきこ)、一条天皇の女御(にょうご)となる。
他
1000年
2月25日
1000年、藤原道長が自分の娘である彰子(しょうし)を一条天皇の正妻にするため、すでに正妻だった定子(ていし)と並立させるという前代未聞の「一帝二后(いっていにこう)」を実現させた出来事です。天皇には一人の正妻(皇后)しか持てないという常識を力技で覆しました。道長の権力がいかに絶大だったかを示す象徴的な事件であり、彰子と定子の周囲に紫式部や清少納言といった才能あふれる女性たちが集まったことで、国風文化が花開く歴史の決定的な分岐点となりました。
1000年
2月25日
藤原道隆の娘・定子(さだこ、ていし)、一条天皇の皇后宮(こうごうぐう)となる。
官職
1000年
2月25日
藤原道長の長女・彰子(しょうし、あきこ)、一条天皇の中宮(ちゅうぐう)となる。
官職
1001年頃
1001年頃、平安時代の中期に清少納言(せいしょうなごん)が執筆した日本最古の随筆(エッセイ)『枕草子』が完成したとされる出来事です。彼女が仕えた一条天皇の皇后・藤原定子(ふじわらのていし)との華やかな宮廷生活や、四季の美しい風景、日常の「あるある」ネタなどを、ひらがな(仮名文字)を使ってイキイキと書き綴りました。同時代に書かれた紫式部の『源氏物語』と並んで、日本特有の国風文化を代表する文学作品として、テストに必ず出題される超重要キーワードです。
1001年
12月16日
一条天皇の皇后宮・藤原定子 崩御
死去
1007年
1007年頃、平安時代中期に紫式部(むらさきしきぶ)が書き上げた世界最古の長編小説『源氏物語』(げんじものがたり)が完成したとされる出来事です。彼女は当時の最高権力者・藤原道長の娘である藤原彰子(ふじわらのしょうし)に仕えながら、主人公・光源氏(ひかるげんじ)の華やかな恋愛模様や、栄光と挫折の人生を「かな文字」で美しく描き出しました。同時期の清少納言『枕草子』と並び、日本独自の国風文化(こくふうぶんか)を代表する最高傑作であり、テストにも必ず出題される超重要キーワードです。
1011年
6月13日
一条天皇 譲位
官職
1011年
6月13日
三条天皇 即位
官職
1011年
6月22日
一条天皇 崩御
死去
1012年
2月24日
藤原道長の次女・妍子(けんし、きよこ)、一条天皇の皇太子(後、三条天皇)の中宮(ちゅうぐう)となる。
他
1016年
1月29日
三条天皇 譲位
官職
1016年
1月29日
後一条天皇 即位
官職
1016年
1月29日
藤原道長、摂政 任命
官職
1017年
12月4日
藤原道長、太政大臣 任命
官職
1018年
2月9日
藤原道長、太政大臣 辞任
官職
1018年
10月16日
藤原道長の次女・妍子(けんし、きよこ)、三条天皇の皇太后(こうたいごう)となる。
他
1018年
11月16日
藤原道長の四女・威子(いし、たけこ)、後一条天皇の中宮(ちゅうぐう)となる。
他
1019年
3月
藤原道長、出家
行事
1019年
3月27日
1019年、中国大陸の東北部に住む「女真族(じょしんぞく:当時の呼び名で刀伊)」と呼ばれる謎の海賊集団が、50隻もの大船団で突如として対馬や壱岐、そして九州北部の博多に襲来した事件です(刀伊の入寇)。彼らは牛馬を食い殺し、老人を殺害し、若者や女性を奴隷として連れ去るという残酷な略奪を行いました。大宰府の長官(権帥)として赴任していた藤原隆家(ふじわらのたかいえ)が九州の武士たちを指揮してこれを撃退し、日本の危機を救いました。平安貴族が武力ではなく「武士」の力に頼らざるを得なくなった歴史の重要な転換点です。
1026年
5月23日
万寿地震
天災
石見国(いわみのくに、現:島根県西部)で日本海沖を震源とする大地震と津波が発生した。別名、万寿の大津波(まんじゅのおおつなみ)とも呼ばれ、10m-25mの津波により、民家や寺社は倒壊、流され、多数の死者がでたとされる。
1027年
12月4日
藤原道長 死去
死去
1028年
6月
1028年、房総半島(千葉県周辺)に強大な勢力を持っていた関東の武士・平忠常(たいらのただつね)が、国司の圧政に反発して起こした大規模な武力反乱です(平忠常の乱)。朝廷の討伐軍は全く歯が立たず、反乱は3年も続いて房総三ヶ国は激しく荒廃しました。しかし、朝廷が新たな討伐軍のトップとして源頼信(みなもとのよりのぶ)を派遣すると、その圧倒的な名声を恐れた忠常は戦わずして降伏します。この事件は、関東における平氏の力が衰え、代わりに河内源氏が東国へ進出する歴史の決定的な契機となりました。
1036年
4月17日
後一条天皇 譲位
官職
1036年
4月17日
後朱雀天皇 即位
官職
1045年
1月16日
後朱雀天皇 譲位
官職
1045年
1月16日
後冷泉天皇 即位
官職
1051年
1051年から1062年にかけて、東北地方で起こった朝廷軍と地元豪族の巨大な戦争です。これを前九年の役(ぜんくねんのえき)と呼びます。陸奥国(岩手県など)で独立国のように振る舞っていた豪族・安倍氏を討伐するため、武士の名門である源頼義・源義家の親子が派遣されました。雪深い東北での戦いは泥沼化しますが、お隣の出羽国の豪族・清原氏の助けを借りて、ついに安倍氏を滅ぼしました。この戦いをきっかけに、「武士のトップは源氏だ!」という名声が東日本の武士たちの間に広まり、のちの鎌倉幕府誕生へと繋がる重要な伏線(ドミノ)となりました。
1051年
鬼切部の戦い(陸奥国、現:宮城県)
合戦
1052年
1月1日
末法の第一年
行事
末法思想は、仏教の始祖・釈迦(しゃか)の入滅して、年代が経つにつれて釈迦の教えが廃れ、悟りを開けず現世では救われることのない末法の世が訪れるといった考え。いつか世の中に末法の時代が始まると考えられ、1052年は末法元年という認識になっていった。
1053年
1053年、関白・藤原頼通(ふじわらのよりみち)が京都の宇治に阿弥陀堂(現在の平等院鳳凰堂)を建立した出来事です。当時、世の終わりが来るという末法思想(まっぽうしそう)が流行し、社会不安に怯える貴族たちは、念仏を唱えて死後の救いを求める浄土教に深く帰依しました。頼通は極楽浄土をこの世に再現しようと、父・道長の別荘を寺に改め、天才仏師・定朝(じょうちょう)の仏像を安置しました。10円硬貨にも描かれるこの傑作は、国風文化の頂点であり、摂関政治の終焉と新時代への転換点を示す歴史的遺産です。
1056年
阿久利河の戦い(陸奥国、現:岩手県)
合戦
1056年
黄海柵の戦い(陸奥国、現:岩手県)
合戦
1062年
前九年の役 終わる
合戦
12年間続いた「前九年の役(ぜんくねんのえき)」が終わる。陸奥守兼鎮守府将軍(むつのかみけんちんじゅふしょうぐん)・源頼義(みなもとのよりよし)が出羽国(でわのくに、現:山形県・秋田県)の豪族・清原氏と手を結んで陸奥国(むつのくに、現:山形県・秋田県を除く東北地方)を統治していた豪族・安倍氏一族を滅ぼした。安倍氏一族の棟梁・安倍貞任(あべのさだとう)は朝廷軍に捕まるが戦いで負傷した傷により、まもなく戦死した。この戦いにより、安倍氏を滅ぼした出羽国の豪族である清原氏は東北地方において勢力を強めることになる。
1062年
小松柵の戦い(陸奥国、現:岩手県)
合戦
1063年
8月
源頼義、鎌倉に鶴岡八幡宮 創建
行事
源頼義は、京都の石清水八幡宮を深く信仰しており、源氏の氏神として八幡神を鎌倉の由比ヶ浜に祀った。これが鶴岡八幡宮の始まりとなり、頼義の子孫である源頼朝(みなもとのよりとも)が現在の神奈川県鎌倉市雪ノ下にに鶴岡八幡宮を移した。別名として、鎌倉八幡宮とも呼ばれる。
1068年 〜 1185年
1068年の後三条天皇の即位から始まり、1185年の壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡するまでの平安時代後半の約100年間。長らく続いた藤原氏の摂関政治が終わり、上皇が政治を行う院政(いんせい)が始まりました。朝廷内の権力争いである保元の乱・平治の乱を経て、武士が政治の実権を握るようになります。平清盛が武士として初めて太政大臣となり平氏政権を築いて我が世の春を謳歌しますが、やがて反発を招き、源頼朝らの挙兵によって平氏は滅亡。貴族の時代から武士の時代へと完全に切り替わる、激動と戦乱の歴史的転換期です。
1068年
4月19日
後冷泉天皇 崩御
死去
1068年
4月19日
後三条天皇 即位
官職
1069年
1069年、後三条天皇(ごさんじょうてんのう)が発布した、全国の不正な私有地(荘園)を厳しく取り締まる法律が「延久の荘園整理令(えんきゅうのしょうえんせいりれい)」です。天皇と外戚関係を持たない後三条天皇は、藤原氏に遠慮することなく、朝廷に「記録荘園券契所(きろくしょうえんけんけいじょ)」という役所を新設しました。書類の不備がある荘園を次々と没収して藤原氏の経済力に大打撃を与え、摂関政治を衰退させてのちの院政へと繋がる、歴史の決定的な分岐点となりました。
1070年
延久蝦夷合戦(陸奥国、現:岩手県)
合戦
1072年
延久宣旨枡(えんきゅうせんじます)公定枡とする。
政治
延久宣旨枡とは、後三条天皇が制定した公定枡のことで1升の容積が現在の約6合7勺(約1.2リットル)になるように作成され、年貢などを測る基準となる枡。これまでは、私枡といった多様な枡が使用されており、中に不正に使用する乱れた升や使い方をしていた。
1072年
12月8日
後三条天皇 譲位
官職
1072年
12月8日
白河天皇 即位
官職
1076年
白河天皇、法勝寺 建立
文化
1083年
1083年から1087年にかけて、東北地方の支配者だった清原氏の内輪もめに、源氏の源義家(みなもとのよしいえ)が介入した戦いです。これを後三年の役(ごさんねんのえき)と呼びます。義家は、清原氏の一族である藤原清衡(ふじわらのきよひら)の味方をして、敵対する勢力を打ち破りました。この戦いで源氏と東国武士の絆がさらに強固なものになります。また、勝利した清衡は「奥州藤原氏」の初代となり、平泉(岩手県)に黄金の文化を築き上げる歴史の決定的な契機となりました。
1086年
沼柵の戦い(出羽国、現:秋田県)
合戦
1086年
11月26日
白河天皇 上皇即位
官職
1086年
11月26日
堀河天皇 即位
官職
1086年
11月26日
1086年、白河天皇(しらかわてんのう)がわずか8歳の息子に天皇の位をゆずり、自分は引退した上皇(じょうこう)という立場で政治のトップに立ち続けた出来事です。この上皇が行う政治システムを院政(いんせい)と呼びます。長年続いていた藤原氏の摂関政治(せっかんせいじ)のパワーを削ぎ落とし、天皇家の権力を取り戻しました。さらに、上皇のボディーガードとして北面武士(ほくめんのぶし)を採用したことで、武士が政治の中枢に進出するキッカケを作った特大ドミノの1枚目です。
1087年
後三年の役 終わる
合戦
1087年
金沢柵の戦い(出羽国、現:秋田県)
合戦
1095年
1095年、院政(いんせい)を敷いて絶対的な権力を握っていた白河法皇(しらかわほうおう)が、自分の住まい(院の御所)の北側を警備させるために設置した武士の直属部隊です。これを北面の武士(ほくめんのぶし)と呼びます。主な目的は、神仏の権威を盾に強引な要求をしてくる僧兵(そうへい)たちの暴動(強訴)を武力で鎮圧することでした。この制度により、地方の「用心棒」に過ぎなかった武士たちが中央の政治の舞台に引き上げられ、やがて平氏政権や武家社会が誕生する歴史の決定的な契機となりました。
1096年
白河上皇 出家し法皇へ
官職
1096年
11月24日
永長地震
天災
東海地方・東南海沖(現:紀伊半島・潮岬沖(しおのみさきおき)から駿河湾辺り)を震源地とする津波を伴った大地震。南海トラフ東側でマグニチュードは、M8.0-8.5が推測され、伊勢、駿河で津波が発生し、少なくとも1万人を超す死者が出たとされる。この地震は、元号が嘉保(かほう)の年に起きているが、地震の約1ヶ月後に永長(えいちょう)と改元されたため、「永長地震」と呼ばれている。
1098年
10月
1098年、武士のヒーローである源義家(みなもとのよしいえ)が、最高権力者である白河法皇(しらかわほうおう)から特別に院の昇殿(いんのしょうでん:法皇のプライベート空間である御所に直接上がる権利)を許された歴史的な出来事です。これまで貴族の「番犬」や「用心棒」として身分が低いとされていた武士が、初めて高貴な貴族(殿上人)と同じ特権を認められました。この特例により清和源氏の家格は決定的に高まり、武士が政治の表舞台へと進出していく歴史の大きな転換点となりました。
1099年
1月
康和地震
天災
畿内、および南海道(紀伊半島、淡路島、四国地方)に被害をもたらした大地震。南海道沖を震源とする地震でマグニチュードは、M8.0が推測される。奈良付近で発生したとの説もあり。伊予国(いよのくに、現:愛媛県)の道後温泉(どうごおんせん)では湯が出なくなり、土佐国(とさのくに、現:高知県)では、地殻変動により、田畑が約10平方キロメートル沈下して海になったと記録がある。畿内では、興福寺、四天王寺では回廊が転倒、建物に被害を受けた。
1107年
7月19日
堀河天皇 崩御
死去
1107年
7月19日
鳥羽天皇 即位
官職
1108年
1108年に発生した、源氏のヒーロー・源義家(みなもとのよしいえ)の息子である源義親(みなもとのよしちか)が朝廷に対して起こした反乱です(源義親の乱)。乱暴狼藉を繰り返した義親は島流しを命じられますが、配流先の出雲国(島根県)で役人を殺害し、暴れ回りました。源氏がこの反乱を鎮圧できず義家が失意のうちに亡くなる中、朝廷の命令を受けた平正盛(たいらのまさもり)がわずか1ヶ月で義親を討ち取ります。この事件は、源氏の没落と平氏の台頭という武士の勢力図が大きく逆転する、歴史の決定的な分岐点となりました。
1108年
4月1日
延暦寺の強訴 源平の両氏が防ぐ
事件
延暦寺の僧兵ら数千人が神輿を奉じて入洛したが、源氏・平氏の両氏が防いだ。強訴(ごうそ)とは仏神の権威を誇示し、集団で朝廷・幕府に対して強硬な態度で訴えや要求する行動。
1111年
1111年、白河法皇(しらかわほうおう)が、かつて後三条天皇が設置した記録荘園券契所(きろくしょうえんけんけいじょ)という役所を再び復活させた出来事です。この役所は本来、不正な荘園(貴族や寺社の私有地)を没収するためのものでしたが、今回は主に荘園を巡る「裁判」を行う機関として利用されました。院政(いんせい)という独裁的な権力を持つ上皇が、土地問題の裁判権を握ることで、貴族や寺社に対する支配力をさらに強化しようとした歴史の重要な契機です。
1113年
3月20日
1113年、奈良の興福寺(こうふくじ)と京都の延暦寺(えんりゃくじ)という日本最大級の宗教勢力同士の対立から発展し、朝廷に対して行われた大規模な暴動事件です(永久の強訴)。清水寺の人事を巡る不満から、両寺の僧兵たちが神輿を担いで京都に押し寄せ、武力で要求を通そうとしました。絶対権力者であった白河法皇すらも彼らを止められず、法皇の命令を受けた平正盛や平忠盛ら武士の軍隊が宇治川で僧兵を力ずくで鎮圧しました。この事件により、宗教勢力の異常な力と、それを武力で抑え込む「武士」の存在感が急激に高まる歴史の転換点となりました。
1117年
良忍、融通念仏宗 創始
行事
1118年
1月18日
平清盛が生まれる
誕生
平清盛は、白河法皇に仕える北面武士であった伊勢平氏の棟梁・平忠盛(たいらのただもり)と母は白河法皇がいる祇園女御(ぎおんのにょうご)仕えていた女性との間に嫡男として誕生する。
1120年
平忠盛 院の昇殿 勅許
政治
1123年
1月28日
鳥羽天皇 譲位
官職
1123年
1月28日
崇徳天皇 即位
官職
1124年
藤原清衡、中尊寺金色堂 建立
文化
1128年
7月13日
奥州藤原氏 初代当主・藤原清衡 死去
死去
1129年
3月
平忠盛、山陽道・南海道の海賊追討使 任命
官職
1129年
7月
1129年、絶大な権力を誇った白河法皇が崩御したことで、鳥羽上皇(とばじょうこう)が国の実質的なトップ(治天の君)となり開始した院政です。鳥羽上皇は白河法皇の側近たちを一掃し、冷遇されていた藤原忠実を呼び戻して新体制を構築しました。また、白河法皇の子と噂される「叔父子」の崇徳天皇を激しく憎み、権力から徹底的に排除しました。武士の力を重用して平氏台頭の端緒を開いた一方で、皇室内の修復不可能な対立を生み出し、保元の乱へと繋がる歴史の重要な分岐点となりました。
1129年
7月7日
白河法皇 崩御
死去
1132年
10月
1132年、伊勢平氏の平忠盛(たいらのただもり)が、武士として初めて清涼殿の殿上間に入る権利(内昇殿)を鳥羽上皇から許された画期的な出来事です。海賊討伐やお寺の建設で莫大な財力と軍事力を朝廷に提供した忠盛は、貴族たちから猛烈な嫉妬を受けながらも、持ち前の知恵と度胸で見事にその地位を確立しました。これにより平氏はライバルの源氏に大きく差をつけ、のちの平清盛による平家全盛の時代を切り開く、歴史の決定的な分岐点となりました。
1141年
12月7日
崇徳天皇 譲位
官職
鳥羽上皇の命により、強制的に崇徳天皇は譲位をさせられ近衛天皇となる。
1141年
12月7日
近衛天皇 即位
官職
鳥羽上皇の命により、強制的に崇徳天皇は譲位をさせられ近衛天皇となる。
1142年
鳥羽上皇 出家し法皇へ
行事
1147年
4月8日
源頼朝、清和源氏の一流を継ぐ河内源氏・源義朝の三男として尾張国愛知郡熱田で生まれる。幼名は鬼武者・鬼武丸。
行事
1147年
6月15日
1147年、若き日の平清盛(たいらのきよもり)の家来たちと、祇園社(現在の八坂神社)で神様に仕える人々(神人)が激しく衝突した乱闘事件です(祇園闘乱事件)。清盛側の放った矢が神聖な本殿に突き刺さったため、怒った本山の比叡山延暦寺の僧兵たちが大群で京都に押し寄せ、清盛とその父・平忠盛(たいらのただもり)の追放を要求しました。しかし、彼らを頼りにする鳥羽上皇の保護により、清盛は軽い罰金刑で済みました。平氏の権力が宗教勢力をもしのぎ始めたことを示す、歴史の重要な分岐点です。
1155年
7月24日
後白河天皇 即位
官職
1156年
7月11日
1156年、天皇家(後白河天皇 vs 崇徳上皇)のトップ争いに、藤原氏(関白・忠通 vs 弟・頼長)、さらに武士である源氏と平氏それぞれの身内ゲンカが複雑に絡み合って京都で起きた大乱闘です。結果は、平清盛や源義朝を味方につけた後白河天皇側が、奇襲攻撃を成功させてスピード勝利!敗れた崇徳上皇は讃岐(香川県)へ流されました。長年、天皇や貴族の「用心棒」扱いだった武士が、国のトップ争いを武力で解決したことで、武士の存在感が日本中で一気に爆上がりした歴史的なターニングポイントです。
1156年
7月20日
鳥羽法皇 崩御
死去
1158年
頼朝、朝廷より統子内親王の皇后宮権少進(こうごうぐんごんのしょうじょう)に任官される。
行事
1158年
8月10日
平清盛、大宰大弐(だざいのだいに)に叙せられる。
官職
1158年
8月11日
後白河天皇 上皇即位
官職
1158年
8月11日
二条天皇 即位
官職
1159年
1月29日
頼朝、右近衛将監兼任
行事
1159年
2月13日
頼朝、上西門院蔵人補任
行事
1159年
3月1日
源義朝の正室であり、源頼朝の母・由良御前(ゆらごぜん)が死亡。
行事
1159年
12月9日
1159年、「保元の乱」の後の恩賞の不公平さに不満を爆発させた源義朝が、最大のライバルである平清盛が都を留守にした隙を狙って起こしたクーデター事件です。しかし、冷静に都へ舞い戻った清盛の巧妙な作戦により、源氏軍はコテンパンに敗北。敗れた義朝は暗殺され、息子の源頼朝は伊豆へ島流しにされました。最大のライバルを排除した清盛は武士のトップに君臨し、我が世の春を謳歌する平氏政権の黄金時代へと突き進んでいくことになります。
1159年
12月14日
頼朝、従五位下 右兵衛権佐(うひょうえさんのすけ)の官位を賜る。
官職
1160年
1月3日
1160年、平治の乱で平清盛に敗れた源氏の棟梁・源義朝(みなもとのよしとも)が、関東へ逃れる途中の尾張国(愛知県)で、恩賞に目がくらんだ家臣の裏切りにあって暗殺された事件です。入浴中という無防備な状態を狙われた無念の最期でした。この事件によって源氏は壊滅状態となり、生き残った息子の源頼朝は伊豆へ流罪となります。最大のライバルを排除した平氏が政治のトップに立ち、のちの源平合戦へと繋がる歴史の決定的な分岐点となりました。
1160年
3月11日
1160年、平治の乱で平清盛に敗れた源義朝の三男・源頼朝(みなもとのよりとも)が、伊豆国(静岡県)の蛭ヶ小島(ひるがこじま)へ流罪(島流し)にされた事件です。本来なら処刑されるはずだった頼朝ですが、清盛の継母・池禅尼(いけのぜんに)の命がけの助命嘆願により奇跡的に命を救われました。伊豆で監視されながらも約20年間を生き延びた頼朝は、のちに北条政子と結ばれ、平氏打倒の兵を挙げることになります。鎌倉幕府誕生へと続く、歴史の重要な分岐点となる出来事です。
1165年
6月25日
二条天皇 上皇即位
官職
1165年
6月25日
六条天皇 即位
官職
六条天皇が即位した年齢は、7か月でまだ赤ちゃんである。日本の天皇の中で歴代最年少で天皇に即位したことになる。
1167年
2月11日
平清盛、太政大臣 任命
官職
1167年
5月17日
平清盛、太政大臣 辞任
官職
1168年
2月19日
六条天皇 上皇即位
官職
六条天皇が上皇に即位した年齢は3歳だった。7か月の赤ちゃんで天皇に即位し、在位から僅か2年8か月で上皇となった。日本の天皇の中で歴代最年少で上皇に即位したことになる。
1168年
2月19日
高倉天皇 即位
官職
1168年
3月
平清盛 出家
官職
1169年
6月17日
後白河上皇 出家し法皇へ
官職
1172年
2月10日
平清盛の娘・徳子(とくし、のりこ)、高倉天皇の女御(にょうご)となる。
行事
1177年
1177年頃、伊豆国(静岡県)へ流罪となっていた源頼朝(みなもとのよりとも)と、その監視役であった豪族・北条時政の長女である北条政子(ほうじょうまさこ)が結婚した出来事です。平治の乱で敗れ、孤独な流人生活を送っていた頼朝でしたが、政子という強力なパートナーと北条氏という強力な後ろ盾を得たことで運命が大きく変わります。この結びつきは、やがて平氏を打倒し、鎌倉幕府を開いて本格的な武家政権を樹立するための、歴史の決定的な契機となりました。
1177年
源頼朝と政子の間に長女・大姫(おおひめ)が生まれる。
他
1177年
4月28日
1177年、折からの強風に煽られた火災が平安京(京都)を飲み込み、都の約3分の1を一晩で灰にしてしまった恐ろしい大火災です(安元の大火)。平清盛が権力の絶頂にあった時代に起き、天皇の住む大内裏(大極殿など)までもが焼け落ちるという前代未聞の被害を出しました。次々に起こる天災は「平家の悪政に対する天罰」という噂を生み出し、鴨長明の『方丈記』にもその凄惨な様子が記されるなど、平安貴族の時代の終焉と無常観を人々に強く印象づけた事件です。
1177年
6月
1177年、後白河法皇(ごしらかわほうおう)の側近たちが、権力を独占する平氏を打倒しようと企てた秘密の計画が発覚した事件です。京都の東山・鹿ヶ谷(ししがたに)にある山荘で密談が行われていたことから鹿ヶ谷の陰謀(ししがたにのいんぼう)と呼ばれます。仲間の裏切りによって計画は事前に平氏のトップ・平清盛に漏れ、藤原成親や僧の俊寛ら首謀者は次々と逮捕・処刑、または島流しにされました。平氏の独裁に対する貴族たちの不満が爆発した事件であり、やがて源平合戦へと繋がる歴史の重要な端緒を開いた出来事です。
1178年
3月24日
1178年(治承2年)、平安京(現在の京都市)の七条東洞院付近から出火し、強風に煽られて広大な人口密集地帯を焼き尽くした大火事です(治承の大火)。前年の1177年に京都の3分の1を焼いた「安元の大火(太郎焼亡)」に続き、甚大な被害をもたらしたため「次郎焼亡」とも呼ばれました。庶民の生活基盤である下京エリアが壊滅し、人々の間に末法思想や平清盛が率いる平氏政権への強い不満と社会不安を広げました。のちの治承・寿永の乱へと繋がる、歴史の決定的な分岐点への足音となる災害です。
1179年
ツホカミ山の戦い(伯耆国、現:鳥取県西部)
合戦
1179年
11月20日
1179年、平清盛(たいらのきよもり)が数千の軍勢を率いて京都を軍事的に制圧し、後白河法皇(ごしらかわほうおう)を幽閉して院政を強制的にストップさせた前代未聞のクーデターです(治承三年の政変)。平氏の領地を次々と没収する法皇の挑発に激怒した清盛は、反対派の貴族39人を一斉に追放し、日本の政治権力を完全に独占しました。しかし、皇族を武力で脅すこの強引な手法は全国の反発を招き、翌年の以仁王の挙兵から治承・寿永の乱(源平合戦)へと繋がる、歴史の決定的な分岐点となりました。
1180年
衣笠城合戦(相模国、現:神奈川県)
合戦
1180年
市原合戦(信濃国、現:長野県)
合戦
1180年
2月21日
高倉天皇 上皇即位
官職
1180年
2月21日
安徳天皇 即位
官職
1180年
5月26日
1180年から1185年にかけて繰り広げられた、平氏と源氏を中心とする全国規模の内乱です。一般的には源平合戦(げんぺいがっせん)と呼ばれます。平清盛の独裁政治に対する後白河法皇の皇子・以仁王(もちひとおう)の挙兵を契機として始まりました。伊豆に流されていた源頼朝や木曾の源義仲、天才戦術家の源義経らが次々と立ち上がり、平氏を西日本へ追い詰めていきます。最終的に壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡し、貴族中心の政治から武士による本格的な政権(鎌倉幕府)へと移り変わる歴史の最大の転換点となりました。
1180年
5月26日
1180年、後白河法皇の皇子である以仁王(もちひとおう)と源氏の長老・源頼政(みなもとのよりまさ)が、平清盛の独裁政治を打倒するために起こした最初の反乱です。計画は事前にバレてしまい、宇治川の戦いで二人は討ち死にして失敗に終わりました。しかし、以仁王が全国の源氏に向けて発した「平氏を討て」という命令書(令旨)は、伊豆の源頼朝や木曾の源義仲らを立ち上がらせる決定的な導火線となり、ここから5年に及ぶ治承・寿永の乱(源平合戦)が始まる歴史の重大な転換点となりました。
1180年
8月18日
源頼朝、三嶋大社に戦勝、感謝を表し、三嶋大社へ所領を寄進する。また心経を三嶋大社、箱根、伊豆山権現など19社寺へ奉納した。
行事
1180年
8月23日
1180年、伊豆で挙兵した源頼朝(みなもとのよりとも)が、平氏方の武将である大庭景親(おおばかげちか)の大軍と衝突し、大敗を喫した戦いです。圧倒的な兵力差に加えて暴風雨の中での夜襲を受け、頼朝軍は壊滅状態となりました。しかし、洞窟に隠れていた頼朝を敵将の梶原景時(かじわらかげとき)が見逃すという奇跡が起き、頼朝は海を渡って千葉県へと逃げ延びます。ここでの劇的な生還が、のちに鎌倉幕府を開く源氏の復活劇へと繋がる、歴史の決定的な契機となりました。
1180年
9月
1180年、石橋山の戦いで平家に大敗した源頼朝が、わずかな家臣と共に海を渡って安房国(千葉県南部)へ逃れ、再び打倒平家の兵を挙げた出来事です。絶体絶命のピンチでしたが、平家への不満を抱えていた千葉氏や上総氏といった坂東(関東)の有力な武士たちを次々と味方につけることに成功し、わずか1ヶ月で数万の大軍勢へと膨れ上がりました。どん底から奇跡の復活を遂げた頼朝が、のちの鎌倉幕府を開くための強固な軍事基盤を確立する、歴史の決定的な転換点となりました。
1180年
10月2日
頼朝、上総千葉両氏(千葉常胤、上総広常)の支持を受け武蔵国に入り、足立遠元、葛西清重らを加える。
行事
1180年
10月7日
頼朝、鎌倉へ入府する。
行事
1180年
10月20日
富士川の戦い
合戦
駿河国・富士川(現:静岡県富士市)で源頼朝、武田信義と平維盛が戦った合戦。武田信義の部隊が富士川の浅瀬に馬を乗り入れると富士沼にいた水鳥の大群が一斉に飛び立った。その音に驚いて、平氏は戦わずして撤退したといわれる。
1180年
10月21日
頼朝の異母弟・源義経と黄瀬川で対面を果たし、源義経が参戦する。
行事
1180年
12月28日
南都焼討
行事
平清盛の命を受けた清盛の五男・平重衡(たいらのしげひら)ら平氏軍が、東大寺、興福寺など南都(現:奈良県)の仏教寺院を焼討ちにした事件。平氏政権に対して反抗的な態度を取り続ける寺社勢力における大衆(だいしゅ、多くの僧)の討伐を目的とした。
1181年
墨俣川の戦い(尾張国、美濃国、現:愛知県西半部及び岐阜県南部)
合戦
1181年
横田河原の戦い(信濃国、現:長野県)
合戦
1181年
養和の飢饉
天災
前年に雨が殆ど降らず、降水量が極端に少なかった干ばつの影響で農産物の収穫量が激減すると、翌年は西日本が飢饉となった。大量の餓死者が発生し、多くの農民が土地を放棄して田畑を耕すことをやめた。『方丈記』によると、京都市中の死者だけで4万2300人と記されている。治承・寿永の乱の最中に発生した飢饉だったため、源氏・平氏は停戦した。
1181年
1月14日
高倉上皇 崩御
死去
1181年
1月14日
後白河法皇、院政の再開
行事
1181年
2月4日
平清盛 死去
死去
1181年
11月4日
金砂城の戦い
合戦
1182年
8月12日
源頼朝と政子の間に嫡男・源頼家(みなもとよりいえ)が生まれる。
他
1183年
寿永二年十月宣旨で、鎌倉政権が朝廷から公式に認められる
行事
1183年
源義仲と武力衝突寸前となるが義仲の嫡男義高を頼朝の長女大姫の婿とすることで和議が成立する。
行事
1183年
源義仲(別名:木曾 義仲)は後白河法皇を拘束して、頼朝追討の宣旨を出させる。
行事
1183年
源頼朝、関東平定
事件
1183年
源頼朝は鎌倉の守りが手薄になるなどの理由で要請を断る。
行事
1183年
火打城の戦い(越前国、現:福井県北東部)
合戦
1183年
野木宮合戦(下野国、現:栃木県、群馬県一部)
合戦
1183年
倶利伽羅峠の戦い(加賀国、越中国)
合戦
1183年
篠原の戦い(加賀国、現:石川県)
合戦
1183年
水島の戦い(備中国、現:岡山県西部)
合戦
1183年
室山の戦い(播磨国、現:兵庫県南西部)
合戦
1183年
法住寺合戦(山城国、現:京都府)
合戦
1183年
10月7日
後白河法皇が源義仲に西国の平氏追討を命じ、代わりに頼朝に上洛を要請する
行事
1184年
源頼朝、問注所・公文所 設置
行事
1184年
三日平氏の乱(伊勢国、伊賀国、現:三重県)
合戦
1184年
1月
粟津の合戦後、義経を頼朝の代官として都に残す。
行事
1184年
1月20日
1184年、近江国の粟津(現在の滋賀県大津市)で行われた、源義仲(木曾義仲)と、源頼朝が派遣した源範頼・源義経の軍勢との戦いです。平氏を京都から追い出して「朝日将軍」と称賛された義仲でしたが、後白河法皇と対立して鎌倉の軍勢に追われ、この戦いで討ち死にしました。この粟津の戦いにより、源氏同士の血を洗う内部抗争が決着し、木曾義仲の勢力は滅亡します。頼朝が源氏の頂点に立ち、本格的な平氏討伐へと向かう歴史の決定的な分岐点となりました。
1184年
1月30日
宇治川の戦い
合戦
源頼朝から派遣された範頼、義経軍と源義仲で戦われた合戦。場所は、京近郊・山城宇治(現京都府宇治市)である。結果、頼朝軍の勝利となる。
1184年
2月7日
一ノ谷の戦い
行事
摂津国・一ノ谷(現:神戸市兵庫区・中央区・須磨区)で行われた戦い。源範頼、義経軍が勝利して、平重衡を捕えて京に戻る。
1184年
4月26日
木曽義仲の嫡男・源義高は、鎌倉から故郷の信濃国を目指して逃亡したが、入間河原で郎党・藤内光澄を討たれる(享年12歳)。源義高は別名は、木曾義高(きそよしたか)、清水冠者(しみずのかんじゃ)ともいう。
事件
1184年
8月8日
源範頼を大将とする平氏追討軍が鎌倉を出陣する。
行事
1184年
10月
朝廷に仕える下級貴族・大江広元(おおえのひろもと)に公文所(後:政所)の初代別当とする。三善康信(みよしのやすとし)を問注所の初代執事として開いた。
官職
1185年
源頼朝は弟・義経に対して怒り、所領を全て没収する。
行事
1185年
源義経は平宗盛父子を伴い相模国に凱旋するが、頼朝は義経の鎌倉入りを許さず。
行事
1185年
源義経は後白河法皇に頼朝追討の宣旨を強く求め下させる
行事
1185年
源義経は鎌倉入りを乞うため、源頼朝へ腰越状を送るが却下される。
行事
1185年
藤戸の戦い(備前国、現:岡山県東南部周辺)
合戦
1185年
河原津の合戦(摂津国、現:大阪府北西・南西部、兵庫県東部)
合戦
1185年
河尻の戦い(摂津国、現:大阪府北西・南西部、兵庫県東部)
合戦
1185年
1月10日
源義経が後白河法皇に西国出陣を奏上し許可を得て、讃岐国屋島に向け出陣する。
行事
1185年
2月6日
源義経は海路で西国を目指すが暴風雨で船団が難破して船が多数破損した。兵達は海にでようとしなかったが、深夜2時、暴風雨の中を少数の船で出撃し、通常3日かかる距離を4時間で到着した。
行事
1185年
2月19日
1185年(元暦2年)、源義経が四国の屋島(香川県)に陣を構える平氏を奇襲した戦いです。一ノ谷の戦いで敗れた平氏は、瀬戸内海の制海権を握り屋島に強力な水軍の拠点を築いていました。しかし、義経は嵐の中で少数の船で四国へ渡り、背後から陸上攻撃を仕掛けるという奇策を実行します。平氏は大軍が来たと勘違いして海へ逃げ出し、源氏方の勝利となりました。那須与一が扇の的を射抜いたエピソードでも有名であり、平氏を最後の決戦の地へと追い詰める歴史の決定的な契機となった重要な戦いです。
1185年
3月24日
1185年、現在の山口県下関市沖の関門海峡(壇ノ浦)で行われた、源平合戦(治承・寿永の乱)の最終決戦。源義経率いる源氏軍が、西へ逃れてきた平氏軍を激しい海上戦の末に打ち破りました。栄華を極めた平氏は、幼い安徳天皇と三種の神器とともに海に沈み、完全に滅亡(平氏滅亡)しました。これにより約5年にわたる源平の戦いが終結し、源頼朝による鎌倉幕府の成立と、武士が政治の実権を握る新しい時代(鎌倉時代)へと歴史が大きく動く決定的な転換点となりました。
1185年
3月24日
1185年、現在の山口県下関市で行われた壇ノ浦の戦いにより、5年に及んだ治承・寿永の乱(源平合戦)が終結した歴史的な出来事です。海戦を得意とする平氏は序盤こそ優勢でしたが、潮の流れの変化と源義経の常識破りな戦術の前に総崩れとなりました。幼い安徳天皇は三種の神器とともに海へ沈み、栄華を極めた平氏は完全に滅亡します。この戦いにより武士の頂点に立った源頼朝が鎌倉幕府を開くための決定的な契機となり、日本の政治が貴族から武士へと移り変わる歴史の最大の転換点となりました。
1185年
4月27日
頼朝、従二位へ昇進する。
官職
1185年
5月
源頼朝が御家人たちに義経に従ってはならぬという命令を出す。
行事
1185年
6月9日
宗盛父子と平重衡を伴わせ義経に帰洛を命じる
行事
午刻
文治地震
天災
近江国(おうみのくに、現:滋賀県)、山城国(やましろのくに、現:京都府)周辺で発生した大地震。マグニチュードは推定7.4とされ、余震が2カ月も続いた。多数の死者、皇居が破損、寺社や民家の多数が倒壊したとされる。京都では宇治橋が落下し、法勝寺の建物が倒壊する。近江でも比叡山や園城寺(おんじょうじ、現:滋賀県大津市、別名:三井寺(みいでら))の建物が倒壊するなど被害を受けた。大和国(やまとのくに、現:奈良県)でも被害が確認される。また、沿岸部では津波の発生、琵琶湖の湖水が北流して湖岸が一時的に干上がったという記録もある。
1185年
8月
東大寺・大仏開眼供養
行事
1185年
10月18日
源義経、後白河法皇に強要して「源頼朝追討の宣旨」を得る。
行事
1185年
10月29日
源頼朝の叔父・源行家と弟・義経を追討するため自ら鎌倉を発つ。
行事
1185年
11月
源頼朝、後白河法皇から「源義経追捕の宣旨」を得る。
行事
1185年 〜 1333年
11月
1185年、源頼朝が全国に守護・地頭を置き、武士による本格的な政権である鎌倉幕府を開いてから1333年に滅亡するまでの約150年間。将軍と武士が土地を媒介とした御恩と奉公で結ばれる封建制度が社会の土台となりました。頼朝の死後は北条氏が執権として政治をリードし、武士の法律である御成敗式目を制定。世界最強のモンゴル帝国が攻めてきた元寇(げんこう)という国難を乗り越えましたが、御家人への恩賞不足から不満が爆発。後醍醐天皇らの倒幕運動によって幕府は滅亡し、日本史は新たな戦乱の時代へと突き進んでいきます。
1185年
11月
1185年、源頼朝は逃亡した弟・源義経を捕まえることを口実に、朝廷(後白河法皇)に迫って全国に守護(しゅご)と地頭(じとう)を置くことを認めさせました。守護は国ごとの軍事・警察のトップ、地頭は土地の管理と税金集めを行う役職です。これにより、日本の土地の実質的な支配権が貴族から武士へと移り、武士による本格的な政権である鎌倉幕府が事実上スタートしました。「いい箱(1185)作ろう鎌倉幕府」の年号の通り、日本の歴史が貴族の世から武士の世へと決定的に切り替わった超重要イベントです。
1185年
11月1日
源頼朝の軍が駿河国・黄瀬川に着陣する。
行事
1185年
11月8日
源頼朝 京へ使者を送り、自らは駿河国・黄瀬川を発って鎌倉へ戻る。
行事
1185年
11月17日
義経が大和国・吉野山に捜索したが見つからず、妾の静御前が吉野山で捕えられる。
行事
1185年
11月28日
1185年、源平合戦の勝利後、逃亡した源義経を捕まえるという名目で、源頼朝が後白河法皇に迫り、全国に守護(しゅご)と地頭(じとう)を置く権利を認めさせた歴史的事件です(文治の勅許)。頼朝の義父・北条時政が軍勢を率いて朝廷に強烈な圧力をかけて実現させました。これにより、鎌倉の武家政権が全国の警察権と土地の徴税権を公式に握ることになり、この1185年が事実上の鎌倉幕府の成立の年とされています。武士の時代を決定づけた、日本史の最大級の転換点です。
頃
琉球で利勇(りゆう)が琉球最初の王統・天孫氏(てんそんし)を滅ぼす。
合戦
1186年
3月
九条兼実を摂政に任命され、氏長者となる。
官職
1186年
5月12日
和泉国(現:大阪府)に潜んでいた源行家を捕縛して斬首した。
行事
?
琉球で舜天王統(しゅんてんおうとう)の開祖・舜天(しゅんてん)が利勇(りゆう)を討つ。
合戦
1187年
2月
源義経は京都から奥州に逃れ藤原秀衡の庇護を受けることとなる。
行事
1187年
10月29日
奥州藤原氏・第3代当主が死去。
死去
1188年
源頼朝の申請で朝廷が藤原泰衡に源義経追討の宣旨を下す
行事
1188年
貴海島征伐(貴海国、現:奄美群島)
合戦
1188年
2月
源義経が奥州藤原氏のもとに潜伏していることが発覚する。
行事
1188年
2月
頼朝の申請を受け、朝廷より奥州・藤原泰衡(ふじわらのやすひら)に源義経追討の宣旨を下す。
行事
1188年
10月
再度、朝廷より奥州・藤原泰衡(ふじわらのやすひら)に源義経追討の宣旨を下す。
行事
閏
衣川の戦い(陸奥国、現:福島県、宮城県、岩手県、青森県、秋田県一部)
合戦
奥州・藤原泰衡(ふじわらのやすひら)が衣川館に住む義経を襲撃して自害へと追いやる。
1189年
6月13日
義経の首が鎌倉にいる源頼朝のもとへ届く。
行事
1189年
7月9日
1189年、源頼朝が弟の源義経をかくまった罪を理由に、東北地方の巨大勢力・奥州藤原氏を滅ぼした大戦争です。これを奥州合戦(おうしゅうかっせん)と呼びます。壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼした頼朝にとって、日本で唯一残った敵がこの奥州藤原氏でした。頼朝は圧倒的な大軍で東北地方を制圧して藤原氏を滅亡させ、日本全国の支配権を完全に握ります。これにより頼朝に逆らう勢力は消滅し、鎌倉幕府の全国的な覇権が確定した「武士の世の総仕上げ」となる重要な戦いです。
1189年
8月7日
石那坂の戦い(陸奥国、現:福島県、宮城県、岩手県、青森県、秋田県一部)
合戦
1189年
8月8日
阿津賀志山の戦い
合戦
源頼朝による鎌倉政権軍と奥州藤原氏の軍が陸奥国・阿津賀志山(現:福島県伊達郡国見町)で戦った合戦。 結果、鎌倉政権軍が奥州藤原軍を破った。
1189年
9月3日
郎従 (ろうじゅう)の裏切りにより、藤原泰衡(ふじわらのやすひら)が討たれる。
事件
1189年
9月6日
藤原泰衡(ふじわらのやすひら)の首が頼朝の元に届けられる。
行事
1189年
9月22日
頼朝の命により、初代の奥州総奉行として葛西清重を任命する。
官職
1189年
10月24日
頼朝、鎌倉へ戻る。
行事
1190年
大河兼任の乱(出羽国、陸奥国、現:東北地方)
合戦
1190年
10月3日
頼朝、上洛のため、鎌倉を出発する。
行事
1190年
11月
権大納言・右近衛大将(うこんえのだいしょう)に任命されるが、後々に辞退する。
官職
1191年
公文所(くもんじょ)を政所(まんどころ)と改称する。
政治
1191年
栄西 臨済宗 布教
行事
南宋(中国)から帰国した栄西は、長崎・平戸から臨済宗の布教を開始した。帰国の際、日本へお茶の実を持ち帰ったとされている。
1191年
3月22日
建久の新制で源頼朝の諸国守護権が公式に認められる。
行事
1192年
3月13日
後白河法皇 崩御
死去
1192年
7月12日
1192年、源頼朝が後鳥羽天皇から征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命された日本史上の超重要イベントです。平氏や奥州藤原氏を滅ぼし、実質的に日本を支配していた頼朝でしたが、朝廷から正式に「武士のトップ」として認められたのがこの年です。「イイクニ(1192)作ろう鎌倉幕府」でおなじみの、幕府体制が完璧に完成した瞬間であり、ここから1867年の大政奉還まで約700年間続く「武家政権(武士の世)」のシステムを決定づけた、歴史の特大ドミノの1枚目です。
1192年
8月9日
源頼朝と政子の間に次男・実朝が誕生する。
誕生
1193年
5月
富士の裾野での巻狩りで嫡男・源頼家が初めて鹿を射止め、源頼朝の後継者とみなされる。その時、源頼朝は大いに喜んで政子というが、政子はその事に頼朝の子であれば、当たり前と言った。
行事
1193年
8月17日
頼朝の弟・源範頼を伊豆へ配流。後に殺される。
行事
1195年
2月
東大寺の再建供養行事に出席のため、政子、頼家、大姫らと共に再び上洛する。
行事
1195年
3月
摂津国の住吉大社で大規模な流鏑馬を開催
行事
1196年
11月
建久七年の政変
事件
公卿・九条兼実(くじょう かねざね)が関白を罷免され失脚した事件。
1197年
7月
頼朝の長女・大姫(おおひめ)が死去。
死去
1198年
後鳥羽天皇が土御門天皇に譲位して上皇となる。
官職
1198年
12月27日
源頼朝 相模川の橋供養の帰路で落馬して体調を崩したと言われる。※諸説あり:鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』には源頼朝の死や原因について極端に少ない
事件
1199年
鎌倉幕府2代将軍 源頼家 継承
行事
1199年
1月11日
源頼朝 出家
行事
1199年
1月13日
1199年、鎌倉幕府を開いた初代将軍・源頼朝(みなもとのよりとも)が突如としてこの世を去った事件です。平氏を滅ぼし、武士の頂点に立った英雄の突然の死は、幕府内に大きな衝撃を与えました。死因については落馬とも病気とも言われており、はっきりとした記録が残っていないミステリーとなっています。頼朝という絶対的なカリスマを失ったことで、妻の北条政子(ほうじょうまさこ)の実家である北条氏と、他の有力な御家人(家臣)たちによる血で血を洗う壮絶な権力争いのドミノが倒れ始めます。
1200年
10月25日
1200年、源頼朝の死後、鎌倉幕府の有力御家人であった梶原景時(かじわらかげとき)が、他の武士たちの不満を買い、弾劾(追放)されて一族ごと滅ぼされた事件です(梶原景時の変)。景時は頼朝の厚い信頼を受けて幕府の監視役を務めていましたが、その厳しい態度から多くの恨みを買っていました。66名もの御家人による連判状(署名)によって鎌倉を追放され、京都へ向かう途中の駿河国(静岡県)で討ち取られました。幕府内部における熾烈な権力闘争の幕開けであり、北条氏が台頭していく歴史の重要な分岐点となりました。
1201年
1月23日
建仁の乱
合戦
城長茂(じょうながもち)率いる城氏一族が起こした鎌倉幕府への反乱。幕府軍によって鎮圧され、城氏は滅亡した。別名:城長茂の乱ともいわれる。
1202年
鎌倉幕府2代将軍 源頼家 征夷大将軍となる。
行事
1203年
東大寺・総供養
行事
1203年
運慶・快慶 東大寺南大門金剛力士像 完成
文化
東大寺で南大門の完成にあわせて、運慶、快慶ら慶派の20名程度の仏師が中心になり、わずか69日間によって作られた。
1203年
9月2日
1203年(建仁3年)、鎌倉幕府の2代将軍・源頼家の外戚として権力を握っていた比企能員(ひきよしかず)と、将軍の母の実家である北条氏が、幕府の主導権をめぐって激突した政治政変です。頼家が重病に倒れたことをきっかけに、北条時政は先手を打って能員を自宅に招いて暗殺。そのまま比企一族が立てこもる小御所を襲撃し、頼家の長男・一幡もろとも一族を完全に滅ぼしました。この事件により病床の頼家は将軍の座を追われて伊豆へ追放され、北条氏が幕府の最高権力者である「執権」として君臨する執権政治の端緒を開いた、鎌倉時代初期の極めて重要な転換点です。
1203年
9月7日
1203年、比企能員の変によって兄・源頼家が失脚した後、わずか12歳の源実朝(みなもとのさねとも)が鎌倉幕府の第3代征夷大将軍に就任した歴史的出来事です。しかし、政治の実権は祖父である北条時政が初代執権(しっけん)として握っており、実朝は北条氏のあやつり人形(傀儡)としての側面が強い将軍でした。彼は政治よりも和歌などの貴族文化に深く傾倒し、朝廷との関係を深めていきます。武家政権の実権が源氏から北条氏へと完全に移り変わる、歴史の重要な分岐点となる就任劇です。
1203年
9月29日
1203年、鎌倉幕府の第2代将軍・源頼家(みなもとのよりいえ)が将軍の座を奪われ、伊豆国(静岡県)の修善寺に幽閉(閉じ込められること)された政変です。頼家が重病で倒れたことをきっかけに、幕府の実権を握りたい母方の祖父・北条時政と、頼家の妻の実家である比企能員(ひきよしかず)が激しく対立しました。時政は比企一族を滅ぼし(比企能員の変)、目覚めた頼家を強制的に出家させて修善寺に追放しました。北条氏が幕府の独裁権力を握る執権政治へと向かう、歴史の決定的な分岐点です。
1203年
9月29日
1203年、「比企能員の変」で最大の政敵を滅ぼした北条時政(ほうじょうときまさ)が、将軍を補佐して政治を行う幕府の最高職「執権(しっけん)」に事実上就任した歴史的な出来事です。第3代将軍に若き源実朝を据え、彼をあやつり人形とすることで、北条氏が合法的に幕府の権力を独占するシステムを作り上げました。将軍から実権を奪い、約130年にわたる北条氏の執権政治の土台を築き上げた、歴史の決定的な分岐点です。
1204年
7月18日
1204年、鎌倉幕府の第2代将軍であった源頼家(みなもとのよりいえ)が、伊豆国の修禅寺(しゅぜんじ)で北条氏の放った刺客によって暗殺された事件です。頼家は父・頼朝の死後に将軍となりましたが、独裁的な政治を行って御家人たちの反発を招き、母の北条政子や祖父の北条時政によって将軍の座から引きずり下ろされていました。この暗殺により、源氏の正統な血筋はさらに弱体化し、北条氏が幕府の実権を完全に掌握する執権政治(しっけんせいじ)の確立へ向かう決定的な契機となりました。
1205年閏7月
1205年、鎌倉幕府の初代執権・北条時政(ほうじょうときまさ)とその妻・牧の方(まきのかた)が、第3代将軍・源実朝(みなもとのさねとも)を殺害し、娘婿の平賀朝雅(ひらがともまさ)を新将軍に擁立しようとした陰謀事件です(牧氏事件)。この計画を知った北条政子と北条義時の姉弟は、実の父親である時政を武力で制圧し、将軍を保護しました。時政は出家させられて伊豆へ追放され、政治の表舞台から完全に失脚します。義時が第2代執権に就任し、北条氏による執権政治の権力基盤がさらに強固なものとなる歴史の決定的な契機となりました。
1205年
『新古今和歌集』全二十巻 編纂
行事
後鳥羽院の勅命で編纂された勅撰和歌集。院宣により藤原定家・藤原家隆、源通具、六条有家、飛鳥井雅経・寂蓮の6人が定められ撰集作業を担当した。
1205年
6月17日
2代執権・北条泰時 就任
行事
1205年
6月22日
1205年、鎌倉幕府の有力御家人で「坂東武士の鑑」と称された畠山重忠(はたけやましげただ)が、初代執権の北条時政(ほうじょうときまさ)とその妻・牧の方(まきのかた)の陰謀により、武蔵国(神奈川県)で滅ぼされた事件です(畠山重忠の乱)。重忠はわずか130騎の兵で数万の討伐軍に立ち向かい、二俣川(横浜市)で壮絶な最期を遂げました。この事件は、無実の罪で忠臣を殺されたという同情を集め、北条氏内部の対立を深め、直後の「牧氏事件」による時政の失脚へと繋がる歴史の重要な分岐点となりました。
1213年
泉親衡の乱(相模国、現:神奈川県)
合戦
1213年
5月2日
1213年、鎌倉幕府の有力御家人であった和田義盛(わだよしもり)が、第2代執権の北条義時(ほうじょうよしとき)の度重なる挑発に激怒して起こした反乱です(和田合戦)。鎌倉の市街地で2日間にわたる激しい市街戦が繰り広げられましたが、身内である三浦氏の裏切りもあり和田一族は滅亡しました。この勝利により、義時は幕府の軍事警察のトップである侍所(さむらいどころ)の別当の地位も兼任することになり、北条氏による執権政治の権力基盤が揺るぎないものとなる歴史の決定的な契機となりました。
1215年
1月6日
初代執権・北条時政 死去
死去
1219年
1月27日
1219年、鎌倉幕府の第3代将軍・源実朝(みなもとのさねとも)が、鶴岡八幡宮で右大臣就任の儀式を行った直後、兄・頼家の息子である公暁(くぎょう)によって暗殺された歴史的事件です。享年28歳でした。この事件により、鎌倉幕府を開いた源頼朝から続く源氏の正統な血統がわずか3代で完全に断絶しました。将軍という絶対的なカリスマを失ったことで幕府と朝廷の力のバランスが崩れ、のちに後鳥羽上皇が倒幕の兵を挙げる承久の乱へと繋がる、歴史の決定的な分岐点となりました。
1221年
1221年、承久の乱で朝廷(天皇側)に大勝利した鎌倉幕府が、京都に設置した超強力な監視機関です。これが六波羅探題(ろくはらたんだい)です。今まで朝廷の顔色をうかがっていた幕府ですが、反乱を起こした後鳥羽上皇を島流しにした後、「もう二度と朝廷に反乱を起こさせない!」と、京都の朝廷を24時間体制で厳しく監視し、西日本の武士たちを取り締まるために作られました。この機関の設置により、幕府の権力は朝廷を完全に上回り、西日本にも強い支配力を及ぼす歴史の大きなドミノとなりました。
1221年
6月
1221年、朝廷の権力回復を狙う後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)が、鎌倉幕府(執権・北条義時)を倒そうとして起こした大戦争です。上皇からの命令に鎌倉の武士たちは大パニックに陥りますが、北条政子の「頼朝公の御恩は山よりも高く、海よりも深い!」という涙の大演説で大団結。約19万の大軍で京都へ進軍し、上皇軍を圧倒しました。敗れた上皇は隠岐島(島根県)へ流され、幕府は朝廷を監視する六波羅探題(ろくはらたんだい)を設置。武士の力が朝廷を完全に上回った、日本の歴史を決定づける超重要イベントです。
1224年
6月13日
2代執権・北条義時 死去
死去
1224年
6月17日
3代執権・北条泰時 就任
官職
1225年
1225年、第3代執権・北条泰時(ほうじょうやすとき)が、鎌倉幕府の政治や裁判を話し合いで決めるために設置した最高機関が評定衆(ひょうじょうしゅう)です。承久の乱の後に北条政子などの強力な指導者が相次いで亡くなり、幕府は個人の独裁政治から複数人での話し合い(合議制)へと方針を転換しました。執権、その補佐役である連署(れんしょ)、および11人の評定衆の合計13人で重要な政策や裁判を公平に決定する仕組みを作りました。この組織的な政治体制は、のちの御成敗式目制定へと繋がる、幕府の統治システム確立の重要な転換点となりました。
1225年
尼将軍・北条政子 死去
死去
1226年
1226年、鎌倉幕府の第4代将軍として、京都の公家(摂関家)出身である藤原頼経(ふじわらのよりつね:九条頼経)が就任した出来事です。第3代将軍の源実朝が暗殺されて源氏の血筋が途絶えたため、幕府は京都から名門貴族の幼児を新たな将軍として迎え入れました。これを摂家将軍(せっけしょうぐん)と呼びます。頼経は政治の実権を持たない「お飾り将軍」であり、この就任により北条氏が将軍を操って幕府を支配する執権政治の体制が完全に確立する、歴史の決定的な契機となりました。
1230年
1230年から1231年にかけて日本全国を襲った、鎌倉時代で最大の大飢饉です(寛喜の飢饉)。夏に雪が降るほどの異常な冷夏と長雨で農作物が全滅し、餓死者が続出しました。人々は生き延びるために自分の子供を奴隷として売るほど追い詰められました。この未曾有の社会不安を鎮めるため、第3代執権・北条泰時は幕府の新しいルールである御成敗式目(ごせいばいしきもく)を制定することになります。武家社会の法律が整えられる、歴史の決定的な契機となった大災害です。
1232年
8月10日
1232年、鎌倉幕府の第3代執権・北条泰時(ほうじょうやすとき)が制定した、日本史上初となる武士のための法律です。これがテストに絶対出る御成敗式目(ごせいばいしきもく)です。当時の元号をとって貞永式目(じょうえいしきもく)とも呼ばれます。それまで貴族の法律しかなく、武士たちの間で土地をめぐるトラブルが絶えなかったため、武士社会の常識である「道理(どうり)」をベースにして全51カ条の分かりやすいルールを作りました。のちの室町・江戸幕府のお手本となる、超重要な歴史の巨大ドミノです。
1235年
5月27日
1235年、鎌倉時代の天才歌人である藤原定家(ふじわらのていか)が、100人の優れた和歌を1首ずつ厳選してまとめた『百人一首(ひゃくにんいっしゅ)』が完成しました。宇都宮頼綱の依頼で、京都の小倉山にある別荘の障子(ふすま)を飾るために選ばれたため、『小倉百人一首』とも呼ばれます。飛鳥時代から鎌倉時代までの美しい恋の歌や風景の歌が集められており、のちに「かるた」として庶民の娯楽に広まるなど、日本の伝統文化の発展の決定的な契機となった作品です。
1239年
2月22日
後鳥羽天皇 崩御
死去
1242年
6月15日
3代執権・北条泰時 死去
死去
1242年
6月15日
4代執権・北条経時 就任
官職
1244年
曹洞宗・大本山である永平寺(えいへいじ、現:福井県吉田郡永平寺町)が道元により建立される。
文化
1246年
3月23日
4代執権・北条経時 死去
死去
1246年
3月23日
5代執権・北条時頼 就任
官職
1247年
6月5日
1247年(宝治元年)、鎌倉幕府の第5代執権・北条時頼(ほうじょうときより)を擁する北条氏と、幕府内で強大な力を持っていた有力御家人・三浦泰村(みうらやすむら)の勢力が激突した武力衝突です。安達氏の扇動によって始まったこの内乱は、鎌倉の市街地を巻き込む激しい戦いとなりました。最終的に敗北を悟った三浦一族約500名が、源頼朝の墓所である法華堂(ほっけどう)で集団自決し、名門・三浦氏は滅亡しました。これにより北条氏に対抗できる勢力が消滅し、北条得宗家による専制政治が確立する歴史の重要な分岐点となりました。
1249年
引付衆 設置
政治
5代執権・北条時頼(ほうじょうときより)が裁判の公正と御家人の訴訟問題などを円滑に解決するために設置した鎌倉幕府の役職。頭人、引付衆、引付奉行で組織されたもので、まずは引付会議(引付衆、奉行人の評議)にかけられ、その後に評定会議にかけられた。
1252年
6代目将軍・宗尊親王 就任
官職
公卿(くぎょう)出身の将軍だった5代目は藤原頼嗣(ふじわらのよりつぐ)に代わり、6代目は皇族である宗尊親王となった。この後、9代目まで皇族将軍となる。
1252年
鎌倉大仏 完成
文化
浄土宗の寺院・高徳院(こうとくいん、現:神奈川県鎌倉市長谷)に鎌倉大仏が本尊として完成する。正式名は、国宝・銅造阿弥陀如来坐像(どうぞうあみだにょらいざぞう)である。
1264年
モンゴルの樺太侵攻(サハリン、蝦夷が島)
合戦
1272年
二月騒動(山城国、相模国、現:京都府及び神奈川県)
運動
1274年
文永・対馬侵攻(対馬国、現:長崎県対馬市)
合戦
1274年
文永・壱岐侵攻(壱岐国、現:長崎県壱岐市)
合戦
1274年
赤坂の戦い(筑前国、現:福岡県)
合戦
1274年
鳥飼潟の戦い(筑前国、現:福岡県)
合戦
1274年
10月5日
1274年、当時世界最強だったモンゴル帝国(元)の大軍が、突然日本に攻めてきた大事件です!これを文永の役(ぶんえいのえき)と呼び、7年後の「弘安の役」と合わせて元寇(げんこう)と言います。日本の武士たちは「一騎打ち」という正々堂々としたルールで戦おうとしましたが、集団戦法と「てつはう」と呼ばれる爆弾を使う元の最新戦術の前に大苦戦。なんとか上陸を防いで元軍は撤退しましたが、この「ご褒美(土地)がもらえない防衛戦」が、後の鎌倉幕府滅亡へ向かう特大のドミノ倒しとなっていくのです。
1276年
元寇の再襲来に備えて、九州北部の博多湾沿岸一帯に石の防塁(ぼうるい)を築く。
行事
1281年
弘安・対馬侵攻(対馬国、現:長崎県対馬市)
合戦
1281年
弘安・壱岐侵攻(壱岐国、現:長崎県壱岐市)
合戦
1281年
志賀島の戦い(筑前国、現:福岡県)
合戦
1281年
壱岐島の戦い(壱岐国、現:長崎県壱岐市)
合戦
1281年
鷹島沖海戦(肥前国、現:佐賀県、対馬と壱岐を除く長崎県)
合戦
1281年
御厨海上合戦(肥前国、現:佐賀県、対馬と壱岐を除く長崎県)
合戦
1281年
鷹島掃蕩戦(肥前国、現:佐賀県、対馬と壱岐を除く長崎県)
合戦
1281年
5月
1281年、文永の役から7年後、世界最強のモンゴル帝国(元)が再び日本を侵略した大事件です。これを弘安の役(こうあんのえき)と呼びます。皇帝・フビライ・ハンは、前回の数倍となる約14万人、約4400隻という史上最大規模の大艦隊で九州に押し寄せました。しかし、鎌倉幕府が準備していた防塁(巨大な石の壁)によって元軍は上陸できず、海上で足止めされます。そこへ猛烈な台風(神風)が直撃し、元軍は壊滅。日本は国を守り抜きましたが、防衛戦だったため武士へのご褒美(恩賞)が出せず、幕府への不満が爆発していくことになります。
1285年
11月17日
1285年、鎌倉幕府の内部で起きた激しい権力闘争です。幕府の政治を立て直そうとした有力な御家人・安達泰盛(あだちやすもり)と、北条氏のプライベートな家臣団(御内人)のトップである平頼綱(たいらのよりつな)が激しく対立しました。頼綱の先制攻撃によって安達一族は滅ぼされ、この事件を境に北条氏の当主(得宗)に仕える御内人が幕府の権力を独占する「得宗専制政治」が確立しました。御家人たちの不満が高まり、鎌倉幕府の滅亡へと向かう歴史の重要な分岐点となった事件です。旧暦の11月(霜月)に起きたため霜月騒動と呼ばれます。
1293年
4月22日
1293年、鎌倉幕府の第9代執権である北条貞時(ほうじょうさだとき)が、絶対的な権力を振るっていた内管領(ないかんれい)の平頼綱(たいらのよりつな:出家して平禅門)を突然襲撃し、一族もろとも滅ぼした政変です。頼綱は霜月騒動でライバルを排除して以来、幕府の実権を完全に掌握して恐怖政治を行っていました。しかし、自らの権力を脅かされることを恐れた若い主君・貞時による電撃的な討伐作戦により、その栄華はあっけなく幕を閉じます。鎌倉幕府内部の血みどろの権力闘争と、得宗(北条氏本家)の独裁がさらに強まる歴史の分岐点となった事件です。
1297年
3月6日
1297年、鎌倉幕府の第9代執権・北条貞時が、生活に苦しむ御家人(幕府の家来)を救うために発令した日本で最初の借金帳消し令です(永仁の徳政令)。元寇(モンゴル襲来)で命がけで戦ったものの、十分なご褒美(御恩)をもらえず借金まみれになった武士たちを救済するため、売ってしまった土地を無償で取り返せるようにしました。しかし、結果的に武士はお金を借りられなくなり、さらに生活が苦しくなるという逆効果を招き、鎌倉幕府の滅亡へと繋がる歴史の決定的な分岐点となりました。
1305年
7月27日
足利尊氏が生まれる
誕生
足利尊氏は、足利貞氏(あしかがさだうじ)と母・上杉清子(うえすぎきよこ)の次男として生まれた。
1317年
1317年、天皇の位(皇位)をめぐって激しく対立していた持明院統と大覚寺統の二つの血筋に対し、鎌倉幕府が仲裁に入って成立した和解案です。承久の乱以降、天皇の決定権を握っていた幕府は、面倒な皇位継承問題に深く関わることを嫌い、両方の家から「交代で天皇を出す」という両統迭立(りょうとうてつりつ)のルールを提案しました。しかし、この曖昧な合意は結果的に両派の不満をさらに募らせ、のちの後醍醐天皇による倒幕運動と南北朝時代という長い動乱の時代を引き起こす歴史の決定的な契機となりました。
1318年
後醍醐天皇 即位
官職
1324年
9月19日
1324年、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が鎌倉幕府を倒そうと計画したものの、事前にバレて失敗に終わった事件です。天皇の側近である日野資朝(ひのすけとも)らが中心となり、「無礼講(ぶれいこう)」という飲み会を装って不満を持つ武士たちを集めて密議を行っていましたが、仲間の裏切りにより京都の監視機関である六波羅探題(ろくはらたんだい)に密告されてしまいました。この正中の変では幕府も天皇を直接罰することはできず、これがのちの巨大な倒幕運動(元弘の変)へと繋がる重要なドミノの1枚目となりました。
1326年
安藤氏の乱(蝦夷)
合戦
1331年
吉田兼好 随筆『徒然草』著す
行事
『徒然草』は、清少納言『枕草子』、鴨長明『方丈記』とならび日本三大随筆される。別名、卜部兼好(うらべのかねよし、兼好法師)という。
1331年
4月29日
1331年から1333年にかけて、後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒すために起こした一連の大反乱です。これを元弘の乱(げんこうのらん)と呼びます。最初は計画がバレて天皇が島流し(隠岐)にされるなど大失敗しますが、楠木正成のゲリラ戦の活躍や、天皇の奇跡の脱出により形勢が逆転!最後は幕府の超エリート武将だった足利尊氏と新田義貞が次々と裏切って天皇側につき、約150年続いた鎌倉幕府をついに滅亡へと追い込みました。ここから天皇中心の「建武の新政」が始まる、時代を完全にひっくり返した巨大な内乱です。
1331年
8月24日
1331年(元弘元年)、鎌倉幕府の打倒を企てた後醍醐天皇が、京都を脱出して山城国(京都府)の笠置山に立てこもり、幕府軍と激突した戦いです(元弘の乱の始まり)。天皇の挙兵に応じて楠木正成なども立ち上がりましたが、圧倒的な兵力を誇る幕府軍の猛攻により笠置山はわずか1か月で落城しました。捕らえられた後醍醐天皇は隠岐(島根県)へ流罪となりますが、この戦いは全国の武士たちに倒幕の火種をばらまき、やがて鎌倉幕府滅亡へと繋がる歴史の決定的な契機となりました。
1331年
9月11日
1331年(元弘元年)、鎌倉幕府打倒を目指す後醍醐天皇の挙兵(元弘の乱)に呼応し、河内国の悪党・楠木正成(くすのきまさしげ)が幕府軍の大軍を相手に繰り広げた籠城戦です。下赤坂城(大阪府千早赤阪村)に立てこもった正成は、わずか数百の兵で数万の幕府軍を迎え撃ち、熱湯や大木を落とすなどの奇想天外なゲリラ戦法で敵を大混乱に陥れました。最終的には城に火を放って自ら姿をくらましますが、この痛快な戦いぶりは全国の武士に「幕府は恐れるに足らず」という強烈なメッセージを与え、鎌倉幕府滅亡へと繋がる歴史の決定的な契機となりました。
1333年
瀬川合戦(摂津国、現:大阪府北西・南西部、兵庫県東部)
合戦
1333年
千早城の戦い(河内国、現:大阪府南東部)
合戦
1333年
船上山の戦い(伯耆国、現:鳥取県西部)
合戦
1333年
小手指原の戦い(武蔵国、現:東京都、埼玉県、神奈川県一部)
合戦
1333年
久米川の戦い(武蔵国、現:東京都、埼玉県、神奈川県一部)
合戦
1333年
分倍河原の戦い(武蔵国、現:東京都、埼玉県、神奈川県一部)
合戦
1333年
関戸の戦い(武蔵国、現:東京都、埼玉県、神奈川県一部)
合戦
1333年
鎌倉の戦い(相模国、現:神奈川県)
合戦
1333年
東勝寺合戦(相模国、現:神奈川県)
合戦
1333年
鎮西探題の戦い(筑前国、現:福岡県)
合戦
1333年
5月7日
1333年、鎌倉幕府の有力御家人であった足利尊氏(あしかがたかうじ)が幕府を裏切り、京都にあった幕府の西日本支配の拠点である六波羅探題(ろくはらたんだい)を攻め滅ぼした戦いです。倒幕を目指す後醍醐天皇の呼びかけに応じた尊氏や赤松円心らの猛攻により、六波羅探題は陥落しました。逃亡した北条氏のトップたちも近江国(滋賀県)で自刃し、西日本における幕府の支配は完全に崩壊します。この大勝利が東国での新田義貞の挙兵を誘発し、鎌倉幕府滅亡への端緒を開いた歴史の決定的な分岐点です。
1333年
5月22日
1333年、約150年続いた武士の政権である鎌倉幕府が滅亡した日本史の超重要イベントです。元寇(モンゴル襲来)以降、命がけで戦ったのにご褒美をもらえなかった武士たちの不満が爆発。そこへ「幕府を倒して天皇中心の世の中を取り戻す!」と立ち上がった後醍醐天皇の呼びかけに応じ、足利尊氏や新田義貞といった有力な武士たちが次々と幕府を裏切りました。新田軍の猛攻により本拠地の鎌倉は炎上し、北条一族が滅亡。ここから「建武の新政」や「南北朝時代」という激動の時代へ突入する、歴史の特大ドミノの1枚目です。
1333年 〜 1336年
5月22日
1333年に鎌倉幕府が滅亡した後、後醍醐天皇が始めた天皇中心の新しい政治体制です。約150年続いた武士の政治(幕府)を終わらせ、昔のような天皇がすべてを決める理想の国づくりを目指しました。しかし、武士の不満を無視して貴族ばかりを優遇したため、一緒に幕府を倒した足利尊氏らが猛反発。政治の混乱も重なり、わずか3年足らずで崩壊してしまいます。その後、朝廷が二つに分かれる南北朝時代へと突入していく、短くも激動の時代です。
1334年
5月22日
鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇が、約150年ぶりに始めた「天皇中心の新しい政治」です。これを建武の新政(けんむのしんせい)と呼びます。しかし「新しい」と言いながら、中身は昔の平安時代に戻ろうとする時代遅れなものでした。命がけで戦った武士たちへのご褒美(恩賞)は少なく、公家(貴族)ばかりをひいきしたため、武士たちの不満が大爆発!わずか2年半で足利尊氏らに反乱を起こされて失敗に終わります。この失敗がキッカケで、日本に2人の天皇が存在する大混乱の南北朝時代へと突入していく、歴史の特大ドミノの1枚目です。
1335年
青沼合戦(信濃国、現:長野県、岐阜県一部)
合戦
1335年
井手の沢の戦い(武蔵国、現:東京都、埼玉県、神奈川県一部)
合戦
1335年
建武の乱(日本各地)
合戦
1335年
矢作川の戦い(三河国、現:愛知県東半部)
合戦
1335年
手越河原の戦い(駿河国、現:静岡県中東部)
合戦
1335年
箱根・竹ノ下の戦い(駿河国、現:静岡県中東部)
合戦
1335年
千田荘の合戦(下総国、現:千葉県北部、茨城県南西部)
合戦
1335年
7月
1335年、滅亡した鎌倉幕府の復活を目指し、北条氏の生き残りである北条時行(ほうじょうときゆき)が起こした反乱です。これを中先代の乱(なかせんだいのらん)と呼びます。建武の新政に不満を持っていた武士たちが次々と味方し、時行はなんと鎌倉を奪い返すことに大成功!しかし、わずか20日後に足利尊氏に鎮圧されたため「二十日先代の乱」とも呼ばれます。この事件をキッカケに尊氏が天皇の命令を無視して独立(裏切り)することになるため、室町幕府と南北朝時代への扉をこじ開けた「歴史の重要なドミノ」となる大事件です。
1336年
1336年、建武の新政に失敗した後醍醐天皇に対し、武士の支持を集めた足利尊氏が反旗を翻して勃発した巨大な内戦です。京都を制圧した尊氏は新しく光明天皇を立てて北朝(ほくちょう)とし、逃げた後醍醐天皇は奈良の吉野で南朝(なんちょう)を開きました。日本に二人の天皇が存在するという異常事態は、全国の武士たちの領地争いを巻き込んで泥沼化します。1392年に第3代将軍・足利義満によって統一されるまで、約56年間も続く室町時代の歴史の決定的な契機となりました。
1336年
豊島河原合戦(摂津国、現:大阪府北西・南西部、兵庫県東部)
合戦
1336年
多々良浜の戦い(筑前国、現:福岡県)
合戦
1336年
近江の戦い(近江国、現:滋賀県)
合戦
1336年 〜 1392年
1336年から1392年まで、日本に「北朝(京都)」と「南朝(吉野)」という2つの朝廷が同時に存在し、約60年間も争い続けた大戦乱の時代です。建武の新政に失敗した後醍醐天皇が吉野へ逃れて南朝を開き、足利尊氏が京都に室町幕府と北朝を立てたことで始まりました。全国の武士たちは領地を守るために味方をコロコロと変えながら戦い続けました。最終的には3代将軍・足利義満の圧倒的な力によって、1392年に南北朝の合一が果たされ、長い争いは幕を閉じました。
1336年
2月10日
1336年(建武3年)、後醍醐天皇を守る新田義貞・北畠顕家らの天皇方連合軍と、武家政権の復活を掲げて反旗を翻した足利尊氏の軍勢が、摂津国の豊島河原(現在の大阪府箕面市・池田市付近)で激突した大規模な戦いです。京都を占領していた尊氏に対して天皇方が猛反撃を行い、総力戦の末に天皇方が見事な勝利を収めました。敗北した尊氏は命からがら九州へと逃亡しますが、そこで奇跡的な復活を遂げて湊川の戦いへと繋がり、日本が南北朝時代という長い動乱へと突入する歴史の重要な分岐点となった戦いです。
1336年
5月25日
1336年、九州で大軍勢を集めて京都へ迫る足利尊氏(あしかがたかうじ)を、天皇側の新田義貞(にったよしさだ)と楠木正成(くすのきまさしげ)が現在の兵庫県(湊川)で迎え撃った激しい戦いです。結果は圧倒的な兵力を持つ足利軍の勝利となり、天才戦術家として名高い楠木正成はここで無念の戦死を遂げました。この湊川の戦いに勝利した尊氏が京都を制圧して新たな天皇を立てたことで、日本が真っ二つに割れる南北朝時代(なんぼくちょうじだい)へと突入していく歴史の大きな転換点となりました。
1336年 〜 1573年
11月7日
1336年に足利尊氏が建武式目を制定し、京都に室町幕府を開いてから、1573年に15代将軍義昭が織田信長に追放されるまでの約240年間。前半は朝廷が二つに分かれて戦う南北朝時代でしたが、3代将軍足利義満がこれを統一し、幕府の全盛期を築きました。明(中国)との勘合貿易で経済が発展し、金閣や銀閣に代表される華やかな文化(北山・東山文化)が花開きました。しかし後半は、跡継ぎ争いから始まった応仁の乱をきっかけに幕府の力が衰え、実力主義で下剋上が横行する戦国時代へと突入していく、波乱万丈の時代です。
1336年
11月7日
1336年、京都を制圧して新たな武家政権(のちの室町幕府)をスタートさせた足利尊氏(あしかがたかうじ)が発表した、新しい政府の基本方針(マニフェスト)が建武式目(けんむしきもく)です。これはガチガチの法律ではなく、「これからはこんな感じで政治をやっていくぞ!」という17か条のスローガンでした。鎌倉幕府の御成敗式目(ごせいばいしきもく)の精神を受け継ぎつつ、派手な生活を禁止したり、礼儀作法を大切にしたりと、武士たちの道徳やマナーに重点を置いているのが特徴です。ここから約240年続く室町幕府の土台が築かれました。
1337年
金ヶ崎の戦い(南北朝時代)(越前国、現:福井県北東部)
合戦
1338年
杉本城の戦い(相模国、現:神奈川県)
合戦
1338年
青野原の戦い(美濃国、現:岐阜県南部)
合戦
1338年
石津の戦い(和泉国、現:大阪府南西部)
合戦
1338年
藤島の戦い(越前国、現:福井県北東部)
合戦
1338年
常陸合戦(南北朝時代)(常陸国、現:茨城県)
合戦
1338年
8月11日
足利尊氏 征夷大将軍 任命
官職
1338年
8月11日
足利尊氏 室町幕府初代・征夷大将軍 任命
官職
1341年
関城・大宝城の戦い(常陸国、現:茨城県)
合戦
1348年
四條畷の戦い(河内国、現:大阪府南東部)
合戦
1350年
10月
1350年(観応元年)から始まった室町幕府の内部を真っ二つに引き裂いた大内乱です。初代将軍・足利尊氏とその弟で政治を任されていた足利直義(あしかがただよし)、そして尊氏の側近である高師直(こうのもろなお)の三つ巴の権力闘争が原因で勃発しました。対立は武力衝突に発展し、双方が敵であるはずの南朝に寝返るなど、全国の武士を巻き込む大混乱となりました。結果的に直義が敗死し尊氏が勝利を収めますが、幕府の権威は大きく揺らぎ、南北朝時代の動乱をさらに長期化させる歴史の決定的な契機となりました。
1351年
光明寺合戦(播磨国、現:兵庫県南西部)
合戦
1351年
打出浜の戦い(摂津国、現:大阪府北西・南西部、兵庫県東部)
合戦
1351年
薩埵峠の戦い(駿河国、現:静岡県中東部)
合戦
1352年
八幡の戦い(山城国、現:京都府)
合戦
1352年
武蔵野合戦(武蔵国、現:東京都、埼玉県、神奈川県一部)
合戦
1352年
小手指原の戦い(武蔵国、現:東京都、埼玉県、神奈川県一部)
合戦
1352年
笛吹峠の戦い(武蔵国、現:東京都、埼玉県、神奈川県一部)
合戦
1355年
神南の戦い(摂津国、現:大阪府北西・南西部、兵庫県東部)
合戦
1358年
4月30日
足利尊氏 室町幕府初代・征夷大将軍 退任
官職
1358年
4月30日
室町幕府初代将軍 足利尊氏 死去
死去
1359年
筑後川の戦い(筑後国、現:福岡県南部)
合戦
1359年
12月8日
足利義詮 室町幕府2代・征夷大将軍 任命
官職
1366年
1366年、室町幕府の第2代将軍・足利義詮(あしかがよしあきら)の時代に起きた大きな権力闘争です。将軍の補佐役(執事)として独裁的な権力を振るっていた細川清氏(ほそかわきようじ)が、「ばさら大名」として知られる佐々木道誉(ささきどうよ)らの裏工作によって失脚しました。幕府を追われた清氏は敵である南朝側に寝返り、一時京都を占領しますが、いとこの細川頼之に討たれます。この事件を機に、将軍を補佐する「管領(かんれい)」の制度が確立し、室町幕府の組織が安定していく歴史の決定的な契機となりました。
1367年
12月7日
足利義詮 室町幕府2代・征夷大将軍 退任
官職
1368年
漆川の戦い(出羽国、現:秋田県)
合戦
1368年
武蔵平一揆の乱(武蔵国、現:東京都、埼玉県、神奈川県一部)
運動
1369年
12月30日
足利義満 室町幕府3代・征夷大将軍 任命
官職
代
平尾合戦(河内国、現:大阪府南東部)
合戦
1390年
土岐康行の乱(美濃国、現:岐阜県南部)
合戦
1391年
明徳の乱(山城国、現:京都府)
合戦
1391年
内野合戦(山城国、現:京都府)
合戦
1392年
10月
1392年、室町幕府の第3代将軍・足利義満の主導により、約60年間も真っ二つに分かれて戦っていた「北朝(京都)」と「南朝(奈良)」の2つの朝廷が一つにまとまった歴史的大事件です。これを南北朝の合一(なんぼくちょうのごういつ)と呼びます。義満は、南朝の後亀山天皇から北朝の後小松天皇へ「三種の神器」を譲り渡すという平和的な儀式を実現させ、長きにわたる内乱を終わらせました。これにより幕府の権力は絶対的なものとなり、室町時代は最盛期を迎えることになります。
1392年
10月27日
1392年、室町幕府の第3代将軍・足利義満が、約60年間続いていた北朝と南朝の内乱を終わらせた歴史的な出来事です(明徳の和約)。義満は、南朝の後亀山天皇に対して「今後の天皇は北朝と南朝から交互に出す(両統迭立)」などの条件を提示して和解に持ち込みました。南朝から北朝の後小松天皇へ三種の神器が引き渡され、日本は再び一つの国にまとまります。この合一により義満の権力は絶対的なものとなり、室町幕府が全盛期を迎える決定的な契機となりました。
1394年
北海夷狄動乱(蝦夷地)
合戦
1395年
12月17日
足利義満 室町幕府3代・征夷大将軍 退任
官職
1395年
12月17日
足利義持 室町幕府4代・征夷大将軍 任命
官職
1397年
1397年、室町幕府の第3代将軍・足利義満が、京都の北山に別荘として建立した楼閣です。正式名称は鹿苑寺(ろくおんじ)と言います。公家文化と武家文化、そして禅宗の文化が見事に融合した北山文化(きたやまぶんか)の最高傑作として知られています。義満はここで天皇を迎え入れたり、明(中国)の使者と会見したりするなど、自らの権力を国内外に見せつけました。将軍の権力が天皇を凌駕するほどに高まった、室町時代の最盛期を象徴する歴史的な建造物です。
1399年
応永の乱(和泉国、山城国、現:大阪府堺市及び京都府)
合戦
1399年
堺の戦い(和泉国、現:大阪府堺市)
合戦
1400年
大塔合戦(信濃国、現:長野県長野市)
合戦
1404年
室町幕府の第3代将軍・足利義満が、中国の明(みん)との間で始めた超ボロ儲けの公式貿易です。当時、東シナ海を荒らしまわっていた日本の海賊・倭寇(わこう)と、正式な貿易船を見分けるために「勘合(かんごう)」という割符(証明書)を使ったため、勘合貿易(かんごうぼうえき)とも呼ばれます。日本の刀や硫黄を輸出し、明から大量の銅銭(明銭)や高級な絹織物を輸入することで、幕府に莫大な富をもたらしました。この莫大な利益が室町幕府の全盛期を支え、日本全国にお金(貨幣)が広まる特大のキッカケとなりました。
1406年
尚巴志・中山侵攻
合戦
琉球国(現:沖縄県)の中山王国において、按司(あじ、豪族)の尚巴志が中山王・武寧(ぶねい)がいる浦添城(うらそえじょう、現:沖縄県浦添市)を攻め、56年間続いた察度王統(さっとおうとう)を滅ぼした戦い。戦いに勝利した尚巴志は中山王にならず、父・尚思紹(しょうししょう)を第一尚氏王統の初代国王(中山王)として即位させた。
1407年
山入一揆(常陸国、現:茨城県)
運動
1411年
飛騨の乱(飛騨国、現:岐阜県北部)
合戦
1413年
伊集院頼久の乱(薩摩国、現:鹿児島県西部)
合戦
1414年
北畠満雅の挙兵(伊勢国、現:三重県北中部、愛知県・岐阜県一部)
合戦
1416年
尚巴志・北山侵攻
合戦
琉球国(現:沖縄県)において、中山王国の尚巴志が北山王国・攀安知(はんあんち)がいる今帰仁城(なきじんじょう、現:沖縄県国頭郡今帰仁村)を3000兵で攻め、北山王国は滅亡させた戦い。
1416年
上杉禅秀の乱(相模国、武蔵国、駿河国、甲斐国)
合戦
1417年
世谷原の戦い(武蔵国、現:神奈川県横浜市)
合戦
1418年
上総本一揆(上総国、現:千葉県)
運動
1419年
応永の外寇(対馬国、現:長崎県)
合戦
1422年
小栗満重の乱(北関東地方)
合戦
1423年
3月18日
足利義持 室町幕府4代・征夷大将軍 退任
官職
1423年
3月18日
足利義量 室町幕府5代・征夷大将軍 任命
官職
1425年
2月27日
足利義量 室町幕府5代・征夷大将軍 退任
官職
1428年
8月
1428年(正長元年)、近畿地方の農民や運送業者(馬借)たちが、借金の帳消し(徳政)を求めて起こした日本で最初の土一揆(つちいっき)です。大群衆が京都になだれ込み、高利貸しを営む土倉(どそう)や酒屋(さかや)を襲撃して、借金の証拠の札を破り捨てました。室町幕府は要求を拒否しましたが、民衆は実力で借金をゼロ(私徳政)にしてしまいました。民衆のパワーが幕府の権威を揺るがした、室町時代を象徴する特大ドミノの1つです。
1429年
1429年、沖縄本島を統一した尚巴志(しょうはし)によって建てられた、日本とアジアを結ぶ独立国です。これが琉球王国(りゅうきゅうおうこく)です。当時の沖縄は「北山」「中山」「南山」の3つの勢力に分かれて激しく争う「三山時代」でしたが、尚巴志がこれを一つにまとめ上げました。中国(明)や日本、東南アジアとの間の中継貿易(なかつぎぼうえき)で莫大な富を築き、独自の華やかな文化(首里城など)を花開かせました。約450年間も栄え続け、のちに薩摩藩に支配されるまで、東アジアの海をまたにかける「世界の架け橋」として大活躍した歴史の重要ドミノです。
1429年
北畠満雅の再度の挙兵と敗死(伊勢国、現:三重県北中部、愛知県・岐阜県一部)
合戦
1429年
尚巴志・南山侵攻
合戦
琉球国(現:沖縄県)において、中山王国の尚巴志が南山王国・他魯毎(たるみい)がいる南山城(なんざんじょう、現:沖縄県糸満市大里)を攻め、南山王国は滅亡させた戦い。
1429年
大和永享の乱(大和国、現:奈良県)
合戦
1429年
3月15日
足利義教 室町幕府6代・征夷大将軍 任命
官職
1438年
8月
1438年、関東のトップである鎌倉公方の足利持氏(あしかがもちうじ)が、補佐役の関東管領・上杉憲実(うえすぎのりざね)と激しく対立したことで起きた内乱です。持氏の将軍に対する強いライバル心から始まったこの争いは、室町幕府の第6代将軍・足利義教(あしかがよしのり)が持氏の討伐を命じたことで大規模な戦いへと発展しました。結果として幕府軍が勝利し、持氏は自害して鎌倉府は一時的に滅亡します。この事件は、関東地方が全国に先駆けて戦乱の時代へと突入していく歴史の決定的な契機となりました。
1440年
結城合戦(下総国、現:茨城県結城市)
合戦
1441年
庫御所の戦い(播磨国、現:兵庫県神戸市)
合戦
1441年
人丸塚の戦い(播磨国、現:兵庫県明石市)
合戦
1441年
真弓峠の戦い(播磨国、現:兵庫県朝来市・神河町)
合戦
1441年
城山城の戦い(播磨国、現:兵庫県たつの市)
合戦
1441年
6月9日
1441年、室町幕府の第6代将軍・足利義教(あしかがよしのり)が、有力な家臣(守護大名)である赤松満祐(あかまつみつすけ)によって宴会の席で暗殺された大事件です。義教は「万人恐怖」と呼ばれる恐ろしい独裁政治を行っており、自分の領地を奪われると恐れた満祐が先手を打って将軍を殺害しました。その後、満祐は幕府の討伐軍に敗れて自害しますが、この嘉吉の乱によって「将軍が家臣に殺される」という前代未聞の事態が起き、幕府の権威は地に堕ちてしまいます。やがて応仁の乱から戦国時代へと向かう、下克上(げこくじょう)の特大ドミノが倒れた歴史の重要な転換点です。
1441年
6月24日
足利義教 室町幕府6代・征夷大将軍 退任
官職
1441年
8月
1441年、足利義教が暗殺された「嘉吉の乱」の直後、代替わりを理由に京都周辺の数万人の農民が借金帳消しを求めて起こした大規模な反乱です(嘉吉の徳政一揆)。一揆の群衆は京都を封鎖し、高利貸しである土倉(どそう)や酒屋(さかや)を襲撃しました。混乱する室町幕府は反乱を鎮圧できず、要求に屈して幕府として初めての徳政令を発布しました。民衆の力で国の法律を変えさせたこの事件は、幕府の権威失墜を象徴する歴史の決定的な分岐点となりました。
1441年
9月
1441年(嘉吉元年)、第6代将軍・足利義教が暗殺された嘉吉の乱の直後に勃発した土一揆(嘉吉の徳政一揆)に対し、室町幕府がその要求に屈して発布した借金帳消しの法令です。「代初め(新将軍の就任)には徳政が行われるべきだ」という民衆の声を背景に、数万人規模の一揆衆が京都を封鎖して土倉や酒屋を襲撃しました。幕府が武力で鎮圧できずに民衆の要求を丸呑みしたことは、幕府の権威が大きく揺らいだことを示しており、その後の下剋上の時代へと向かう歴史の重要な転換点となりました。
1442年
11月7日
足利義勝 室町幕府7代・征夷大将軍 任命
官職
1443年
禁闕の変(山城国、現:京都府)
合戦
1443年
7月21日
足利義勝 室町幕府7代・征夷大将軍 退任
官職
1447年
尚思達王(しょうしたつおう)、奄美大島を服属させる。(琉球、奄美大島)
合戦
1449年
4月29日
足利義政 室町幕府8代・征夷大将軍 任命
官職
1455年
分倍河原の戦い(武蔵国、現:東京都府中市)
合戦
1455年
第一次筒井城の戦い(大和国、現:奈良県大和郡山市)
合戦
1455年
第一次足利城の戦い(下野国、現:栃木県足利市)
合戦
1455年
12月27日
1454年末(データ上は1455年)、鎌倉公方の足利成氏が、対立する関東管領の上杉憲忠を暗殺したことで始まった関東地方の大乱です。この事件を機に、室町幕府・上杉氏の連合軍と、足利成氏を支持する関東の武士たちが激突し、関東地方を東西に二分する戦いが約28年間も続きました。応仁の乱よりも早くに関東を実力主義の時代へと引きずり込み、東日本における戦国時代の幕開けとなる歴史の決定的な契機となった超重要事件です。
1457年
1457年に蝦夷地(現在の北海道)で起きた、アイヌ民族の首長コシャマインを指導者とする大規模な和人(日本人)への反乱です。和人の鍛冶屋がアイヌの若者を殺害した事件をきっかけに、和人の不当な交易に不満を溜めていたアイヌの人々が一斉に蜂起しました。アイヌ軍は和人が築いた12の館(砦)のうち10を落とすほどの猛威を振るいましたが、客将であった武将・武田信広によって鎮圧されました。この戦いは、その後の和人による蝦夷地支配と松前藩誕生の端緒を開いた、北方史における決定的な契機となる事件です。
1457年
蠣崎蔵人の乱(陸奥国、現:青森県)
合戦
1457年
長禄の変(大和国、現:奈良県)
合戦
1458年
長禄合戦(越前国、現:福井県)
合戦
1459年
太田庄の戦い(武蔵国、現:埼玉県熊谷市、上野国、現:群馬県館林市・板倉町)
合戦
1460年
嶽山城の戦い(河内国、現:大阪府富田林市)
合戦
1466年
金森合戦(近江国、現:滋賀県守山市金森)
合戦
1466年
尚徳王、喜界島 併合(琉球、現:鹿児島県喜界島)
合戦
1466年
第二次筒井城の戦い(大和国、現:奈良県大和郡山市)
合戦
1467年 〜 1573年
1467年の応仁の乱をきっかけに幕府の力が衰え、約100年以上にわたって日本全国の武将たちが領土を奪い合った激動の時代。身分が低くても実力で上の者を倒す下克上(げこくじょう)の風潮が広まり、各地で戦国大名が誕生しました。鉄砲やキリスト教など西洋の文化も伝来し、社会が大きく変化。織田信長や武田信玄など、誰もが知る有名な武将たちが天下統一を目指して激しい戦いを繰り広げた、日本史の中でも特に人気が高く熱い時代です。
1467年
室町幕府・将軍家の相続問題を発端として、有力守護大名である畠山氏と斯波氏の家督争いなどが複雑に絡み合い、東軍と西軍に別れて京都を主戦場として11年間も争った大乱。8代将軍・足利義政と正室・日野富子に子が生まれ、実弟・足利義視との間で後継者争いが発生。これが有力守護大名の権力闘争と結びつき、東軍の総大将・細川勝元、西軍の総大将・山名宗全の2大陣営に分かれて応仁の乱へと発展しました。この戦いをきっかけに室町幕府の権威は完全に失墜し、実力主義の約150年間続く戦国時代が始まったとされています。
1467年
御霊合戦(山城国、現:京都府京都市)
合戦
1467年
上京の戦い(山城国、現:京都府京都市)
合戦
1467年
東岩倉の戦い(山城国、現:京都府京都市)
合戦
1467年
三宝院の戦い(山城国、現:京都府京都市)
合戦
1467年
相国寺の戦い(山城国、現:京都府京都市)
合戦
1468年
第二次観音寺城の戦い(近江国、現:滋賀県近江八幡市)
合戦
1468年
西陣の戦い(山城国、現:京都府京都市)
合戦
1468年
第一次観音寺城の戦い(近江国、現:滋賀県近江八幡市)
合戦
1469年
西岡の戦い(山城国、現:京都府福知山市)
合戦
1469年
第三次観音寺城の戦い(近江国、現:滋賀県近江八幡市)
合戦
1469年
尚円王クーデター、第二尚氏王統 成立
合戦
琉球国(現:沖縄県)において尚円王がクーデターを起こし、第一尚氏王統(だいいちしょうしおうとう)を滅亡させた事件。尚円王は、第二尚氏王統の初代国王(在位:1469年 - 1476年)に即位する。
1470年
大内道頓の乱(安芸国、石見国、長門国、現:中国地方)
合戦
1473年
五十子の戦い(武蔵国、現:埼玉県本庄市)
合戦
1474年
12月19日
足利義政 室町幕府8代・征夷大将軍 退任
官職
1474年
12月19日
足利義尚 室町幕府9代・征夷大将軍 任命
官職
1476年
長尾景春の乱(武蔵国、相模国、下野国、上総国、下総国)
合戦
1477年
江古田・沼袋原の戦い(武蔵国、現:東京都中野区)
合戦
1477年
若江城の戦い(河内国、現:大阪府東大阪市)
合戦
1477年
第三次筒井城の戦い(大和国、現:奈良県大和郡山市)
合戦
1478年
境根原合戦(下総国、現:千葉県柏市)
合戦
1479年
蓮如、山科本願寺 建立
文化
1479年
第一次毛利次郎の乱(因幡国、現:鳥取県)
合戦
1480年
菖蒲沼の戦い(出羽国、現:山形県寒河江市)
合戦
1480年
文明美濃の乱(美濃国、現:岐阜県大垣市)
合戦
1481年
田屋川原の戦い(越中国、現:富山県南砺市)
合戦
1483年
犬田城の戦い(河内国、現:大阪府枚方市)
合戦
1483年
河内十七箇所の戦い(河内国、現:大阪府)
合戦
1483年
第四次筒井城の戦い(大和国、現:奈良県大和郡山市)
合戦
1485年
応仁の乱の舞台となった山城国(現在の京都府南部)で、地元の人々が団結して起こした大規模な反乱。応仁の乱が終わった後も、守護大名の畠山氏は身内争いを続けていました。終わらない戦と重税に怒った地元の武士(国人)や農民たちが立ち上がり、なんと両軍を山城国から追放!その後、彼らは平等寺で集会を開き、約8年間にもわたって独自の自治を行いました。名もなき人々が大名に打ち勝った、戦国時代の「下克上」を象徴する歴史的事件です。
1485年
馬門原の戦い(肥後国、現:熊本県山都町)
合戦
1487年
長享・延徳の乱(近江国、現:滋賀県)
合戦
1487年
第二次毛利次郎の乱(因幡国、現:鳥取県)
合戦
1487年
長享の乱(関東地方)
合戦
1488年
加賀国(現在の石川県)で、一向宗(浄土真宗)の信徒たちが守護大名を倒し、約100年にもわたって自分たちで国を支配した歴史的事件。室町時代後期、僧侶の蓮如の布教によって北陸地方で爆発的に信者を増やした一向宗ですが、加賀の守護大名・富樫政親に弾圧されます。これに激怒した農民や地元の武士(門徒)たちが団結して一揆を起こし、政親を滅ぼしました。その後、彼らは大名がいない「百姓の持ちたる国」を作り上げ、織田信長に平定されるまで長期にわたる強固な自治を実現しました。
1488年
高尾城の戦い(加賀国、現:石川県金沢市)
合戦
1488年
実蒔原の戦い(相模国、現:神奈川県伊勢原市)
合戦
1488年
須賀谷原の戦い(武蔵国、現:埼玉県嵐山町)
合戦
1488年
高見原の戦い(武蔵国、現:埼玉県小川町・寄居町)
合戦
1489年
3月26日
足利義尚 室町幕府9代・征夷大将軍 退任
官職
1490年
2月
足利義政、銀閣寺(慈照寺) 建立(あしかがよしまさ ぎんかくじ(じしょうじ) こんりゅう)
文化
1490年
7月5日
足利義材 室町幕府10代・征夷大将軍 任命
官職
1493年
北条早雲(ほうじょう そううん、別名:伊勢宗瑞(いせそうずい))が伊豆の堀越公方(ほりごえくぼう)を滅ぼす。
行事
1493年
4月
1493年、室町幕府の実力者である管領・細川政元がクーデターを起こし、10代将軍・足利義材(よしき)を追放した大事件。この明応の政変によって、家臣がトップである将軍のクビを勝手にすげ替えるという究極の下克上(げこくじょう)が成立しました。これまで辛うじて保たれていた将軍の権威は完全に消滅し、日本の歴史において「この事件こそが真の戦国時代の始まりである」と考える歴史家も多い、室町幕府の崩壊を決定づけた歴史的ターニングポイントです。
1493年
6月29日
足利義材 室町幕府10代・征夷大将軍 退任
官職
1495年
船田合戦(美濃国、現:岐阜県岐阜市)
合戦
1495年
正法寺の戦い(美濃国、現:岐阜県岐阜市)
合戦
1495年
12月27日
足利義澄 室町幕府11代・征夷大将軍 任命
官職
1496年
城田寺城の戦い(美濃国、現:岐阜県岐阜市)
合戦
1500年
尚真王、先島諸島 征服(琉球・先島、現:沖縄県先島諸島)
合戦
1500年
オヤケアカハチの乱(琉球、現:沖縄県)
合戦
1502年
第一次伊庭氏の乱(近江国、現:滋賀県)
合戦
1503年
敦賀城の戦い(越前国、現:福井県北東部)
合戦
1504年
立河原の戦い(武蔵国、現:東京都立川市)
合戦
1504年
第一次淀古城の戦い(山城国、現:京都府)
合戦
1506年
今橋合戦(三河国、現:愛知県豊橋市)
合戦
1506年
九頭竜川の戦い(越前国、現:福井県)
合戦
1506年
般若野の戦い(越中国、現:富山県砺波市)
合戦
1507年
玉之浦納の反乱(肥前国、現:長崎県)
合戦
1508年
坊峰合戦(甲斐国、現:山梨県笛吹市・山梨県甲府市)
合戦
1508年
勝山合戦(甲斐国、現:山梨県笛吹市・山梨県甲府市)
合戦
1508年
4月16日
足利義澄 室町幕府11代・征夷大将軍 退任
官職
1508年
7月1日
足利義稙(義材) 室町幕府10代・征夷大将軍 再復帰
官職
1509年
如意ヶ嶽の戦い(近江国、現:京都市左京区)
合戦
1509年
片角軍萱の戦い(下野国、現:栃木県)
合戦
1510年
長森原の戦い(越後国、現:新潟県南魚沼市)
合戦
1510年
三浦の乱(李氏朝鮮)
合戦
1511年
深井の合戦(和泉国、現:大阪府堺市)
合戦
1511年
芦屋河原の合戦(摂津国、現:兵庫県芦屋市)
合戦
1511年
船岡山の戦い(丹波国、現:京都府京都市北区)
合戦
1512年
宇都宮錯乱(下野国、現:栃木県)
合戦
1513年
蠣崎光広の陰謀、松前の大館 攻撃(蝦夷が島、現:北海道松前郡)
合戦
1514年
竹林の戦い(下野国、現:栃木県宇都宮市)
合戦
1514年
第二次伊庭氏の乱(近江国、現:滋賀県)2
合戦
?
ショヤコウジ兄弟の戦い(蝦夷が島、現:北海道)
合戦
1516年
縄釣の戦い(下野国、現:栃木県宇都宮市)
合戦
1516年
第五次筒井城の戦い(大和国、現:奈良県大和郡山市)
合戦
1517年
有田中井手の戦い(安芸国、現:広島県)
合戦
1519年
田中城の戦い(摂津国、現:兵庫県三田市)
合戦
1519年
越水城の合戦(摂津国、現:兵庫県西宮市)
合戦
1520年
等持院の戦い(山城国、現:京都府京都市)
合戦
1520年
境川の戦い(越中国、現:富山県朝日町)
合戦
1520年
新庄の戦い(越中国、現:富山県富山市)
合戦
1521年
行人台の戦い(下総国、現:千葉県北部、茨城県南西部)
合戦
1521年
飯田河原の戦い(甲斐国、現:山梨県)
合戦
1521年
上条河原の戦い(甲斐国、現:山梨県)
合戦
1522年
12月25日
足利義稙(義材) 室町幕府10代・征夷大将軍 再退任
官職
1522年
12月25日
足利義晴 室町幕府12代・征夷大将軍 任命
官職
1523年
1523年、明(中国)の港町・寧波(にんぽー)で、日本の大名である大内氏と細川氏の使節団が、貿易の権利をめぐって大規模な乱闘事件を起こした前代未聞の国際問題。当時、日本と明は勘合貿易(かんごうぼうえき)で莫大な利益を得ていましたが、有効期限切れの許可証(勘合)を使って賄賂で優先権を得ようとした細川氏に対し、正規の許可証を持っていた大内氏がブチギレて襲撃。この事件により、日本の対外的な信用は地に落ち、明との正式な貿易が一時ストップするという大惨事となりました。
1523年
鏡山城の戦い(安芸国、現:広島県西部)
合戦
1523年
河原田合戦(下野国、現:栃木県栃木市)
合戦
1523年
猿山合戦(下野国、現:栃木県宇都宮市)
合戦
1524年
高輪原の戦い(武蔵国、現:東京都港区)
合戦
1524年
佐東銀山城の戦い(安芸国、現:広島県広島市)
合戦
1524年
大永の五月崩れ(伯耆国、現:鳥取県西部)
合戦
1525年
岩槻城の戦い(武蔵国、現:埼玉県岩槻市)
合戦
1525年
白子原の戦い(武蔵国、現:東京都、埼玉県、神奈川県一部)
合戦
1525年
東西蝦夷の蜂起(蝦夷が島、現:北海道)
合戦
1525年
筑前一揆(筑前国、現:福岡県)
運動
1526年
六浦攻撃(相模国、現:神奈川県鎌倉市)
合戦
1526年
鶴岡八幡宮の戦い(相模国、現:神奈川県鎌倉市)
合戦
1527年
桂川原の戦い(丹波国、現:京都府)
合戦
1527年
川勝寺口の戦い(山城国、現:京都府京都市右京区)
合戦
1529年
関東享禄の内乱(関東地方)
合戦
1530年
田手畷の戦い(肥前国、現:佐賀県、対馬と壱岐を除く長崎県)
合戦
1530年
依藤城の戦い(播磨国、現:兵庫県南西部)
合戦
1531年
中嶋の戦い(摂津国、現:大阪府北西・南西部、兵庫県東部)
合戦
1531年
大物崩れ(摂津国、現:兵庫県尼崎市)
合戦
1531年
享禄の錯乱(加賀国、現:石川県)
合戦
1532年
飯盛城の戦い(河内国、現:大阪府大東市、四條畷市)
合戦
1532年
8月23日
1532年、室町幕府の実権を握る細川晴元(ほそかわはるもと)、近江国の守護・六角定頼(ろっかくさだより)、そして京都の町衆を中心とする日蓮宗の法華一揆(ほっけいっき)が連合軍を組み、浄土真宗の巨大要塞であった山科本願寺(京都市)を焼き討ちにした戦いです。かつて味方として利用した一向一揆(いっこういっき)の暴走を恐れた晴元が、敵対する宗教勢力と手を結んで壊滅させました。本願寺の拠点が大坂へと移り、のちの織田信長との激闘(石山合戦)へと繋がる、戦国時代の畿内の歴史の重要な転換点です。
1533年
稲村の変(安房国、現:千葉県館山市)
合戦
1534年
犬掛の戦い(安房国、現:千葉県)
合戦
1534年
勢場ヶ原の戦い(豊後国、現:大分県臼杵市)
合戦
1534年
天文の内乱(陸奥国、現:福島県、宮城県、岩手県、青森県、秋田県一部)
合戦
1534年
5月12日
織田信長が生まれる
誕生
織田信長は、尾張国(おわりのくに、現:愛知県)の戦国大名・織田信秀(おだのぶひで)の嫡男と母・土田御前(どたごぜん)の間に生まれる。
1535年
山中の戦い(甲斐国、現:山梨県南都留郡山中湖村)
合戦
1535年
森山崩れ(尾張国、現:愛知県名古屋市守山区)
合戦
1536年
花倉の乱(駿河国、現:静岡県静岡市)
合戦
1536年
第一次河東一乱(駿河国、現:静岡県)
合戦
1536年
伏野原の戦い(薩摩国、現:鹿児島県鹿児島市)
合戦
1536年
7月22日
1536年、古くから権力を持つ天台宗(総本山:比叡山延暦寺)と、京都の町民たちに大流行していた日蓮宗(法華宗)が激突した巨大な宗教戦争。新興勢力である日蓮宗の勢いが増し、京都で「法華一揆」と呼ばれる自治を行うようになると、これに危機感を抱いた延暦寺が近江の守護大名・六角氏らと結託して京都を大襲撃しました。この戦いで京都の市街地はあの応仁の乱を上回るほどの壊滅的な大火災となり、日蓮宗の寺院はすべて焼き払われ、信徒たちは京都から追放されました。
1537年
松山城風流合戦(武蔵国、現:埼玉県比企郡吉見町)
合戦
1537年
2月6日
尾張国愛知郡(現:愛知県名古屋市)で木下弥右衛門(諸説)、なか(後:大政所、天瑞院)の間に生まれる。幼名は日吉丸だったとされる。
他
1538年
第一次国府台の戦い(下総国、現:千葉県)
合戦
1539年
第一次枝吉城の戦い(播磨国、現:兵庫県神戸市西区)
合戦
1540年
安城合戦(三河国、現:愛知県安城市)
合戦
1540年
吉田郡山城の戦い(安芸国、現:広島県安芸高田市)
合戦
1541年
佐東銀山城の戦い(安芸国、現:広島県広島市)
合戦
1541年
一庫城の戦い(摂津国、現:兵庫県川西市)
合戦
1541年
海野平の戦い(信濃国、現:長野県上田市)
合戦
1541年
木倉原の戦い(肥後国、現:熊本県上益城郡御船町)
合戦
1542年
瀬沢の戦い(信濃国、現:長野県、岐阜県一部)
合戦
1542年
桑原城の戦い(信濃国、現:長野県、岐阜県一部)
合戦
1542年
福与城の戦い(信濃国、現:長野県上伊那郡箕輪町)
合戦
1542年
第一次月山富田城の戦い(出雲国、現:島根県安来市)
合戦
1542年
天文の乱(陸奥国、出羽国、現:東北地方)
合戦
1542年
太平寺の戦い(河内国、現:大阪府南東部)
合戦
1542年
第一次小豆坂の戦い(三河国、現:愛知県東半部)
合戦
1542年
宮川の戦い(信濃国、現:長野県茅野市)
合戦
1542年
12月26日
三河国・岡崎城(現:愛知県岡崎市)にて、城主の松平広忠の長男として寅の刻(朝4時頃)に生まれる。幼名は竹千代。
他
1543年
1543年、日本の南端にある大隅国・種子島(現在の鹿児島県)に、明(中国)の船が嵐で漂着しました。その船に乗っていたポルトガル人によって、日本に初めて鉄砲(火縄銃)がもたらされた歴史的事件です。島の若き領主・種子島時堯は、その圧倒的な威力に驚き、高価な鉄砲を購入。地元の刀鍛冶である八板金兵衛らに命じて、ネジの仕組みなどの困難を乗り越え、わずか1年足らずで国産化に成功しました。その後、鉄砲は瞬く間に全国へ広まり、戦国時代の戦い方を根本から変えるゲームチェンジャーとなりました。
1543年
神辺合戦(備後国、現:広島県福山市)
合戦
1544年
第一次湊騒動(出羽国、現:秋田県)
運動
1544年
布野崩れ(備後国、現:広島県三次市)
合戦
1544年
加納口の戦い(美濃国、現:岐阜県)
合戦
1544年
高遠合戦(信濃国、現:長野県、岐阜県一部)
合戦
1545年
光明寺に入るがすぐに寺を飛び出す。
行事
『太閤素性記』
1545年
種子島で日本国内初の国産鉄砲を完成する。
文化
1545年
第二次河東一乱(駿河国、現:静岡県)
合戦
1545年
狐橋の戦い(駿河国、現:静岡県)
合戦
1546年
河越城の戦い(武蔵国、現:埼玉県川越市)
合戦
1546年
橋津川の戦い(伯耆国、現:鳥取県)
合戦
1547年
今川家の人質となるために駿府に向っていたが、途中の田原城で義母の父・戸田康光の裏切りにより、尾張国の織田信秀へ送られる。
行事
1547年
小田井原の戦い(信濃国、現:長野県佐久市)
合戦
1547年
吉良・大浜の戦い(尾張国、現:愛知県)
合戦
1547年
舎利寺の戦い(摂津国、現:大阪府生野区)
合戦
1547年
12月20日
足利義晴 室町幕府12代・征夷大将軍 退任
官職
1547年
12月20日
足利義輝 室町幕府13代・征夷大将軍 任命
官職
1548年
第二次小豆坂の戦い(三河国、現:愛知県岡崎市)
合戦
1548年
上田原の戦い(信濃国、現:長野県上田市)
合戦
1548年
塩尻峠の戦い(信濃国、現:長野県塩尻市・岡谷市)
合戦
1549年
駿府の今川義元により、竹千代と織田信広の人質交換により、駿府へ移る。
事件
1549年
江口の戦い(摂津国、現:大阪府大阪市東淀川区)
合戦
1549年
喜連川五月女坂の戦い(下野国、現:栃木県)
合戦
1549年
8月15日
1549年、スペイン人の宣教師であるフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、日本に初めてキリスト教を伝えた歴史的ビッグイベントです。彼が所属するイエズス会は、ヨーロッパで勢力を拡大しつつあるキリスト教(カトリック)を世界中に広めるためにやってきました。「以後よく(1549)広まるキリスト教」という語呂合わせでも超有名。このキリスト教伝来をキッカケにヨーロッパとの南蛮貿易が盛んになり、日本の戦国武将たちの運命や、のちの江戸幕府の「鎖国」へと繋がる巨大な歴史のドミノが倒れ始めました。
1550年
砥石城の戦い(信濃国、現:長野県上田市)
合戦
1550年
中尾城の戦い(山城国、現:京都府京都市左京区)
合戦
1551年
今川氏の直臣飯尾氏の配下で曳馬城(ひくま、現:浜松城)支城の頭陀寺城主(現:静岡県浜松市中央区頭陀寺)である松下之綱(加兵衛)に仕える。
行事
1551年
坂戸城の戦い(越後国、現:新潟県南魚沼市)
合戦
1551年
相国寺の戦い(山城国、現:京都府京都市上京区)
合戦
1551年
大寧寺の変(周防国、長門国、現:山口県)
合戦
1552年
赤塚の戦い(尾張国、現:愛知県名古屋市緑区)
合戦
1552年
萱津の戦い(尾張国、現:愛知県あま市)
合戦
1553年
鑓場の戦い(阿波国、現:徳島県徳島市)
合戦
1553年
東山霊山城の戦い(山城国、現:京都府[京都市東山区
合戦
1553年
第一次川中島の戦い(信濃国、現:長野県、岐阜県一部)
合戦
1554年
尾張国・織田信長に仕官。小者として仕える。
行事
清洲城の普請奉行、台所奉行などを率先して成果を上げ、頭角を現し始める。逸話として、信長の草履取りをした際、冷えた草履を懐に入れて温めておいたことで信長は藤吉郎を大いに褒め称えたという記録がある。
1554年
黒井城・乗っ取り戦(丹波国、現:兵庫県丹波市)
合戦
1554年
安食の戦い(尾張国、現:愛知県)
合戦
1554年
三本松城の戦い(石見国、現:島根県津和野町)
合戦
1554年
折敷畑の戦い(安芸国、現:広島県西部)
合戦
1554年
防芸引分(安芸国、現:広島県廿日市市)
合戦
1554年
第一次門司城の戦い(豊前国、現:福岡県北九州市)
合戦
1554年
村木砦の戦い(尾張国、現:愛知県知多郡)
合戦
1554年
第二次枝吉城の戦い(播磨国、現:兵庫県神戸市西区)
合戦
1554年
北条城の戦い(越後国、現:新潟県柏崎市)
合戦
1555年
三河忩劇(三河国、現:愛知県岡崎市、豊田市)
合戦
1555年
仁保島合戦(安芸国、現:広島市南区)
合戦
1555年
第二次川中島の戦い(信濃国、現:長野県)
合戦
1555年
厳島の戦い(安芸国、現:広島県廿日市市)
合戦
1555年
弘治の内乱(能登国、現:石川県)
合戦
1555年
防長経略(周防国、長門国、現:山口県)
合戦
1556年
雨山合戦(三河国、現:愛知県岡崎市)
合戦
1556年
長良川の戦い(美濃国、現:岐阜県)
合戦
1556年
忍原崩れ(石見国、現:島根県大田市)
合戦
1556年
稲生の戦い(尾張国、現:愛知県名古屋市)
合戦
1556年
駒帰の戦い(越後国、現:新潟県糸魚川市)
合戦
1557年
今川氏一門の関口親永(氏純)の娘・築山殿(瀬名姫)と結婚する。
行事
1557年
日近合戦(三河国、現:愛知県岡崎市)
合戦
1557年
第三次川中島の戦い(信濃国、現:長野県、岐阜県一部)
合戦
1558年
多功ヶ原の戦い(下野国、現:栃木県河内郡上三川町)
合戦
1558年
北白川の戦い(山城国、現:京都府京都市左京区)
合戦
1558年
石ヶ瀬川の戦い(尾張国、現:愛知県大府市、知多郡東浦町)
合戦
1558年
浮野の戦い(尾張国、現:愛知県一宮市)
合戦
1558年
第二次門司城の戦い(豊前国、現:福岡県北九州市)
合戦
1558年
2月5日
寺部城の戦い
合戦
松平元康(後、徳川家康)の初陣。今川義元の命により、織田氏に寝返った加茂郡寺部城主・鈴木重辰を松平重吉らとともに攻める。寺部城(現:愛知県豊田市)にある。
1559年
合勢川の戦い(肥後国、現:熊本県山鹿市)
合戦
1559年
獺野原の戦い(肥後国、現:熊本県多良木町)
合戦
1559年
降露坂の戦い(石見国、現:島根県大田市)
合戦
1559年
第三次門司城の戦い(豊前国、現:福岡県北九州市)
合戦
1559年
3月5日
駿府にて築山殿との間に嫡男・信康が生まれる。
行事
1560年
茂福合戦(伊勢国、現:三重県)
合戦
1560年
小田倉の戦い(陸奥国、現:現福島県西白河郡西郷村)
合戦
1560年
長浜の戦い(土佐国、現:高知県高知市)
合戦
1560年
潮江城の戦い(土佐国、現:高知県高知市)
合戦
1560年
野良田の戦い(近江国、現:滋賀県彦根市)
合戦
1560年
小田原城の戦い(相模国、上野国、武蔵国、現:東京都、埼玉県、神奈川県一部)
合戦
1560年
5月19日
1560年、尾張(愛知県)の小大名だった織田信長が、駿河(静岡県)の巨大な力を持つ大大名・今川義元の約2万5千の大軍を、わずか数千の兵で破った歴史的な大番狂わせの合戦。この桶狭間の戦いでの劇的な勝利によって、名もなき若武者だった信長は一躍全国に名を轟かせ、天下統一への道を歩み始めました。逆に敗れた今川氏は没落し、日本の歴史が大きく動く転換点となった戦国時代屈指の有名な戦いです。
1560年
5月19日
木下藤吉郎が桶狭間の戦いに参戦する。
合戦
1561年
第一次唐沢山城の戦い(下野国、現:栃木県佐野市)
合戦
1561年
第四次門司城の戦い(豊前国、現:福岡県北九州市)
合戦
1561年
善明堤の戦い(三河国、現:愛知県)
合戦
1561年
藤波畷の戦い(三河国、現:愛知県西尾市)
合戦
1561年
将軍地蔵山の戦い(山城国、現:京都市左京区)
合戦
1561年
川上峡合戦(肥前国、現:佐賀県佐賀市)
合戦
1561年
第二次唐沢山城の戦い(下野国、現:栃木県佐野市)
合戦
1561年
8月
浅野長勝の養女で杉原定利の娘・おね(後:高台院、ねね)と結婚する。
他
1561年
9月
1561年、戦国時代最強と謳われた「甲斐の虎」武田信玄と「越後の龍」上杉謙信が、信濃国(長野県)の領土を巡って激突した超有名な大合戦です。二人は合計5回も戦いましたが、この「第四次」が最も激しく、両軍合わせて約8千人もの死傷者を出す大惨事となりました。有名な「啄木鳥(きつつき)の戦法」や、信玄と謙信の伝説の一騎打ちなど、戦国ドラマのハイライトが詰まっています。この二人の最強武将が川中島で長年足止めを食らったことが、のちに織田信長の急成長を許す歴史の大きな伏線となりました。
1562年
第三次唐沢山城の戦い(下野国、現:栃木県佐野市)
合戦
1562年
久米田の戦い(和泉国、現:大阪府岸和田市)
合戦
1562年
第五次門司城の戦い(豊前国、現:福岡県北九州市)
合戦
1562年
1月15日
家康、清洲城を訪問し、織田信長と同盟を結ぶ。
行事
1562年
5月19日
1562年、畿内(現在の近畿地方)の覇者である三好長慶(みよしながよし)と、旧勢力である畠山高政・六角義賢の巨大な同盟軍が激突した戦国時代屈指の大規模な戦いです。弟の戦死という絶体絶命の危機を乗り越え、長慶や松永久秀らの三好軍が旧守護大名の連合軍を打ち破りました。この勝利により、長慶は畿内の絶対的な支配権を確立し、三好政権は絶頂期を迎えます。しかし、有能な一族を失った三好氏はやがて衰退へと向かい、後の織田信長の台頭を許すこととなる歴史の重要な転換点です。
1563年
1563年から翌年にかけて、三河国(現在の愛知県)で起こった浄土真宗(一向宗)の門徒たちによる大規模な反乱です。若き日の徳川家康(当時の名は松平家康)の家臣が、お寺の特権を侵したことをきっかけに蜂起しました。家康の家臣の半数が一揆側に寝返り、家康自身も銃撃を受けるなど、徳川家が滅亡の危機に瀕した激しい内乱です。最終的に家康は和睦を結んだ後に一向宗を弾圧して事態を収束させ、三河の完全支配と家臣団の強い結束力を生み出す決定的な契機となりました。
1563年
第四次唐沢山城の戦い(下野国、現:栃木県佐野市)
合戦
1563年
三村の戦い(常陸国、現:茨城県)
合戦
1563年
辛垣合戦(武蔵国、現:東京都)
合戦
1563年
湯所口の戦い(因幡国、現:鳥取県鳥取市)
合戦
1563年
白鹿城の戦い(出雲国、現:島根県松江市)
合戦
1564年
弓浜合戦(出雲国、現:伯耆国、現:島根県松江市、現:鳥取県境港市・米子市)
合戦
1564年
第二次国府台の戦い(下総国、現:千葉県北部、茨城県南西部)
合戦
1564年
第五次唐沢山城の戦い(下野国、現:栃木県佐野市)
合戦
1564年
山王堂の戦い(常陸国、現:栃木県筑西市)
合戦
1564年
第五次川中島の戦い(信濃国、現:長野県長野市)
合戦
1564年
第二次足利城の戦い(下野国、現:栃木県足利市)
合戦
1564年
第六次唐沢山城の戦い(下野国、現:栃木県佐野市)
合戦
1565年
第二次月山富田城の戦い(出雲国、現:島根県安来市)
合戦
1565年
永禄の変(山城国、現:京都府京都市中京区)
合戦
1565年
山中幸盛・品川将員の一騎討ち(出雲国、現:島根県安来市広瀬町)
合戦
1565年
中濃攻略戦(美濃国、現:岐阜県南部)
合戦
1565年
堂洞合戦(美濃国、現:岐阜県南部)
合戦
1565年
関・加治田合戦(美濃国、現:岐阜県南部)
合戦
1565年
第六次筒井城の戦い(大和国、現:奈良県大和郡山市)
合戦
1565年
5月19日
足利義輝 室町幕府13代・征夷大将軍 退任
官職
1566年
1566年、松平元康(のちの徳川家康)が故郷である三河国(現在の愛知県東部)を完全に平定し、統一を果たした出来事です。桶狭間の戦いで今川家から独立した家康は、織田信長と清洲同盟を結んで背後を固めました。その後、家臣団が真っ二つに割れる最大の危機であった三河一向一揆を苦難の末に鎮圧し、強力な「三河武士」の結束力を築き上げます。ついに東三河の今川勢を追い出して三河一国を統一し、朝廷から「徳川」の姓を許され、戦国大名として飛躍する歴史の決定的な契機となりました。
1566年
家康、徳川に改姓
他
1566年
墨俣一夜城 築城
行事
墨俣城(すのまたじょう)は、岐阜県大垣市墨俣町にある。この一夜城の築城に藤吉郎は功績を上げたとされる。※逸話
1566年
滝山城の戦い(摂津国、現:兵庫県神戸市)
合戦
1566年
臼井城の戦い(下総国、現:千葉県北部、茨城県南西部)
合戦
1566年
第七次筒井城の戦い(大和国、現:奈良県大和郡山市、現:奈良県大和郡山市)
合戦
1566年
河野島の戦い(美濃国、現:岐阜県南部)
合戦
1566年
箕輪城の戦い(上野国、現:群馬県高崎市)
合戦
1566年
12月29日
藤原徳川氏に改姓。従五位下に叙位し、三河守に任官となる。
官職
1567年
第七次唐沢山城の戦い(下野国、現:栃木県佐野市)
合戦
1567年
第八次唐沢山城の戦い(下野国、現:栃木県佐野市)
合戦
1567年
東大寺大仏殿の戦い(大和国、現:奈良県奈良市)
合戦
1567年
明善寺合戦(備前国、現:岡山県岡山市)
合戦
1567年
休松の戦い(筑前国、現:福岡県甘木市))
合戦
1567年
稲葉山城の戦い(美濃国、現:岐阜県岐阜市)
合戦
1567年
三船山合戦(上総国、現:千葉県君津市、富津市)
合戦
1567年
毛利氏・伊予出兵(伊予国、現:愛媛県)
合戦
1568年
駿河と遠江の分割を武田信玄と約束し、遠江に侵入する。
行事
1568年
高島の戦い(伊予国、現:愛媛県大洲市)
合戦
1568年
鳥坂峠の戦い(伊予国、現:愛媛県大洲市)
合戦
1568年
第九飫肥役(日向国、現:宮崎県日南市)
合戦
1568年
本庄繁長の乱(越後国、現:新潟県村上市)
合戦
1568年
信貴山城の戦い(大和国、現:奈良県)
合戦
1568年
勝竜寺城の戦い(山城国、現:京都府)
合戦
1568年
第八次筒井城の戦い(大和国、現:奈良県)
合戦
1568年
武田信玄、駿河侵攻(駿河国、現:静岡県)
合戦
1568年
薩埵峠の戦い(駿河国、現:静岡県)
合戦
1568年
1月11日
家康、左京大夫に叙せられる。
官職
1568年
2月8日
足利義栄 室町幕府14代・征夷大将軍 任命
官職
1568年
9月12日
観音寺城の戦い
合戦
1568年
9月30日
足利義栄 室町幕府14代・征夷大将軍 退任
官職
1568年
10月18日
足利義昭 室町幕府15代・征夷大将軍 任命
官職
1569年
多々良浜の戦い(筑前国、現:福岡県福岡市東区)
合戦
1569年
青山・土器山の戦い(播磨国、現:兵庫県)
合戦
1569年
八流の戦い(土佐国、現:高知県)
合戦
1569年
尼子再興軍の雲州侵攻(出雲国、現:島根県松江市)
合戦
1569年
月山富田城の戦い(出雲国、現:島根県安来市)
合戦
1569年
原手合戦(出雲国、現:島根県出雲市)
合戦
1569年
美保関の合戦(出雲国、現:島根県松江市)
合戦
1569年
大河内城の戦い(伊勢国、現:三重県松阪市)
合戦
1569年
三増峠の戦い(相模国、現:神奈川県愛甲郡愛川町)
合戦
1569年
大内輝弘の乱(周防国、現:山口県)
合戦
1569年
手這坂の戦い(常陸国、現:茨城県)
合戦
1569年
松倉城の戦い(越中国、現:富山県魚津市)
合戦
1569年
1月5日
1569年、織田信長が足利義昭を第15代将軍に擁立した直後、京都の六条本圀寺(ほんこくじ)で起きた大規模な将軍襲撃事件です。信長が岐阜へ帰った隙を狙い、畿内奪還を目論む三好三人衆や斎藤龍興らの大軍が将軍の仮御所を急襲しました。守備隊の明智光秀らの決死の防戦と味方の援軍により見事撃退に成功。急報を聞いた信長が豪雪の中をわずか2日で岐阜から京都へ電撃帰還したことでも有名です。この事件を機に信長は強固な二条城の建設を開始し、畿内の支配体制をさらに強める決定的な契機となった、戦国時代の重要な歴史の分岐点です。
1570年
岡崎から遠江国に移り、浜松城を築いて本城とする岡崎から遠江国の曳馬(ひくま)に移り、「浜松」と改名
行事
1570年
第二次湊騒動(出羽国、現:秋田県)
運動
1570年
第九次唐沢山城の戦い(下野国、現:栃木県佐野市)
合戦
1570年
布部山の戦い(出雲国、現:島根県安来市)
合戦
1570年
元亀の変(陸奥国、現:福島県、宮城県、岩手県、青森県、秋田県一部)
合戦
1570年
今山の戦い(肥前国、現:佐賀県佐賀市)
合戦
1570年
金ヶ崎の戦い(越前国、現:福井県敦賀市)
合戦
1570年
野洲河原の戦い(近江国、現:滋賀県野洲市)
合戦
1570年
野田・福島の戦い(摂津国、現:大阪府大阪市福島区)
合戦
1570年
志賀の陣(近江国、現:滋賀県大津市)
合戦
1570年
宇佐山城の戦い(近江国、現:滋賀県大津市)
合戦
1570年
堅田の戦い(近江国、現:滋賀県大津市)
合戦
1570年
石山合戦(摂津国、現:大阪府)
合戦
1570年
長島一向一揆(伊勢国、現:三重県桑名市)
運動
1570年
平塚原の戦い(常陸国、現:茨城県つくば市)
合戦
1570年
上村合戦(美濃国、現:岐阜県恵那市)
合戦
1570年
4月
金ヶ崎の戦い
合戦
織田信長・徳川家康と朝倉義景、浅井長政の連合軍との戦いだが、金ヶ崎の退き口(かねがさきののきくち)、金ヶ崎崩れとも呼ばれ、織田信長の撤退戦である。北近江の浅井長政は、尾張・織田信長・越前・朝倉義景の両国と同盟関係を結んでいた。しかし、信長による朝倉征伐戦を見過ごせず、織田氏と断交。同盟である妹婿の浅井による裏切りにあった信長は危機に瀕して撤退を開始する。結果、信長を逃がしてしまうが、朝倉・浅井連合軍の勝利となる。木下藤吉郎は信長本隊が信長勢力地まで帰還するのを援護した。
1570年
6月28日
1570年、近江国(現在の滋賀県)の姉川を舞台に激突した、織田信長・徳川家康の連合軍と、浅井長政・朝倉義景の連合軍による大激戦。信長のかわいい妹・お市の方の夫である長政が信長を裏切ったことから始まった骨肉の争いです。一時は浅井軍の猛攻により織田軍が崩れかけるほどの激戦でしたが、家康の側面攻撃などにより織田・徳川連合軍が逆転勝利を収めました。信長の天下統一に向けた大きな関門となった姉川の戦いは、戦国時代の残酷な人間ドラマを象徴する有名な合戦です。
1571年
二連木城の戦い(三河国、現:愛知県豊橋市)
合戦
1571年
辰市城の合戦(大和国、現:奈良県奈良市)
合戦
1571年
白井河原の戦い(摂津国、現:大阪府茨木市)
合戦
1571年
尚元王、奄美大島 侵攻支配強化(琉球、奄美大島)
合戦
1571年
1月5日
家康、従五位上に叙せられる。
官職
1571年
1月11日
家康、侍従に叙せられる。
官職
1571年
9月12日
1571年、天下統一を目指す織田信長が、仏教の聖地であった延暦寺(えんりゃくじ)を武力で壊滅させた衝撃的な事件です。当時、強大な軍事力と権威を持っていた延暦寺は、信長に敵対する浅井・朝倉軍をかくまい、度重なる警告を無視し続けました。激怒した信長は、山全体の建造物を焼き払い、僧侶や女子供まで数千人を皆殺しにするという前代未聞の弾圧を行いました。中世の宗教的権威を根本から破壊し、政教分離の端緒を開いた歴史の重要な分岐点です。
1572年
木崎原の戦い(日向国、現:宮崎県えびの市)
合戦
1572年
尻垂坂の戦い(越中国、現:富山県富山市)
合戦
1572年
西上作戦(遠江国、三河国、美濃国、現:岐阜県南部)
合戦
1572年
岩村城の戦い(美濃国、現:岐阜県恵那市)
合戦
1572年
仏坂の戦い(遠江国、現:静岡県)
合戦
頃
秀吉「羽柴秀吉」に改名
他
1572年
10月
1572年10月、上洛を目指す武田信玄の軍勢と、迎え撃つ徳川家康の軍勢が衝突した局地的な戦いです。圧倒的な兵力を誇る武田軍の偵察に出た家康の部隊が、一言坂(静岡県磐田市)で敵の本隊とばったり遭遇してしまい、絶体絶命の撤退戦を強いられました。この大ピンチの中、家康の家臣である本多忠勝(ほんだただかつ)が自ら殿(しんがり)を引き受け、命がけで敵を食い止めて家康を逃がしました。この戦いは、のちの三方ヶ原の戦いへと繋がる歴史の重要な分岐点となった前哨戦です。
1572年
10月16日
二俣城の戦い
合戦
1573年 〜 1603年
1573年に織田信長が室町幕府を滅ぼしてから、1603年に徳川家康が江戸幕府を開くまでの約30年間。信長が長篠の戦いで鉄砲を活用し天下統一に突き進むも、本能寺の変で倒れます。その意志を継いだ豊臣秀吉が全国統一を果たし、太閤検地や刀狩などの画期的な政策で国を整備しました。華やかでダイナミックな桃山文化が栄え、ヨーロッパとの南蛮貿易も盛んに行われました。わずか30年という短い期間ながら、日本の歴史が最も熱く激しく動いた時代です。
1573年
野田城の戦い(三河国、現:愛知県新城市)
合戦
1573年
石山城・今堅田城の戦い(近江国、現:滋賀県大津市)
合戦
1573年
二条御所の戦い(山城国、現:京都府京都市上京区)
合戦
1573年
上京焼き討ち(山城国、現:京都府)
合戦
1573年
上桜城の戦い(阿波国、現:徳島県吉野川市)
合戦
1573年
槇島城の戦い(山城国、現:京都府京都市・宇治市)
合戦
1573年
第二次淀古城の戦い(山城国、現:京都府京都市)
合戦
1573年
鳥取のたのも崩れ(因幡国、現:鳥取県鳥取市)
合戦
1573年
尼子再興軍による鳥取城の戦い(因幡国、現:鳥取県鳥取市)
合戦
1573年
六坊賢松寺の戦い(越前国、現:福井県大野市)
合戦
1573年
若江城の戦い(河内国、現:大阪府東大阪市)
合戦
1573年
8月8日
1573年、天下統一を目指す織田信長が、義弟である浅井長政(あざいながまさ)の居城・小谷城(滋賀県)を攻め落とした戦いです。かつて強固な同盟を結んでいた両者でしたが、長政が朝倉氏に味方して信長を裏切ったことから激しい対立が続いていました。信長は朝倉氏を滅ぼした勢いで小谷城を包囲し、羽柴秀吉らの活躍により城を陥落させます。お市の方と浅井三姉妹は救出されましたが、長政は自刃し浅井氏は滅亡。信長包囲網を打ち破り、天下統一を大きく前進させる決定的な契機となりました。
1573年
8月13日
1573年、天下統一を目指す織田信長と、越前国(福井県)の名門・朝倉義景による決戦です。浅井氏を救援するために出陣した朝倉軍(約2万)でしたが、織田軍(約3万)の猛攻を受けて撤退します。信長は退却する朝倉軍を激しく追撃し、刀根坂の戦いで壊滅的な打撃を与えました。その後、信長軍は朝倉氏の本拠地である一乗谷へと雪崩れ込み、100年続いた華やかな都を焼き尽くします。逃亡した朝倉義景はいとこの裏切りに遭い自刃して朝倉氏は滅亡しました。信長の天下布武への道を決定づける歴史の端緒を開いた事件です。
1573年
9月
織田信長の命により、秀吉に浅井氏旧領・江北三郡12万石を与えられる。
行事
1573年
12月22日
1573年(元亀3年)、京都へ向かって猛進する戦国最強の武将・武田信玄(たけだしんげん)の軍勢と、それを迎え撃った徳川家康(とくがわいえやす)の軍勢が、遠江国(現在の静岡県浜松市)の三方ヶ原で激突した戦いです。結果は、信玄の巧みな戦術と圧倒的な武力の前に家康軍がコテンパンに打ち負かされる大敗北となりました。命からがら逃げ帰った家康にとって、生涯で最大の負け戦(トラウマ)であり、同時に「自分への戒め」として大きく成長するキッカケとなった非常に有名なエピソードです。
1574年
近江国・長浜城主に任命され、長浜城へ入城。
官職
長浜城は、羽柴秀吉が築城した城(現:滋賀県長浜市公園町)。秀吉は、今浜(いまはま)と呼ばれていた地名を「長浜(ながはま)」に改名した。
1574年
越前一向一揆(越前国、現:福井県)
運動
1574年
天正最上の乱(出羽国、現:山形県)
合戦
1574年
明知城の戦い(美濃国、現:岐阜県恵那市)
合戦
1574年
飯羽間城の戦い(美濃国、現:岐阜県恵那市)
合戦
1574年
天神山城の戦い(備前国、美作国)
合戦
1574年
第一次高屋城の戦い(河内国、現:大阪府羽曳野市)
合戦
1574年
第一次高天神城の戦い(遠江国、現:静岡県掛川市)
合戦
1574年
金ヶ崎合戦(下野国、現:栃木県栃木市)
合戦
1574年
備中兵乱(備中国、現:岡山県)
合戦
1574年
1月5日
家康、正五位下に叙せられる。
官職
1575年
第二次高屋城の戦い(河内国、現:大阪府羽曳野市)
合戦
1575年
岩村城の戦い(美濃国、現:岐阜県恵那市)
合戦
1575年
四万十川の戦い(土佐国、現:高知県四万十市)
合戦
1575年
野田合戦(但馬国、現:兵庫県豊岡市)
合戦
1575年
第一次黒井城の戦い(丹波国、現:兵庫県丹波市)
合戦
1575年
6月29日
1575年、三河国(愛知県)の長篠城をめぐり、織田信長・徳川家康の連合軍と、最強と恐れられた武田勝頼の軍勢が激突した歴史的な大合戦です。武田の「無敵の騎馬隊」に対し、信長は大量の鉄砲と馬を防ぐための馬防柵(ばぼうさく)を用意しました。鉄砲隊を3列に並べて順番に撃ち続ける「三段撃ち」という画期的な新戦術により、織田・徳川連合軍が圧勝!刀や槍を使った力技の戦いから、最新の武器を使った近代的な戦術へと、日本の戦いの歴史が劇的に変わる大転換点となりました。
1575年
7月3日
秀吉、信長の命により筑前守となる。
行事
1576年
天王寺の戦い(摂津国、現:大阪府大阪市)
合戦
1576年
第一次木津川口の戦い(摂津国、現:大阪府木津川)
合戦
1576年
第一次七尾城の戦い(能登国、現:石川県七尾市)
合戦
1577年
織田信長・紀州征伐(紀伊国、現:和歌山県)
合戦
1577年
英賀合戦(播磨国、現:兵庫県姫路市飾磨区)
合戦
1577年
第二次七尾城の戦い(能登国、現:石川県七尾市)
合戦
1577年
中国攻め(中国地方)
合戦
1577年
竹田城の戦い(但馬国、現:兵庫県朝来市)
合戦
1577年
9月23日
手取川の戦い
合戦
加賀国の手取川(主に石川県白山市)において、上杉謙信軍と織田信長軍の合戦である。結果、上杉謙信軍が織田信長軍を撃破して上杉軍の圧勝となった。
1577年
10月5日
信貴山城の戦い
合戦
織田信長に対して謀反を起こした松永久秀の居城である信貴山城(現:奈良県生駒郡平群町信貴畑)で行われた攻城戦(第三次信長包囲網)。結果、織田軍が勝利した。別名「松永久秀討伐戦」とも言われている。
1578年
有岡城の戦い(摂津国、現:兵庫県伊丹市)
合戦
1578年
小川台合戦(常陸国、現:茨城県筑西市)
合戦
1578年
御館の乱(越後国、現:新潟県)
合戦
1578年
居多浜の戦い(越後国、現:新潟県上越市)
合戦
1578年
第一次太田城の戦い(紀伊国、現:和歌山県和歌山市)
合戦
1578年
石城合戦(日向国、現:宮崎県児湯郡木城町)
合戦
1578年
第五次八上城の戦い(丹波国、現:兵庫県丹波篠山市)
合戦
1578年
耳川の戦い(日向国、現:宮崎県木城町)
合戦
1578年
第二次木津川口の戦い(摂津国、現:大阪府大阪市)
合戦
1578年
月岡野の戦い(越中国、現:富山県富山市)
合戦
1578年
4月18日
上月城の戦い
合戦
播磨国・上月城(現:兵庫県佐用郡佐用町)で毛利輝元と尼子勝久との間で行われた合戦。結果、毛利軍の勝利、尼子氏は滅亡した。
1578年
5月5日
三木合戦
合戦
織田軍と播磨三木城(現:兵庫県三木市)に篭城した別所氏の合戦で1年10ヶ月続いた(播州征伐の1つ)。この合戦で秀吉が行った兵糧攻めは、三木の干殺し(みきのひごろ)と呼ばれる。結果、織田信長の勝利して、播磨を平定した。
1578年
12月10日
家康、従四位下に叙せられる。
官職
1578年
12月29日
家康、右近衛権少将に叙せられる。
官職
1579年
家康の正室・築山殿を殺害。嫡男・信康を切腹とする。
事件
武田家への内通疑惑がかけられた築山殿を殺害、信康を切腹させた。
織田信長の命により、実行したといわれている。※諸説あり
1579年
御着城の戦い(播磨国、現:兵庫県姫路市)
合戦
1579年
御館の戦い(越後国、現:新潟県上越市)
合戦
1579年
六羽福知山城川合戦(陸奥国、現:青森県平川市)
合戦
1579年
第二次黒井城の戦い(丹波国、現:兵庫県丹波市)
合戦
1579年
横山城の戦い(丹波国、現:京都府福知山市)
合戦
1579年
八木城の戦い(丹波国、現:京都府南丹市)
合戦
1579年
4月7日
徳川秀忠が生まれる
誕生
徳川家康(とくがわいえやす)と西郷局(さいごうのつぼね)の間に三男として遠江国浜松城に生まれる。
1580年
且過瀬の戦い(肥後国、現:熊本県熊本市)
合戦
1580年
千本松原の戦い(駿河国、現:静岡県)
合戦
1580年
御代田合戦(陸奥国、現:福島県郡山市)
合戦
1580年
花隈城の戦い(摂津国、現:兵庫県神戸市中央区)
合戦
1580年
長和田・長瀬川の戦い(伯耆国、現:鳥取県北栄町)
合戦
1580年
1月5日
家康、従四位上に叙せられる。
官職
1581年
武田方の高天神城を攻略し、遠江の全域を平定する。
行事
1581年
鳥取城の戦い(因幡国、現:鳥取県鳥取市)
合戦
1581年
第二次高天神城の戦い(遠江国、現:静岡県掛川市)
合戦
1581年
柳川の戦い(肥後国、現:熊本県)
合戦
1581年
天正伊賀の乱(伊賀国、現:三重県)
合戦
1581年
比自山城の戦い(伊賀国、現:三重県)
合戦
1581年
新発田重家の乱(越後国、現:新潟県新発田市、新潟市)
合戦
1581年
彦山焼き討ち(豊前国、現:福岡県田川郡添田町、大分県中津市)
合戦
1581年
響野原の戦い(肥後国、現:熊本県宇城市)
合戦
1582年
高野山攻め(紀伊国、現:和歌山県伊都郡高野町)
合戦
1582年
甲州征伐(甲斐国、現:山梨県)
合戦
1582年
高遠城の戦い(信濃国、現:長野県高遠町)
合戦
1582年
天目山の戦い(甲斐国、現:山梨県甲州市)
合戦
1582年
魚津城の戦い(越中国、現:富山県魚津市)
合戦
1582年
八浜合戦(備前国、現:岡山県玉野市)
合戦
1582年
神流川の戦い(武蔵国、現:埼玉県)
合戦
1582年
黒駒合戦(甲斐国、現:山梨県笛吹市)
合戦
1582年
加治田・兼山合戦(美濃国)
合戦
1582年
第一次十河城の戦い(讃岐国)
合戦
1582年
中富川の戦い(阿波国、現:徳島県藍住町)
合戦
1582年
八日町の戦い(飛騨国、現:岐阜県高山市)
合戦
1582年
4月
1582年、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が毛利氏の配下である清水宗治が守る備中高松城(岡山県)を水攻めにした戦いです(備中高松城の戦い)。低湿地という地形を利用し、堤防を築いて川の水を流し込むという前代未聞の奇策で城を孤立させました。しかし攻城戦の最中、主君・織田信長が討たれる「本能寺の変」が発生。秀吉は信長の死を隠したまま宗治の切腹を条件に講和を結び、すぐさま畿内へと引き返す「中国大返し」を成功させました。天下人・秀吉の誕生へと直結する歴史の重要な分岐点です。
1582年
6月
1582年の本能寺の変で織田信長が急死した直後、かつて武田氏が支配していた旧武田領(現在の山梨県・長野県・群馬県)という広大な「空き地」をめぐって起きた領土争奪戦です。徳川家康、北条氏直(ほうじょううじなお)、上杉景勝(うえすぎかげかつ)という東日本の三大勢力が入り乱れて激突しました。最終的に外交と調略を駆使した家康が勝利して5カ国を治める大大名へと急成長し、のちに豊臣秀吉の最大のライバルとなるための力を手に入れた重要な戦いです。
1582年
6月2日
1582年、天下統一を目前にしていた織田信長が、最も信頼していた家臣・明智光秀の裏切りに遭い、京都の本能寺で自害した日本史最大の大事件です。天下人の突然の死は、戦国時代の特大ドミノの1枚目となりました。この事件を知った豊臣秀吉が猛スピードで引き返して光秀を討ち取り(中国大返し・山崎の戦い)、一気に天下人へと駆け上がります。また、観光中だった徳川家康が命からがら逃げ帰る(神君伊賀越え)など、この日を境にすべての武将の運命と日本の歴史が完全にひっくり返る、最重要のターニングポイントです。
1582年
6月2日
本能寺の変により、織田信長 自刃
死去
1582年
6月2日
1582年6月、本能寺の変で織田信長が討たれた直後、和泉国・堺(大阪府)に滞在していた徳川家康が、明智光秀の追手や落ち武者狩りから逃れ、本国である三河国(愛知県)へと決死の逃避行を行った事件です。わずか数十人の供回りしかいない絶体絶命の状況下で、服部半蔵や本多忠勝らの家臣団、さらに伊賀の地侍たちの協力を得て、険しい山々(伊賀や甲賀)を越えて無事に帰還を果たしました。家康の生涯最大の危機と言われ、この苦難を乗り越えたことで家臣団の結束がさらに強固となり、のちの天下取りへの大きな足がかりとなった歴史的事件です。
1582年
6月4日
1582年6月、備中国(現在の岡山県)で毛利軍と戦っていた豊臣秀吉(羽柴秀吉)が、主君・織田信長が討たれた本能寺の変の知らせを受け、全軍を率いて京都方面へ猛スピードで引き返した前代未聞の撤退行軍です。秀吉は毛利氏と電撃的な和睦を結び、約2万の軍勢を率いて約200kmの道のりをわずか10日足らずで踏破しました。この驚異的な行動力によって明智光秀を討ち破る山崎の戦いへと繋がり、秀吉が天下人へと駆け上がる歴史の決定的な契機となりました。
1582年
6月13日
1582年、本能寺の変で織田信長を裏切った明智光秀と、信長の仇を討つために猛スピードで引き返してきた豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)が激突した、運命の弔い合戦です。これを山崎の戦い(やまざきのたたかい)と呼びます。勝負の鍵を握る「天王山」という山を先に占拠した秀吉軍が、圧倒的な兵力で光秀軍を撃破。敗れた光秀は逃亡中に命を落としました(三日天下)。この戦いで「信長様の仇を討った大英雄」となった秀吉は、一気に織田家のトップに立ち、天下人へと駆け上がるための超重要な歴史のドミノを倒したのです。
1582年
6月27日
1582年の本能寺の変で織田信長が急死した直後、尾張国の清洲城(現在の愛知県)で開かれた、織田家の跡継ぎと領地配分を決める超重要な運命の会議が清洲会議(きよすかいぎ)です。筆頭家老の柴田勝家(しばたかついえ)と、信長の仇を討って勢いに乗る羽柴秀吉(はしばひでよし)が激しく対立しました。秀吉が信長のまだ幼い孫である三法師(さんぼうし)を強引に跡継ぎに押し切ったことで、秀吉が織田家を乗っ取り、天下人へと駆け上がる最大の特大ドミノとなりました。
1583年
1583年、天下人への道を突き進む羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が、かつての石山本願寺(いしやまほんがんじ)の跡地に日本最大級の巨大要塞である大坂城(おおさかじょう)の建設をスタートさせた出来事です。信長が10年がかりで戦った最強の宗教都市の跡地を整備し、金箔瓦が輝く豪華絢爛な天守閣を建てました。これは「俺が信長様の後継者だ!」という全国の武将に対する強烈なアピールであり、ここから大坂(現在の大阪)が日本の政治と経済の超重要拠点へと発展していく特大ドミノとなりました。
1583年
放生橋の戦い(越後国、現:新潟県新発田市)
合戦
1583年
立花山の戦い(美濃国、現:岐阜県)
合戦
1583年
北ノ庄城の戦い(越前国、現:福井県福井市)
合戦
1583年
引田の戦い(讃岐国、現:香川県東かがわ市)
合戦
1583年
4月20日
1583年、本能寺の変のあとの織田家の跡目争いから発展した、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)と織田家筆頭家老・柴田勝家による覇権争いです。近江国(現在の滋賀県長浜市)の賤ヶ岳付近で激突し、味方の裏切りや秀吉の驚異的な大移動劇によって、秀吉軍が勝利しました。敗れた勝家は妻のお市の方と共に自害。これにより秀吉が織田信長の実質的な後継者(天下人)となることが決定づけられた、歴史のドミノを動かす重要な出来事です。
1583年
10月5日
家康、正四位下に叙せられる。
官職
1583年
10月7日
家康、左近衛権中将に叙せられる。
官職
1583年
11月
羽柴秀吉が大坂城に本拠を移転する。
行事
1584年
八幡表の戦い(越後国、現:新潟県新発田市)
合戦
1584年
羽黒・八幡林の戦い(尾張国、現:愛知県犬山市)
合戦
1584年
岩崎城の戦い(尾張国、現:愛知県日進市)
合戦
1584年
長久手の戦い(尾張国、現:愛知県長久手市)
合戦
1584年
竹ヶ鼻城の水攻め(尾張国、現:岐阜県羽島市)
合戦
1584年
蟹江城合戦(尾張国、現:愛知県蟹江町)
合戦
1584年
末森城の戦い(能登国、現:石川県宝達志水町)
合戦
1584年
沼尻合戦(下野国、現:栃木県栃木市)
合戦
1584年
沖田畷の戦い(肥前国、現:長崎県)
合戦
1584年
第二次十河城の戦い(讃岐国)
合戦
1584年
阿蘇合戦(肥後国、現:熊本県)
合戦
1584年
2月27日
家康、従三位参議に叙せられる。
官職
1584年
3月
1584年、本能寺の変の後に急速に力をつけた豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)と、それを快く思わない織田信長の次男・織田信雄、そして徳川家康の連合軍が激突した大戦です。これが小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)です。戦場では家康が秀吉軍の奇襲部隊を打ち破り見事な勝利を収めましたが、政治力・外交力で勝る秀吉が信雄を単独で降伏させたため、戦う理由を失った家康は撤退せざるを得なくなりました。結果的にこの戦いを経て家康は秀吉に臣従することになり、秀吉の天下統一が大きく前進する重要な転換点となりました。
1584年
10月3日
秀吉、従五位下・左近衛権少将に叙せられる。
官職
1584年
11月21日
秀吉、従三位・権大納言に叙せられる。
官職
1585年
秀吉「藤原」改姓
行事
秀吉が「平」の姓から「藤原」へ改姓する。これは一時期な改正であり、関白になるために近衛前久の養子となり、藤原氏へ改姓した。
1585年
和泉の戦い(和泉、現:大阪府岸和田市)
合戦
1585年
千石堀城の戦い(和泉国、現:大阪府貝塚市)
合戦
1585年
太田城水攻め(和泉国、現:和歌山県和歌山市)
合戦
1585年
第二次太田城の戦い(和泉国、現:和歌山県和歌山市)
合戦
1585年
丸山城の戦い(伊予国、現:愛媛県西条市)
合戦
1585年
天正の陣(伊予国)
合戦
1585年
薄葉ヶ原の戦い(下野国、現:栃木県矢板市)
合戦
1585年
関柴合戦(陸奥国、現:福島県)
合戦
1585年
河原山城の戦い(伯耆国、現:鳥取県)
合戦
1585年
第一次上田合戦(信濃国、現:長野県上田市)
合戦
1585年
富山の役(越中国、現:富山県富山市)
合戦
1585年
粟ノ巣の変(陸奥国、現:福島県二本松市)
合戦
1585年
人取橋の戦い(陸奥国、現:福島県本宮市)
合戦
1585年
3月
1585年、天下統一を目指す羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が、10万の大軍を率いて紀伊国(和歌山県)に攻め込み、独立勢力であった雑賀一揆(さいかいっき)や根来寺(ねごろじ)の僧兵たちを武力で完全に制圧した事件です(紀州征伐)。彼らは鉄砲を操る最強の傭兵集団として織田信長をも苦しめましたが、秀吉の周到な水攻めと兵糧攻めの前に屈服しました。この勝利により、近畿地方における秀吉の支配が揺るぎないものとなり、全国統一事業への決定的な契機となりました。
1585年
3月10日
秀吉、正二位・内大臣に叙せられる。
官職
1585年
6月
秀吉、四国平定(四国攻め)
行事
1585年
7月11日
1585年、豊臣秀吉が天皇を補佐する朝廷の最高職である関白(かんぱく)に任命された出来事です。これまで関白は、藤原氏などの一部のトップ貴族(公家)しかなれない特別な役職でした。しかし、農民出身の秀吉は巧みな交渉でこれを手に入れ、翌年には天皇から「豊臣」という新しい名字を与えられます。これにより、秀吉は単なる「強い武士」から「天皇の代理人」へと超絶クラスチェンジを果たしました。天皇の圧倒的な権威をバックにして全国の大名に命令を下せるようになり、天下統一に向けた最大の切り札を手に入れた歴史の重要ドミノです。
1585年
8月
富山の役
行事
羽柴秀吉が率いる70,000の大軍が佐々成政が立て籠もる越中国・富山城(現:富山県富山市)を包囲して、降伏させた戦い。
1585年
10月
1585年10月、関白となった豊臣秀吉が、九州地方の戦国大名たちに対して発布した「大名同士の私的な領土争い(私戦)を禁じる」という画期的な法令です。当時、九州統一を目前にしていた島津義久は、大友宗麟からの救援要請を受けた秀吉のこの命令を無視して侵攻を続けました。秀吉はこれを国家の法律に対する反逆とみなし、圧倒的な武力で島津氏を討伐する九州平定へと乗り出します。武士の行動原理を「力」から「法」へと変える、歴史の決定的な分岐点となった法令です。
1586年
家康と秀吉の妹・朝日姫 結婚
他
秀吉の異父妹・朝日姫を家康の正室に迎える。後に朝日姫は駿河御前と呼ばれた。※秀吉の異父妹、同父妹については諸説あり
1586年
有屋峠の戦い(出羽国、現:秋田県湯沢市、山形県金山町)
合戦
1586年
豊薩合戦(九州地方)
合戦
1586年
勝尾城の戦い(肥前国、現:佐賀県鳥栖市)
合戦
1586年
鷹取城の戦い(肥前国、現:佐賀県鳥栖市)
合戦
1586年
岩屋城の戦い(筑前国、現:福岡県太宰府市)
合戦
1586年
立花山城の戦い(筑前国、現:福岡県新宮町)
合戦
1586年
高鳥居城の戦い(筑前国、現:福岡県須恵町)
合戦
1586年
香春岳城の戦い(豊前国、現:福岡県香春町)
合戦
1586年
駄原城の戦い(豊後国、現:大分県竹田市)
合戦
1586年
山野城の戦い(豊後国、現:大分県竹田市)
合戦
1586年
栂牟礼城の戦い(豊後国、現:大分県佐伯市)
合戦
1586年
7月
1586年から1587年にかけて、天下統一を目指す豊臣秀吉が、九州の覇者である島津氏を降伏させた戦いです。関白となった秀吉は、九州で領土を拡大する島津氏に停戦(惣無事令)を命じましたが、島津氏がこれを無視したため大軍を派遣しました。圧倒的な兵力と物量で島津氏を追い詰め、当主の島津義久を降伏させて九州平定を成し遂げます。この戦いの直後、秀吉はバテレン追放令を発布し、キリスト教の制限と長崎の直轄化を行いました。日本の天下統一に向けた歴史の決定的な契機となる戦いです。
1586年
9月9日
1586年、農民出身から天下人に上り詰めた豊臣秀吉(羽柴秀吉)が、正親町天皇(おおぎまちてんのう)から新しい姓(氏)である「豊臣」を授けられた歴史的な出来事です。源氏や平氏、藤原氏といった由緒ある古い家柄と肩を並べる「新しい名門」を自ら作り出しました。朝廷の最高職である関白や太政大臣への就任と合わせ、天皇の権威を背景にして全国の大名を従える豊臣政権の支配システムが完成した、歴史の決定的な分岐点です。
1586年
10月4日
家康、権中納言に叙せられる。
官職
1586年
10月26日
大坂に到着、豊臣秀長邸に宿泊する。
行事
1586年
10月27日
大坂城において秀吉に謁見し、諸大名の前で豊臣氏に臣従することを表明する。
行事
1586年
11月5日
家康、正三位に叙せられる。
官職
1586年
12月4日
17年間過ごした浜松城から隣国・駿河国の駿府城へ移る。
行事
1586年
12月19日
内大臣を辞職する。
行事
1586年
12月25日
朝廷の最高位「太政大臣」(だじょうだいじん)に就任
行事
1587年
新発田城の戦い(越後国、現:新潟県新発田市)
合戦
1587年
堅田合戦(豊前国、現:大分県佐伯市)
合戦
1587年
鶴賀城の戦い(豊後国、現:大分県大分市)
合戦
1587年
戸次川の戦い(豊後国、大分県大分市)
合戦
1587年
府内城の戦い(豊後国、現:大分県大分市)
合戦
1587年
臼杵城の戦い(豊後国、現:大分県大分市)
合戦
1587年
鶴崎城の戦い(豊後国、現:大分県大分市)
合戦
1587年
日出生城の戦い(豊後国、現:大分県大分市)
合戦
1587年
阿気野の戦い(出羽国、現:秋田県横手市)
合戦
1587年
唐松野の戦い(出羽国、現:秋田県大仙市)
合戦
1587年
九州平定(九州地方)
合戦
1587年
梓越の戦い(豊後国、現:大分県、宮崎県)
合戦
1587年
岩石城の戦い(豊前国、現:福岡県田川郡添田町)
合戦
1587年
豊前の戦い(豊前国、現:福岡県朝倉市)
合戦
1587年
平佐城の戦い(薩摩国、現:鹿児島県薩摩川内市)
合戦
1587年
肥後国人一揆(肥後国、現:熊本県)
運動
1587年
豊前国人一揆(豊前国、現:福岡県、大分県)
運動
1587年
尾浦城の戦い(出羽国、現:山形県鶴岡市)
合戦
1587年
4月
1587年、関白となった豊臣秀吉が、九州をほぼ統一しつつあった強敵・島津氏(しまづし)を大軍で降伏させ、九州地方を完全に支配下に置いた出来事です。秀吉が全国の大名に出した「勝手に戦争をしてはいけない」という命令(惣無事令)を島津氏が無視したことがキッカケでした。この九州平定により、西日本は完全に秀吉のものとなり、天下統一は残すところ関東の北条氏と東北地方のみとなりました。また、この遠征中に秀吉がキリスト教の布教を禁じるバテレン追放令を出したことも、テストに出る超重要ポイントです。
1587年
5月9日
書状「かうらい国へ御人」
行事
1587年
6月1日
書状「我朝之覚候間高麗国王可参内候旨被仰遣候」
行事
1587年
6月19日
1587年、九州平定を終えた豊臣秀吉(とよとみひでよし)が、突如としてキリスト教の宣教師(バテレン)に対して国外退去を命じた法令です。当初はキリスト教に寛容だった秀吉ですが、信者による神社仏閣の破壊や、日本人を奴隷として海外へ売る行為、さらには長崎が教会の領地になっている事実を知り、国家を脅かす存在として激しい危機感を抱きました。布教を禁じつつも南蛮貿易は奨励するという二面性を持ち、後の江戸幕府による完全な禁教令や鎖国政策へと繋がる、歴史の決定的な契機となった重要事件です。
1587年
8月8日
従二位権大納言。羽柴氏を下賜される(豊臣姓もか?)
官職
1587年
9月
聚楽第へ転居
行事
聚楽第(じゅらくてい、じゅらくだい)は関白になった豊臣秀吉の政庁兼邸宅として平安京大内裏跡(現:京都市上京区)に建設された。1586年2月に着工され、翌1587年9月に完成した。
1587年
11月1日
1587年(天正15年)、九州平定を果たした豊臣秀吉が、京都の北野天満宮で開催した前代未聞の大規模な茶会です。武士や公家だけでなく、農民や町人も身分を問わず参加を許され、釜がなければ鍋でも良いという自由な触れ書きが出されました。千利休ら名だたる茶人が集結し、秀吉の権力と富の象徴である黄金の茶室も披露され、総勢1000人以上が熱狂しました。10日間の予定がわずか1日で突然中止となる謎を残しましたが、茶の湯が広く庶民に浸透し、豊臣政権の文化的権威を確立する歴史の決定的な契機となりました。
1587年
12月
1587年、九州を平定した豊臣秀吉が、まだ服従していない関東地方と奥羽(東北)地方の大名たちに向けて発布した「大名同士の勝手な戦いを禁じる」という絶対的な命令です。これを惣無事令(そうぶじれい)と呼びます。領土問題は最高権力者である秀吉の裁判によって決めることを強制し、これに違反した者は国賊として討伐の対象とされました。この法令は、のちに北条氏を滅ぼす「小田原征伐」の法的な口実となり、秀吉の天下統一を仕上げる歴史の決定的な契機となりました。
1588年
1588年頃、織田信長の姪であり「浅井三姉妹」の長女である茶々(のちの淀殿)が、天下人・豊臣秀吉の側室(正室以外の妻)となった出来事です。茶々は、実の父(浅井長政)と養父(柴田勝家)の二人を秀吉の軍勢に滅ぼされるという過酷な運命をたどりました。しかし、親の仇である秀吉の妻となり、のちに跡継ぎである豊臣秀頼を出産したことで、豊臣政権の実権を握ることになります。彼女の数奇な人生と決断は、やがて豊臣家の滅亡(大坂の陣)へと直結する歴史の決定的な分岐点となりました。
1588年
聚楽第に後陽成天皇 行幸
行事
1588年
大崎合戦(陸奥国、現:宮城県加美町)
合戦
1588年
郡山合戦(陸奥国、現:福島県郡山市)
合戦
1588年
十五里ヶ原の戦い(出羽国、現:山形県鶴岡市)
合戦
1588年
1月13日
左近衛大将・左馬寮御監両官職兼帯を辞する。
官職
1588年
1月13日
足利義昭 室町幕府15代・征夷大将軍 退任
官職
1588年
7月8日
1588年、天下統一を目前にした豊臣秀吉が、農民たちから刀や鉄砲などの武器を没収した法令です。これがテストに絶対出る刀狩令(かたながりれい)です。「武器を集めて京都に造る大仏の釘にするから、仏様の御利益があるぞ」という建前で、農民から反乱(一揆)の力を奪い取りました。太閤検地とセットで行われたこの政策により、戦う「武士」と農業をする「農民」の身分がハッキリと分かれる兵農分離(へいのうぶんり)が完成。江戸時代に続く平和な社会の土台を作る超特大ドミノとなりました。
1588年
7月8日
海賊停止令 発布
行事
1588年
8月12日
琉球王国(現:沖縄県)が豊臣秀吉の命で島津氏を介して、臣従を要求される。
行事
1588年
12月28日
左近衛大将・左馬寮御監両官職兼任となる。
官職
1589年
第三次湊騒動(出羽国、現:秋田県大仙市)
運動
1589年
河原田城の戦い(佐渡国、現:新潟県佐渡市)
合戦
1589年
摺上原の戦い(陸奥国、現:福島県磐梯町・猪苗代町)
合戦
1589年
天正天草合戦(肥後国、現:熊本県)
合戦
1589年
仏木坂の戦い(肥後国、現:熊本県苓北町)
合戦
1589年
5月27日
秀吉の側室・淀殿(茶々)との間に鶴松が産まれ、後継者に指名する。
他
1590年
山中城の戦い(伊豆国、現:静岡県三島市)
合戦
1590年
松井田城の戦い(上野国、現:群馬県安中市)
合戦
1590年
忍城の戦い(武蔵国、現:埼玉県行田市)
合戦
1590年
八王子城の戦い(武蔵国、現:東京都八王子市)
合戦
1590年
奥州仕置(陸奥国)
合戦
1590年
仙北一揆(出羽国、現:秋田県)
運動
1590年
葛西大崎一揆(陸奥国、現:岩手県)
運動
1590年
和賀・稗貫一揆(陸奥国、現:岩手県)
運動
1590年
庄内藤島一揆(出羽国、現:山形県)
運動
1590年
2月
1590年、豊臣秀吉が関東の覇者・北条氏を滅ぼした戦国時代最後の大規模な戦いです。これを小田原征伐(おだわらせいばつ)と呼びます。大名同士の勝手な戦いを禁じた「惣無事令」を破った北条氏に対し、秀吉は全国の大名を動員して約21万人の超巨大な軍勢で難攻不落の小田原城(神奈川県)を完全に包囲しました。約5ヶ月の籠城戦の末に北条氏は降伏して滅亡。東北の伊達政宗らも服従したことで、100年以上続いた戦国時代が終わり、秀吉による天下統一が完全に達成された歴史の特大ドミノです。
1590年
2月
1590年、豊臣秀吉が関東の北条氏を滅ぼす「小田原征伐」を行い、東北地方の伊達政宗らを服従させたことで、ついに日本全国を支配下に置いた超重要イベントです。これにより、約100年以上続いた血みどろの戦国時代が終わりを告げました。天下統一を果たした秀吉は、農民から武器を取り上げる刀狩や、全国の土地を測量する太閤検地を行い、のちの江戸時代の基礎となる強力なシステムを作り上げます。日本の歴史が大きく次のステージへと進む歴史の最大級の転換点です。
1590年
7月
奥州仕置
行事
豊臣秀吉により東北大名に対する処分(改易、減俸)や諸政策を実施した。
1590年
8月1日
関東へ移封して、江戸城を居城とする。
行事
1590年
11月
朝鮮へ征明を告げ入朝を要求する。
行事
1591年
1591年、天下統一を果たした豊臣秀吉が発布した、武士・百姓・町人といった身分の移動や職業の変更を厳しく禁じた法令です。戦国時代は農民から武士へと身分を変えること(下剋上)が可能でしたが、この法令により「武士は武士、農民は農民」として職業と身分が固定されました。武士を城下町に集め、農民を土地に縛り付けることで、兵士と農民を明確に分ける兵農分離(へいのうぶんり)を完成させました。身分制度が固定化される江戸時代の盤石な社会構造の基礎を築き、歴史の決定的な分岐点となった法令です。
1591年
九戸政実の乱(陸奥国、現:青森県・岩手県)
合戦
1591年
九戸城の戦い(陸奥国、現:岩手県二戸市)
合戦
1591年
2月28日
1591年、豊臣秀吉の側近として絶大な権力を握り、「天下一の茶匠」と称された千利休(せんのりきゅう)が、秀吉の怒りを買って切腹を命じられた衝撃的な事件です。京都の大徳寺(だいとくじ)に自分の木像を置いたことや、茶器の高額売買の疑惑などが理由とされますが、真相は謎に包まれています。周囲が必死に謝罪を勧める中、利休は自らの美学と誇りを曲げることを頑なに拒み、故郷の堺で堂々と自刃しました。彼が完成させた侘び茶の精神は、のちの日本文化を決定づける歴史の重要な契機となりました。
1591年
3月3日
天正遣欧少年使節が京都・聚楽第において、秀吉に西洋音楽「千々の悲しみ・Mille regretz」(作曲:ジョスカン・デ・プレ)を演奏した。
行事
1591年
7月25日
ポルトガル領インド副王に宛ててイスパニア王の来日を要求する。
行事
1591年
9月15日
スペイン領フィリピン諸島(小琉球)に服属を要求する。
行事
1591年
10月14日
豊臣秀吉の命により、島津氏を介して琉球へ唐入り(朝鮮侵略)の軍役要求した。
行事
琉球の内部は島津氏の命令を拒んでは攻撃を受ける危機感から、結果的に軍役の半分を負担した。
1591年
12月
豊臣秀吉 関白を辞職する。
行事
関白の職を秀次に譲り、太閤(たいこう)になる。
1591年
12月
太政大臣如元(もとのごとし)。
行事
1592年
1592年(文禄元年)、天下を統一した豊臣秀吉の意向を受け、関白の豊臣秀次が全国の大名に向けて発布した身分統制の法令です。武士、農民、職人、商人といった職業を固定し、身分をまたいだ転職や移動を厳しく禁じました。また、全国規模で家ごとの人数や職業を細かく調査する「人別改(にんべつあらため)」を実施し、朝鮮出兵に向けた兵力や労働力を確実に把握しました。刀狩令や太閤検地とともに兵農分離(へいのうぶんり)を完成させ、江戸時代の強固な身分制度の端緒を開いた歴史の重要な転換点です。
1592年
梅北一揆(日向国、現:宮崎県)
運動
1592年
釜山鎮の戦い(朝鮮)
合戦
1592年
多大鎮の戦い(朝鮮)
合戦
1592年
東萊城の戦い(朝鮮)
合戦
1592年
尚州の戦い(朝鮮)
合戦
1592年
忠州の戦い(朝鮮)
合戦
1592年
玉浦海戦(朝鮮)
合戦
1592年
臨津江の戦い(朝鮮)
合戦
1592年
大同江の戦い(朝鮮)
合戦
1592年
第一次平壌城の戦い(朝鮮)
合戦
1592年
閑山島海戦(朝鮮)
合戦
1592年
海汀倉の戦い(朝鮮)
合戦
1592年
釜山浦海戦(朝鮮)
合戦
1592年
第一次普州城攻防戦(朝鮮)
合戦
1592年
第二次平壌城の戦い(朝鮮)
合戦
1592年
4月13日
1592年(文禄元年)、天下統一を果たした豊臣秀吉が、明(中国)の征服を目標に大軍を朝鮮半島に派遣した歴史的事件です。これが1回目の朝鮮出兵である文禄の役(ぶんろくのえき)です。当初は日本軍が連戦連勝で首都の漢城(ソウル)を占領しましたが、李舜臣(りしゅんしん)率いる朝鮮水軍の活躍や、明からの援軍によって戦線は膠着状態に陥りました。翌年に休戦交渉が始まり一時的に戦闘は終結しますが、東アジアの国際関係に大きな爪痕を残し、豊臣政権衰退の端緒を開いた歴史の重要な分岐点です。
1592年
9月16日
豊臣秀吉の執奏により清華家の家格勅許。
行事
1593年
幸州山城の戦い(朝鮮)
合戦
1593年
碧蹄館の戦い(朝鮮)
合戦
1593年
第二次普州城攻防戦(朝鮮)
合戦
1593年
8月
豊臣秀吉の本拠を伏見城に移す。
行事
1593年
8月29日
1593年、天下を統一した豊臣秀吉と、その側室である淀殿(茶々)の間に、待望の男の子である豊臣秀頼(とよとみひでより)が誕生しました。秀吉にとっては57歳という高齢で授かった奇跡的な我が子であり、その喜びは異常なほどでした。しかし、この誕生はすでに後継者に指名されていた甥の豊臣秀次との間に深い亀裂を生み、やがて豊臣政権を内部から崩壊させる歴史の決定的な契機となります。秀頼の誕生は、のちの「関ヶ原の戦い」から「大坂の陣」へと繋がる巨大な悲劇の幕開けでした。
1595年
7月
秀吉が豊臣秀次の関白、左大臣職を剥奪する。
行事
1595年
7月
1595年、豊臣秀吉(とよとみひでよし)が、後継者として関白(かんぱく)の位を譲っていた甥の豊臣秀次(とよとみひでつぐ)を和歌山の高野山へ追放し、切腹させた大事件です。秀吉に待望の実子(秀頼)が生まれたことで、甥の存在が邪魔になったことが最大の原因とされています。さらに秀吉は、秀次の妻子や一族ら30名以上を京都の三条河原で公開処刑にしました。このあまりにも残酷な粛清劇は、多くの大名たちの心を豊臣家から離れさせ、のちの豊臣家滅亡へと繋がる「致命的なドミノの1枚目」となりました。
1595年
7月
聚楽第 取り壊し
行事
秀吉は秀次の邸宅となっていた聚楽第を謀反人の邸宅として取り壊した。聚楽第が存在したのは、わずか8年弱だった。
1596年
5月8日
家康、正二位内大臣に叙せられる。
官職
1596年
10月
1596年、スペインの巨大な船「サン=フェリペ号」が土佐国(現在の高知県)に漂着したことをキッカケに起きた国際トラブルです。船の乗組員が「スペインは宣教師を使ってキリスト教を広め、その後に軍隊を送って国を乗っ取るのだ」と豪語したという報告を受け、豊臣秀吉が激怒。それまで黙認されていたキリスト教への取り締まりが一気に厳しくなり、翌年の二十六聖人殉教(宣教師や信徒の処刑)という悲劇を引き起こす特大ドミノとなりました。
1597年
第一次蔚山城の戦い(朝鮮)
合戦
1597年
漆川梁海戦(朝鮮)
合戦
1597年
南原城の戦い(朝鮮)
合戦
1597年
黄石山城の戦い(朝鮮)
合戦
1597年
稷山の戦い(朝鮮)
合戦
1597年
鳴梁海戦(朝鮮)
合戦
1597年
1月14日
1597年(慶長2年)、豊臣秀吉が明(中国)との和平交渉決裂を理由に、再び14万の大軍を朝鮮半島へ派遣した歴史的事件です。これが2回目の朝鮮出兵である慶長の役(けいちょうのえき)です。前回と異なり防衛体制を整えていた明・朝鮮連合軍の激しい抵抗に遭い、日本軍は南部の城(倭城)に立てこもる泥沼の防衛戦を強いられました。翌1598年の秀吉の死によって全軍撤退となりますが、参戦した大名たちに甚大な被害と疲弊をもたらし、豊臣政権が崩壊へと向かう歴史の決定的な転換点となりました。
1598年
順天城の戦い(朝鮮)
合戦
1598年
第二次蔚山城の戦い(朝鮮)
合戦
1598年
泗川の戦い(朝鮮)
合戦
1598年
露梁海戦(朝鮮)
合戦
1598年
8月18日
1598年、農民から天下人にまで登り詰めた豊臣秀吉が、伏見城(京都府)で病死した事件です。晩年の秀吉は、朝鮮出兵(文禄・慶長の役)による大名たちの疲弊や、幼い跡継ぎである豊臣秀頼への不安など、多くの問題を抱えたままこの世を去りました。絶対的な権力者であった秀吉の死は、豊臣政権内部の権力闘争を激化させ、やがて徳川家康が台頭して「関ヶ原の戦い」へと直結する歴史の決定的な転換点となりました。
1599年
庄内の乱(日向国、現:宮崎県)
合戦
1600年
会津征伐(東北地方)
合戦
1600年
伏見城の戦い(山城国、現:京都府京都市)
合戦
1600年
田辺城の戦い(丹後国、現:京都府舞鶴市)
合戦
1600年
白石城の戦い(陸奥国、現:宮城県白石市)
合戦
1600年
大聖寺城の戦い(加賀国、現:石川県加賀市)
合戦
1600年
浅井畷の戦い(加賀国、現:石川県小松市)
合戦
1600年
木曽川・合渡川の戦い(美濃国、現:岐阜県岐阜市・瑞穂市)
合戦
1600年
河田木曽川渡河の戦い(美濃国、現:岐阜県各務原市)
合戦
1600年
米野の戦い(美濃国、現:岐阜県岐阜市)
合戦
1600年
竹ヶ鼻城の戦い(美濃国、現:岐阜県羽島市)
合戦
1600年
岐阜城の戦い(美濃国、現:岐阜城岐阜市)
合戦
1600年
上野城の戦い(伊賀国、現:三重県伊賀市)
合戦
1600年
安濃津城の戦い(伊勢国、現:三重県津市)
合戦
1600年
大聖寺城の戦い(加賀国、現:石川県加賀市)
合戦
1600年
八幡城の合戦(美濃国、現:岐阜県郡上市)
合戦
1600年
第二次上田合戦(信濃国、現:長野県上田市)
合戦
1600年
大津城の戦い(近江国、現:滋賀県大津市)
合戦
1600年
慶長出羽合戦(出羽国、現:山形県)
合戦
1600年
長谷堂城の戦い(出羽国、現:山形県山形市)
合戦
1600年
上杉遺民一揆(越後国、現:新潟県)
運動
1600年
石垣原の戦い(豊後国、現:大分県別府市)
合戦
1600年
佐賀関の戦い(豊後国、現:大分県大分市)
合戦
1600年
杭瀬川の戦い(美濃国、現:岐阜県大垣市)
合戦
1600年
大垣城の戦い(美濃国、現:岐阜県大垣市)
合戦
1600年
岩崎一揆(陸奥国、現:岩手県)
運動
1600年
花巻城の夜討ち(陸奥国、現:岩手県花巻市)
合戦
1600年
岩崎城の戦い(陸奥国、現:岩手県北上市)
合戦
1600年
佐和山城の戦い(近江国、現:滋賀県彦根市)
合戦
1600年
鳥羽城の戦い(志摩国、現:三重県鳥羽市)
合戦
1600年
三津浜夜襲(伊予国、現:愛媛県松山市)
合戦
1600年
7月11日
石田三成は打倒・家康を掲げて、越前国・敦賀城主 大谷吉継の援助を得て、毛利輝元を総大将として挙兵する。
行事
1600年
9月15日
1600年9月15日、美濃国(岐阜県)の関ヶ原を舞台に、豊臣家を守ろうとする石田三成率いる西軍と、天下取りを狙う徳川家康率いる東軍が激突した日本史上最大の大戦争です。「天下分け目の戦い」と呼ばれ、約15万人の大軍が真っ二つに分かれて激突しました。家康の巧みな事前工作により、西軍の小早川秀秋らが戦いの最中に寝返ったことで、拮抗していた戦況は一変。なんとわずか6時間というスピードで東軍が圧勝しました。この勝利によって家康の覇権は決定的なものとなり、3年後の江戸幕府誕生へと繋がっていく超重要な転換点です。
1600年
10月1日
家康は、関ヵ原の西軍側で敗戦した石田三成、小西行長(こにしゆきなが)、安国寺恵瓊(あんこくじえけい)たちは、京都六条河原で斬首され、三条橋で梟首となる。
行事
1600年
10月10日
防長減封
政治
関ヵ原の戦い(せきがはらのたたかい)の敗戦処理として、西軍総大将・毛利輝元は山陽・山陰の8ヵ国(120万石)から周防・長門の2か国(約30万石)へ移封、大幅な減封に処した。
1601年
松川の戦い(陸奥国、現:福島県福島市)
合戦
1601年
家康 東海道に宿駅伝馬制度(てんませいど)を設ける。
行事
1601年
8月24日
会津藩・上杉景勝は直江兼続とともに上洛して家康に謝罪するが、家康は許したが関ヵ原の西軍側・敗戦処理として、上杉景勝を会津(約120万石)から米沢(約30万石)へ移封、大幅な減封に処した。
行事
1602年
稲津の乱(日向国、現:宮崎県)
合戦
1602年
1月6日
家康、従一位に叙せられる。
官職
1603年
2月12日
家康、右大臣、征夷大将軍宣下・源氏長者宣下
官職
1603年 〜 1689年
3月24日
1603年に徳川家康が征夷大将軍となり、江戸に江戸幕府を開いてから、鎖国体制が完成し平和な世の中の基盤が作られた江戸時代の最初の約100年間です。将軍は大名たちを厳しく統制するため、武家諸法度や参勤交代の制度を作りました。また、キリスト教徒の反乱である島原・天草の一揆を鎮圧し、外国との貿易を長崎の出島のみに制限する鎖国体制を完成させました。これにより、日本は約260年続く、世界でも類を見ない長期的な平和(太平の世)の基盤をガッチリと固めることになります。
1603年
10月16日
家康、右大臣を辞任。
官職
1604年
1604年、江戸幕府の初代将軍・徳川家康が、海外貿易を幕府の厳格な管理下に置くために朱印船制度(しゅいんせんせいど)を制定した出来事です。将軍の赤いハンコが押された許可証(朱印状)を持った船だけが、東南アジアなどへ渡航して貿易を行うことを許されました。これにより和寇(海賊)と正規の商船が区別され、安全な交易が実現します。約30年間で350隻以上が海を渡り、莫大な富を日本にもたらすとともに、東南アジア各地に日本町が形成されるなど、国際交流が花開く歴史の重要な分岐点となりました。
1604年
7月17日
徳川家光が生まれる
誕生
江戸幕府2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)と浅井三姉妹の三女である御台所の母・崇源院(すうげんいん、別名:お江)の間に次男として江戸城西の丸で生まれる。
1605年
徳川秀忠に将軍職を譲り、将軍は徳川家が継ぐことを世に示す。家康は大御所となる。
官職
1605年
4月13日
豊臣秀頼、右大臣に任ず。前任は徳川家康であった。
行事
1605年
4月16日
家康、征夷大将軍辞職・源氏長者は如元(もとのごとし)。
官職
1605年
5月10日
家康、秀頼に上京して、謁見するよう促すが、秀頼は拒否する。
行事
1607年
家康、駿府城(すんぷじょう)を築き、この城へ隠居する。
行事
1607年
1607年、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)によって断絶していた日本と朝鮮の国交が回復し、江戸幕府に対して初めて朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし)が来日した歴史的な出来事です。国交回復を強く望む徳川家康の命を受け、対馬藩の宗氏(そううじ)が国書の偽造という危険な外交交渉の末に実現させました。当初の目的は捕虜の返還でしたが、やがて将軍の代替わりを祝う平和の使節へと役割を変えます。以降約200年間で11回派遣され、両国の平和と文化交流を支えた歴史の決定的な転換点です。
1607年
1月11日
豊臣秀頼、右大臣を辞す。
官職
1609年
3月7日
1609年、江戸幕府の許可を得た薩摩藩(鹿児島県)の島津氏が、軍隊を率いて南の独立国であった琉球王国(沖縄県)を武力で制圧した事件です(薩摩藩の琉球侵攻)。明(中国)との貿易を再開したい徳川家康の命令を琉球が無視し続けたことや、薩摩藩の財政難が背景にありました。降伏した尚寧王は江戸へ連行され、琉球は表面上は中国の家来でありながら、裏では薩摩藩に支配されるという奇妙な「日明両属(にちみんりょうぞく)」の体制へと組み込まれます。江戸幕府の外交体制を確立する歴史の重要な分岐点となりました。
1609年
5月
オランダ船 貿易許可
政治
江戸幕府は布教ではなく貿易を目的とすると約束したオランダ船に貿易を許した。
1609年
8月
オランダ、平戸(ひらど)に商館を建設する。
政治
1613年
9月15日
1613年、仙台藩主の伊達政宗(だてまさむね)が、スペイン国王やローマ教皇との直接貿易を目指してヨーロッパへ派遣した壮大な外交使節団が慶長遣欧使節(けいちょうけんおうしせつ)です。家臣の支倉常長(はせくらつねなが)を副使として、太平洋と大西洋を横断するという当時としては奇跡的な大航海を成し遂げました。しかし、ヨーロッパに到着した頃には、日本では幕府がキリスト教を厳しく禁止(禁教令)していたため、交渉は悲しくも失敗に終わってしまった、ロマンと悲劇の歴史的イベントです。
1614年
木津川口の戦い(摂津国、現:木津川)
合戦
1614年
鴫野の戦い(摂津国、現:大阪府大阪市)
合戦
1614年
今福の戦い(摂津国、現:大阪府大阪市)
合戦
1614年
博労淵の戦い(摂津国、現:大阪府大阪市)
合戦
1614年
野田・福島の戦い(摂津国、現:大阪府大阪市)
合戦
1614年
真田丸の戦い(摂津国、現:大阪府大阪市)
合戦
1614年
3月8日
家康、朝廷からの太政大臣(准三后)の内旨を辞退。
官職
1614年
11月
1614年、徳川家康が豊臣家を完全に滅ぼすために仕掛けた巨大な戦い(前半戦)です。これが大坂冬の陣(おおさかふゆのじん)です。関ヶ原の戦い後も大坂城に残っていた豊臣秀頼に対し、家康は「方広寺鐘銘事件」という難癖をつけて開戦。難攻不落の大坂城に手こずった家康は、大砲を使った心理戦と「お堀を埋める」というズル賢い平和交渉(和議)で豊臣家の防御力をゼロにしました。翌年の「大坂夏の陣」へと続く、江戸幕府の絶対支配を決定づける最終戦争の始まりです。
1615年
郡山城の戦い(大和国、現:奈良県大和郡山市)
合戦
1615年
紀州一揆(紀伊国、現:和歌山県)
運動
1615年
樫井の戦い(和泉国、現:大阪府泉佐野市)
合戦
1615年
道明寺の戦い(河内国、現:大阪府藤井寺市)
合戦
1615年
八尾・若江の戦い(河内国、現:大阪府八尾市・東大阪市)
合戦
1615年
天王寺・岡山の戦い(河内国、現:大阪府大阪市)
合戦
1615年
5月6日
1615年、前年の「大坂冬の陣」で堀を埋められ丸裸にされた大坂城に、徳川家康が再び大軍で攻め込んだ戦国時代最後の巨大な戦いです。これを大坂夏の陣(おおさかなつのじん)と呼びます。堀がないため城の外で戦うしかなかった豊臣軍ですが、真田信繁(幸村)が家康の本陣に決死の突撃を仕掛け、自害寸前まで追い詰める大活躍を見せます。しかし圧倒的な兵力の差は覆らず、豊臣秀頼と淀殿は自害し、かつて天下を治めた豊臣家は完全に滅亡。これにより100年以上続いた戦乱の時代が完全に終わり、江戸幕府の絶対的な平和の時代が確定しました。
1615年
7月7日
1615年、大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼした直後、徳川家康の命令により第2代将軍・徳川秀忠が全国の大名に向けて発布した厳しいルールブックです。これが武家諸法度(ぶけしょはっと)です。大名たちが勝手に城を修理することや、幕府に無断で結婚することなどを固く禁じ、少しでも違反した大名は領地を没収(改易)して容赦なくお家を取り潰しました。のちに第3代将軍・徳川家光が参勤交代の制度を付け加えるなど、江戸幕府が約260年も続く絶対的な支配体制を築き上げるための最強の土台となった超重要法令です。
1615年
7月17日
1615年、大坂の陣で豊臣氏を滅ぼした徳川家康が、朝廷(天皇や公家)を厳しく統制するために発布した法律です。「天皇の第一の仕事は学問である」と定め、天皇から政治の実権を完全に奪い取りました。また、僧侶に高い位(紫衣)を与える権限なども幕府の許可が必要とされ、のちの紫衣事件の原因ともなります。大名を取り締まる武家諸法度と並んで、江戸幕府が日本を完全に支配するための決定的な契機となった重要な法令です。
1615年
8月7日
1615年、豊臣氏を滅ぼした「大坂夏の陣」の直後、江戸幕府の第2代将軍・徳川秀忠(大御所・徳川家康)が全国の大名に対して発布した法令です(一国一城令)。「大名の住むお城(居城)を一つの国につき一つだけ残し、その他の城や砦はすべて壊しなさい」と命令しました。これにより、全国にあった数千の城が一気に約170まで激減しました。大名の軍事力を大きく削ぎ落とし、幕府に反抗できないようにする武家諸法度と並ぶ強力な支配システムであり、260年続く平和な江戸時代の基礎を固めた決定的な分岐点です。
1616年
3月17日
家康、太政大臣に叙せられる。
官職
1616年
4月17日
徳川家康、駿府城にて死去。鯛の天ぷらで食中毒(※諸説あり)。
他
1616年
5月17日
徳川家康、増上寺(東京都港区)で葬儀が執り行われ、久能山(静岡市駿河区)に葬られた。後に家康の遺言により、日光東照宮(栃木県日光市)に分霊される。
行事
1617年
日光東照宮 建立
文化
日光東照宮は、下野国・日光(現:栃木県日光市)にある神社。徳川家康の遺言により、遺骸は駿河国の久能山に葬られ、久能山東照宮の完成を見たが、2代将軍秀忠が天海僧正に命じて、日光東照宮に改葬されることなる。
1617年
2月
「東照大権現」の神号が贈られ、神になる。
官職
1617年
3月9日
家康、正一位に叙せられる。
官職
1619年
広島城主・福島正則 改易
官職
広島城の本丸、二の丸、三の丸、石垣が台風による水害で破損した。これを福島正則は無断で修繕していた。これを江戸幕府は武家諸法度に反すると重く受け止め、改易処分を下した。
1622年
8月5日
1622年(元和8年)、長崎の西坂の丘でカトリックの宣教師や日本のキリスト教徒ら55名が、江戸幕府によって火あぶりや斬首で処刑された凄惨な事件です。これを元和の大殉教(げんなのだいじゅんきょう)と呼びます。第2代将軍・徳川秀忠は、密入国した宣教師と彼らをかくまった信徒を一斉に処刑することで、キリスト教に対する幕府の強硬な姿勢を内外に示しました。この事件は、キリスト教の徹底的な弾圧と、のちの「鎖国」体制へと向かう歴史の決定的な契機となりました。
1623年
南蛮貿易 イギリス撤退
行事
イギリスは、平戸の商館を閉鎖し、日本との貿易から撤退した。結果、オランダが中国が長崎の出島などで貿易を続ける。
1624年
11月
後水尾天皇(ごみずのおてんのう)の女御・徳川和子、中宮となる
行事
徳川秀忠とお江の五女として生まれた徳川和子、一宮興子(いちのみやおきこ、後の明正天皇)を産み、中宮となった。徳川の血を引く天皇を誕生させるという使命を果たしたこととなる。
1628年
1628年頃から、江戸幕府がキリスト教の信者(キリシタン)を捕まえるために始めた恐ろしい心理テストです。「神様を踏むなんて絶対にできない!」という信者の心理を利用し、キリストや聖母マリアの姿が描かれた板を足で踏ませて、踏めなかった者を逮捕しました。注意点として、踏む行為を絵踏(えぶみ)、踏まれるモノを踏み絵(ふみえ)と呼びます。この徹底した宗教弾圧が、やがて日本最大級の農民反乱である「島原・天草一揆」を引き起こし、日本の「鎖国」を決定づける重要なドミノとなりました。
1629年
1629年、江戸幕府が定めた法律を無視して紫衣(しえ:高僧が着る紫色の法衣)を与えた天皇に対し、第3代将軍・徳川家光がその許可を無効とした事件です。この幕府の強硬な決定に大徳寺の沢庵宗彭(たくあんそうほう)らが猛烈に抗議しましたが、幕府は彼らを流罪(島流し)に処しました。メンツを潰された後水尾天皇は怒って突然退位してしまいます。日本の歴史上、武家政権の法律(禁中並公家諸法度)が天皇の伝統的な権威よりも上であることを明確に示し、幕府の絶対的な支配体制を確立した歴史の重要な分岐点です。
1629年
女歌舞伎 禁止
行事
1631年
1631年、江戸幕府の第3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)が、日本人の海外渡航を厳しく制限し始めた出来事です。これが鎖国(さこく)への第一歩となりました。これまで海外と貿易をするには「朱印状」という許可証だけでOKでしたが、さらに「老中奉書」という特別な許可証も必要とする奉書船制度(ほうしょせんせいど)をスタートさせました。キリスト教の広まりを防ぎ、幕府が貿易の利益を独占するための、国を閉ざす特大ドミノの1枚目です。
1631年
1631年、江戸幕府が海外との貿易を行う船に対し、将軍の許可証である「朱印状」だけでなく、幕府の最高幹部(老中)が発行する「老中奉書(ろうじゅうほうしょ)」という2枚の許可証を義務付けた制度です(奉書船制度)。キリスト教の禁止と貿易の利益独占を狙う幕府が、海外渡航できる商人を一部の特権的な豪商のみに厳しく絞り込むために導入しました。自由な海外交流から、国を閉ざす「鎖国」体制へと向かう、歴史の決定的な転換点となった重要な政策です。
1632年
1月24日
江戸幕府2代将軍・徳川秀忠 死去
死去
1633年
黒田騒動
運動
福岡藩で発生したお家騒動。別名、栗山大膳事件(くりやまだいぜんじけん)。
1634年
5月
1634年、江戸幕府の第3代将軍・徳川家光が出した2回目の「鎖国令(さこくれい)」です。前年に出したルールを改めて厳しく確認したもので、日本人の海外渡航や帰国を固く禁じました。さらにこの年、キリスト教を広めようとするポルトガル人を一ヶ所に閉じ込めるため、長崎の海に人工の島である出島(でじま)の建設をスタートさせました。日本が完全に世界の扉を閉ざす「鎖国」の完成へ向けた、歴史の重要なドミノの1枚です。
1635年
武家諸法度 改定「寛永令」
行事
1635年
1635年、第3代将軍・徳川家光が武家諸法度(ぶけしょはっと)を改訂し、全国の大名に義務付けた江戸幕府の根幹となる制度です。大名が自分の領地(藩)と江戸を1年ごとに往復する参勤交代(さんきんこうたい)は、大名に莫大な旅費や江戸での生活費を負担させ、幕府に反抗する経済力を奪う決定的な契機となりました。同時に、正室(妻)や跡継ぎを江戸に人質として住まわせることで忠誠を誓わせました。一方で、全国の道路網が整備され、江戸の文化が地方に伝わるなど、日本の歴史の大きな転換点となった超重要キーワードです。
1635年
諸士法度
政治
江戸幕府が旗本・御家人を対象として出した法令。別名、旗本法度(はたもとほっと)ともいう。
1635年
1635年、江戸幕府の第3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)によって、全国のお寺や神社を取り締まる最高責任者である寺社奉行(じしゃぶぎょう)が正式に設置されました。幕府の政治を動かす重要な3つの役職「三奉行(さんぶぎょう)」の中で最も地位が高く、将軍から信頼されるエリートの大名(譜代大名)だけが就任できる特別なポストでした。宗教勢力を幕府のルールの下にガッチリと管理し、260年続く平和な江戸時代の土台を作った重要な行政システムです。
1635年
武家諸法度 改定「天和令」
行事
5代将軍・徳川綱吉による法令。大名に武芸だけでなく、学問の素養を身につけ、礼儀正しくふるまうことを求めた。 跡継ぎの決まっていない大名が、死ぬ間際になって養子を迎える「末期養子(まつごようし)」も認めた。また、主君や夫などの死を追って臣下や家族などが自死する殉死の禁止している。
1635年
5月
1635年(寛永12年)、江戸幕府の第3代将軍・徳川家光が発布した、日本人の海外渡航と帰国を全面的に禁止する極めて厳格な法令です。これにより、朱印船貿易などで東南アジアに渡っていた日本町の人々は二度と故郷の土を踏めなくなりました。また、外国船の入港を長崎だけに限定し、キリスト教の流入を厳しく監視する体制を強化しました。幕府が貿易と情報を独占する「鎖国」体制の完成を決定づける、日本の歴史の重要な転換点となった法令です。
1636年
5月
1636年(寛永13年)、江戸幕府の第3代将軍・徳川家光が発布した、外国人に対する厳しい管理政策です。貿易に直接関係のないポルトガル人や、日本人の妻、その間に生まれた混血の子どもたち計287人を、容赦なくマカオ(中国)へと永久追放しました。さらに、日本に残ることを許された一部のポルトガル人貿易商たちも、長崎に新しく建設された人工の島・出島(でじま)に強制的に収容・隔離しました。キリスト教の排除と貿易の独占を物理的に徹底し、鎖国の完成へと向かう歴史の決定的な契機となった法令です。
1636年
6月1日
銭座 設置(江戸橋場、近江坂本)
行事
江戸幕府が江戸橋場(えどはしば、現:東京都台東)と近江坂本(おうみさかもと 現:滋賀県大津市)に銭座を設置。
1636年
6月1日
公鋳銭「寛永通宝」鋳造開始
経済
公鋳銭として寛永通宝の製造を開始。銭座である江戸橋場(はしば、現:東京都台東)と近江坂本(現:滋賀県大津市)にて製造した。
1637年
10月25日
1637年、九州の島原(長崎県)と天草(熊本県)で起きた、江戸時代最大規模の農民とキリスト教徒(キリシタン)による大反乱です。原因は、領主による「異常に重い税金(年貢)」と「キリシタンへの残酷な拷問」でした。怒りを爆発させた約3万7千人の民衆は、16歳のカリスマ少年・天草四郎(あまくさしろう)をリーダーとして原城(はらじょう)に立てこもり、幕府の大軍と数ヶ月にわたって激闘を繰り広げました。この事件をキッカケに、幕府はキリスト教を完全に禁止する絵踏(えぶみ)を強化し、外国との関係を断ち切る「鎖国(さこく)」を完成させることになります。テストに超頻出する特大ドミノの事件です。
1638年
お蔭参り 流行
行事
1650年以降、約60年に一度、全国から大勢の人が伊勢神宮(現:三重県伊勢市)を一斉に参拝した「お伊勢参り」が大流行するという現象が発生する。
1638年
11月7日
1638年、第3代将軍・徳川家光が幕府の最高職である大老(たいろう)を実質的に設置した出来事です。日常の政務を行う老中(ろうじゅう)の上に立つ役職で、常に置かれるわけではなく、国家の非常事態や重要な決定を下す際などに臨時に任命されました。最初の実質的な大老には、将軍の信頼が厚い土井利勝や酒井忠勝が就任しました。のちの幕末に活躍する井伊直弼などが有名です。江戸幕府の政治システムが完成し、安定した統治体制を築く歴史の決定的な契機となった重要な制度改革です。
1639年
7月5日
1639年(寛永16年)、江戸幕府の第3代将軍・徳川家光が発布した、ポルトガル船の来航を全面的に禁止する極めて厳格な法令です。直前に起きた島原・天草一揆に衝撃を受けた幕府は、キリスト教の流入を完全に断ち切るために、莫大な利益を生んでいたポルトガルとの貿易を打ち切る決断を下しました。この法令によって外国との交流はオランダと中国などに限定され、日本人の海外渡航禁止とあわせて、約200年続く鎖国体制が完成する歴史の決定的な転換点となりました。
1640年
1640年から約3年間にわたり日本全国を襲った江戸時代で最初の異常気象による大災害、寛永の大飢饉(かんえいのだいききん)です。長雨や冷害、虫の大発生などが重なり、農作物が全く育たず多数の餓死者が出ました。さらに牛馬の疫病も流行し、全国の農村は壊滅的な打撃を受けました。これに危機感を抱いた江戸幕府は、農民を保護して確実に税(年貢)を取り立てるため、田畑永代売買の禁令(たはたえいたいばいばいのきんれい)を出すなど、幕府の農業政策を大きく転換させる決定的な契機となりました。
1641年
オランダ風説書
行事
江戸幕府が海外の情報を集めるためオランダ商館長に提出させた海外事情に関する情報書類。
1641年
5月
1641年(寛永18年)、江戸幕府が平戸にあったオランダ商館を長崎の出島に移したことで完成した、日本独自の対外政策の体制です。これによりヨーロッパの国との交流はキリスト教を布教しないオランダのみとなり、中国(清)も含めて長崎でのみ貿易が許されました。また、朝鮮とは対馬藩、琉球とは薩摩藩、アイヌとは松前藩が窓口となる「四つの口」の体制が確立します。幕府が外交と貿易の利益を完全に独占し、約200年続く平和で安定した江戸時代の基盤を作り上げた歴史の重要な転換点です。
1641年
8月3日
徳川家綱が生まれる
誕生
江戸幕府3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)と側室の母・宝樹院(ほうじゅいん)の間に長男として江戸城本丸で生まれる。
1643年
1643年、江戸幕府の第3代将軍・徳川家光の時代に発布された、農民が所有する田畑を永久に売買することを禁じた法令です。貨幣経済の浸透や飢饉によって借金を抱え、土地を手放して没落する農民が増加したため、幕府は確実な年貢(税金)の取り立てを維持するためにこの法律を出しました。土地を持つ本百姓(ほんびゃくしょう)を保護しつつ土地に縛り付ける目的があり、のちの分地制限令とともに江戸時代の強固な農村支配体制を確立する、歴史の決定的な契機となった重要な政策です。
1646年
1月8日
徳川綱吉が生まれる
誕生
江戸幕府3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)と側室の母・桂昌院(けいしょういん、別名:玉)の間に四男として江戸城で生まれる。桂昌院は、お玉という名で京都・八百屋の仁左衛門の娘という説があり、身分が低い八百屋のお玉が将軍の妻となったことから「玉の輿(たまのこし)」の語源になったといわれる。お玉の父は、関白・二条光平に仕えていた本庄 宗正(ほんじょう むねまさ)と『徳川実紀』は記されているが、信憑性は疑われている。
1649年
慶安御触書
行事
江戸幕府が農民統制のため発令した幕法とされていた32条からなる文書。
1650年
慶安のお蔭参り
行事
参詣者の数は2ヵ月間で330万?370万人に上る大流行。この当時の日本総人口は約1781万人である。これ以降、約60年に一度、全国から大勢の人が伊勢神宮(現:三重県伊勢市)を一斉に参拝した「お伊勢参り」が大流行するという現象が発生する。
1651年
末期養子禁の緩和
政治
家は跡継ぎがいない場合、お家取り潰し(お家断絶)となったことにより、牢人の増加した。これらを防ぐための方策として採った緩和令である。
1651年
4月20日
江戸幕府3代将軍・徳川家光 死去
死去
1651年
7月26日
1651年、第3代将軍・徳川家光の死の直後に発覚した、幕府の転覆を狙った大規模な反乱未遂事件です。軍学者の由井正雪と槍の達人である丸橋忠弥らが、全国に溢れていた牢人(主君を失った武士)たちを率いて江戸城の襲撃などを計画しました。計画は実行直前に密告されて失敗に終わりましたが、幕府に強烈な危機感を与えました。これを機に、幕府は武力で厳しく押さえつける「武断政治」から、法律や学問で平和的に世を治める「文治政治」へと方針を切り替える歴史の決定的な契機となりました。
1652年
若衆歌舞伎 禁止
政治
前髪を付けた美少年の舞踊を中心としていたが男色による弊害から禁止される。以後、現在の野郎歌舞伎(やろうかぶき)歌舞伎となり、男性だけが演じるようになったため「女方(おんながた)」も生まれた。
1652年
9月13日
承応の変
事件
1653年
修学院離宮 造営
行事
後水尾上皇(ごみずのおじょうこう)が造営された比叡山麓(現:京都市左京区修学院)にある離宮。
1657年
1月18日
1657年(明暦3年)に発生し、江戸の町の大半を焼き尽くした日本史上最悪の火災です。死者は10万人を超え、江戸城の天守も焼失しました。出火原因にまつわる伝説から「振袖火事(ふりそでかじ)」とも呼ばれます。この未曾有の大災害を教訓に、幕府は江戸城の天守再建を諦め、延焼を防ぐための火除地(ひよけち)の設置や大名屋敷の移転、逃げ道を確保する両国橋の架橋など、江戸の町を根本から作り直しました。世界有数の巨大都市・江戸の防災都市化に向けた歴史の決定的な契機となった大事件です。
1661年
8月27日
お金の貸し借りに関するトラブルについて、江戸幕府が「裁判では取り上げないので、当事者同士(相対)で話し合って解決しなさい」と命じた法令です。1661年に最初に出されましたが、特に有名なのは1719年に第8代将軍・徳川吉宗が享保の改革の一環として出した相対済令です。武士の借金問題によってパンク状態になっていた幕府の裁判所(評定所)の負担を減らすことが目的でした。借金そのものを帳消しにする「棄捐令」や「徳政令」とは異なる点に注意が必要な、歴史の重要な法令です。
1662年
4月25日
徳川家宣が生まれる
誕生
甲府藩主・徳川綱重(とくがわつなしげ)と側室の母・長昌院(ちょうしょういん、本名:田中保良子)の間に長男として江戸根津邸(現:東京都文京区根津)で生まれる。長昌院は、後北条氏の旧臣・田中勝宗の娘、魚屋の伏見屋五郎兵衛(ふしみやごろべえ)の娘など諸説ある。
1665年
7月
諸社禰宜神主法度 統制
政治
1668年
1668年、江戸幕府が京都の町の政治や裁判を行うために京都町奉行(きょうとまちぶぎょう)を新しく設置した出来事です。これまで京都の管理は、天皇や貴族を監視する京都所司代(きょうとしょしだい)という役職がまとめて行っていました。しかし、平和になって京都の町が発展し、仕事がパンク状態になったため、一般市民のトラブル解決や治安維持を担当する専用の役所を独立させたのです。幕府の支配システムがより細かく、完璧に整えられていった江戸時代前期の重要なステップです。
1669年
小石川後楽園(水戸藩)完成
文化
1669年
6月
1669年、蝦夷地(現在の北海道)でアイヌ民族の首長シャクシャインが中心となり、不平等な交易を強いる松前藩に対して起こした大規模な蜂起です。部族間の争いに和人(日本人)が介入したことや、アイヌの使者が毒殺されたという噂をきっかけに爆発しました。一時は和人の拠点を次々と陥落させましたが、鉄砲などの近代兵器を持つ幕府軍の支援を受けた松前藩に押し返され、和睦の席でシャクシャインは暗殺されます。アイヌ民族が松前藩に完全に服従を強いられる体制が固まる、北方史における決定的な契機となった事件です。
1671年
河村瑞賢(かわむらずいけん)が東廻り航路をひらく。
行事
1673年
分地制限令
行事
農民の零細化・没落をを防ぐため、所持田畑の分割相続を制限した法令。
1680年
5月8日
江戸幕府4代将軍・徳川家綱 死去
死去
1684年
10月21日
徳川吉宗が生まれる
誕生
紀州藩主・徳川光貞(とくがわみつさだ)と側室の母・浄円院(じょうえんいん)の間に四男として和歌山城下の吹上邸で生まれる。
1685年
10月
第5代将軍・徳川綱吉が出した、日本史上最も有名で「天下の悪法」とも呼ばれる法律です。それが生類憐れみの令(しょうるいあわれみのれい)です。犬や猫だけでなく、鳥や魚、さらには虫に至るまで「生き物をいじめてはいけない」という極端な動物愛護の法律でした。特に犬を特別扱いしたため、綱吉は「犬公方(いぬくぼう)」とあだ名されました。違反した者は死刑や島流しなど厳しく処罰されたため、庶民は大変苦しみました。しかし近年では、「戦国時代の殺伐とした雰囲気を消し、命を大切にする平和な世の中を作るための政策だった」と見直されています。
1688年
柳沢吉保(やなぎさわ よしやす)が、5代将軍・徳川綱吉側用人になる。
行事
1688年
井原西鶴 浮世草子『日本永代蔵』(にっぽんえいたいぐら)刊行
行事
1690年
湯島聖堂 建築
行事
5代将軍徳川綱吉によって建てられた孔子廟(こうしびょう)。朱子学の林羅山が上野忍が岡に先聖殿を築いたものを江戸幕府が儒教の学校として、湯島(御茶ノ水、現:東京都文京区湯島)に移築した。孔子廟とは、中国、春秋時代の思想家、儒教の創始者である孔子を祀っている建物のこと。
1690年 〜 1779年
1690年から1779年頃までの江戸時代中期は、平和な世の中で町人たちが力をつけ、華やかな元禄文化が花開いた時代です。5代将軍綱吉の生類憐みの令から始まり、8代将軍徳川吉宗による幕府立て直しプロジェクト享保の改革が実行されました。新田開発や法律の整備が進められる一方、後半には西洋の医学を翻訳した『解体新書』が出版され、蘭学が広まりました。また、田沼意次が商業を重視した政治を始めるなど、日本の経済や学問が大きくステップアップしたエネルギーあふれる時代です。
1694年
12月9日
武蔵国川越藩(埼玉県川越市)の藩主・柳沢吉保(やなぎさわ よしやす)が老中になる。
行事
1696年
荻原重秀(おぎわら しげひで)、勘定奉行に就任する。
行事
1701年
3月14日
1701年、江戸城内で赤穂藩主の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が、幕府の高官である吉良上野介(きらこうずけのすけ)に突然斬りかかった刃傷事件と、その翌年に浅野の家臣たち(赤穂浪士)が主君の仇討ちを果たした一連の出来事です。幕府の不公平な裁定に対する武士たちの命がけの忠義の物語は、「忠臣蔵(ちゅうしんぐら)」として歌舞伎などの題材となり大ヒットしました。平和な江戸時代において「武士とはどうあるべきか」を人々に問いかけた歴史的な事件です。
1702年
12月14日
赤穂浪士 吉良邸討ち入り
事件
1707年
宝永大噴火
天災
宝永大噴火は、富士山の三大噴火の一つ。
1709年
1709年から1716年にかけて、第6代将軍・徳川家宣と第7代将軍・徳川家継の時代に行われた政治改革です。儒学者(学問の先生)である新井白石と側近の間部詮房が主導しました。前将軍・綱吉の時代の悪法であった生類憐れみの令を廃止し、金の含有量を増やした良質な貨幣への改鋳を行って物価の安定を図りました。また、海舶互市新例(長崎新令)を出して海外への金銀流出を防ぎました。理想主義的な文治政治でしたが、のちの享保の改革へと繋がる歴史の重要な分岐点となった出来事です。
1709年
1月10日
江戸幕府5代将軍・徳川綱吉 死去
死去
1709年
7月3日
徳川家継が生まれる
誕生
江戸幕府6代将軍・徳川家宣(とくがわいえのぶ)と側室の母・月光院(げっこういん、本名:勝田輝子(かつたてるこ))の間に長男として江戸城西ノ丸で生まれる。
1710年
武家諸法度 改定「宝永令」
行事
6代将軍・徳川家宣による法令。大名に武芸だけでなく、学問の素養を身につけ、礼儀正しくふるまうことを求めた。 跡継ぎの決まっていない大名が、死ぬ間際になって養子を迎える「末期養子(まつごようし)」も認めた。また、主君や夫などの死を追って臣下や家族などが自死する殉死の禁止している。
1712年
10月14日
江戸幕府6代将軍・徳川家宣 死去
死去
1712年
12月21日
徳川家重が生まれる
誕生
和歌山藩主・徳川吉宗(とくがわよしむね、後:江戸幕府8代将軍)と側室の母・深徳院(しんとくいん、本名:大久保須磨子)の間に長男として江戸赤坂の和歌山藩邸で生まれる。
1716年
1716年から第8代将軍・徳川吉宗(とくがわよしむね)が行った、江戸幕府を立て直すための大改革です。これを享保の改革(きょうほうのかいかく)と呼びます。当時、幕府はお金がなくて倒産寸前の大ピンチでした。そこで吉宗は、徹底的なぜいたく禁止(質素倹約)を命じ、お米の生産量を増やして税金を厳しく取り立てることで、見事に幕府の財政をV字回復させました。目安箱の設置や、裁判の基準である公事方御定書の制定など、テストに頻出する超重要キーワードが盛りだくさんの「江戸の三大改革」のトップバッターとなる特大ドミノです!
1716年
4月30日
江戸幕府7代将軍・徳川家継 死去
死去
1720年
1月7日
洋書輸入の禁緩和
他
1720年
8月
1721年(享保6年)頃、第8代将軍・徳川吉宗が江戸城外の評定所前に設置した投書箱です。幕府の立て直しを図る享保の改革の一環として、庶民の意見や不満を将軍が直接読み、政治に反映させる目的で作られました。無責任な意見を防ぐため匿名は禁止され、住所と氏名を書いた訴状のみが読まれました。この目安箱の意見から、貧しい病人を救済する小石川養生所や、江戸の防災を担う町火消などが誕生しました。民意を国政に汲み上げるという、日本の政治史における歴史の決定的な契機となった制度です。
1720年
8月
小石川薬園 設置
行事
1720年
8月7日
1720年、第8代将軍・徳川吉宗の時代に、南町奉行の大岡忠相が主導して組織された江戸の町人による消防組織の設置です。当時の江戸は火事が多く、武士による消防(大名火消・定火消)だけでは町を守りきれませんでした。そこで、享保の改革の一環として町を47の区画に分け、「いろは」の文字を冠した町火消(まちびけし)を編成しました。家を壊して延焼を防ぐ「破壊消防」を命がけで行う彼らは「江戸の華」と称賛され、庶民の自治による防災体制を確立する歴史の重要な分岐点となりました。
1722年
出版書籍業者取締令 発布
文化
1722年
7月3日
1722年、第8代将軍・徳川吉宗(とくがわよしむね)が幕府の深刻な財政難を救うために発布した法令です。大名に対し、領地1万石につき100石の米を上納させる代わりに、参勤交代で江戸に滞在する期間を1年から半年に短縮するという画期的な内容でした。幕府は米不足を解消でき、大名も莫大な出費を抑えられるウィンウィンの制度として機能しました。幕府の権威を一部削ってでも実利を優先したこの政策は、享保の改革を軌道に乗せ、江戸幕府を財政崩壊の危機から救った歴史の重要な分岐点です。
1722年
12月
施薬院・小石川養生所 設置
行事
江戸に設置した無料の医療施設。享保から幕末まで140年あまり貧民救済施設として機能した。漢方医の小川笙船(おがわしょうせん)は、目安箱を利用して施薬院の設置を嘆願する投書を行う。江戸幕府もこれを容認して、小石川薬園(現:東京都文京区白山)に施薬院・小石川養生所を設けた。
1723年
心中物の出版・上演 禁止
文化
近松門左衛門「曽根崎心中」など影響され男女心中する事件が発生。江戸幕府はこれを重くみて、心中物の出版、上演を禁止する。また、これ以降に心中した者の葬儀を禁止した。
1723年
6月
1723年、江戸幕府の第8代将軍・徳川吉宗(とくがわよしむね)が、享保の改革(きょうほうのかいかく)の中で定めた画期的な給料のルールです。役職に就くために必要な家柄(石高)が足りない優秀な武士に対し、「その役職に就いて仕事をしている期間だけ」不足分の給料を足して支給する制度です。幕府の無駄な支出を抑えつつ、身分にとらわれずに能力のある人材を重要なポストに大抜擢できるようになった、テストにも頻出する超重要な政治システムです。
1723年
6月
1723年、江戸幕府の第8代将軍・徳川吉宗(とくがわよしむね)が、深刻な財政難を立て直す「享保の改革(きょうほうのかいかく)」の目玉として発令した「超・節約ルール」です。「贅沢は敵だ!」とばかりに、派手な着物や豪華な食事、高価な遊びを徹底的に禁止しました。吉宗自身も木綿の粗末な着物を着て「1日2食・一汁一菜」という質素な生活を送り、武士から庶民まで全員に強制しました。幕府のお金は貯まりましたが、世の中のお金の流れが止まってしまい、深刻な不景気(デフレ)を引き起こすという特大ドミノにもなりました。
1730年
1730年、江戸幕府の第8代将軍・徳川吉宗が、大坂(大阪)の堂島にあった米の取引所(堂島米会所)を公式に認めた歴史的出来事です。当時、お米の値段が下がりすぎて武士の生活が苦しくなっていたため、世界初とも言われる「先物取引(さきものとりひき)」などの高度な経済活動を公認することで、お米の値段を引き上げようとしました。「天下の台所」と呼ばれた大坂の経済力を幕府が利用し、日本の商業システムが大きく発展する歴史の重要な分岐点となりました。
1732年
1732年(享保17年)、西日本を中心に起きた江戸時代の四大飢饉の一つ、享保の大飢饉(きょうほうのだいききん)です。異常な長雨と冷夏によって農作物が育たない中、ウンカ(害虫)が異常発生して稲を食い尽くし、西国の大名たちは壊滅的な被害を受けました。米の価格が急騰し、江戸では初めての打ちこわしが発生。将軍・徳川吉宗は救済米を出し、青木昆陽にサツマイモの栽培を命じるなど対策に奔走しました。幕府の農業政策を見直す決定的な契機となった大災害です。
1733年
1月26日
1733年、享保の大飢饉による米不足と価格の高騰に苦しむ江戸の民衆が、米を買い占めていた悪徳商人の家を襲撃・破壊した事件です(打ちこわし)。将軍・徳川吉宗の時代、西日本での深刻な不作が原因で江戸の米の値段が急上昇しました。幕府の対応が遅れる中、怒りを爆発させた都市の貧しい人々が集団で実力行使に出ました。これが江戸で起きた最初の「打ちこわし」とされ、幕府の経済政策に大きな課題を突きつける歴史の分岐点となりました。
1736年
5月
元文金銀 鋳造始まる
経済
1737年
5月22日
徳川家治が生まれる
誕生
江戸幕府9代将軍・徳川家重(とくがわいえしげ)と側室の母・至心院(ししんいん、本名:梅渓幸子)の間に長男として江戸城西ノ丸で生まれる。
1742年
1742年、第8代将軍・徳川吉宗の命により、江戸幕府の裁判の基準となる基本法典公事方御定書(くじかたおさだめがき)が制定された出来事です。それまでの裁判は担当する奉行のさじ加減で判決が変わり、不公平が生じていました。この法典では過去の判例をもとに犯罪に対する刑罰の基準が明確に定められ、公平で迅速な裁判が可能になりました。南町奉行の大岡忠相らが編纂に関わり、享保の改革を代表する政策の一つです。近代的な法制度へ繋がる歴史の重要な分岐点となりました。
1747年
8月15日
細川宗孝江戸城中殺害事件
事件
4代目熊本藩主・細川宗孝(ほそかわむねたか)が、江戸城内の厠(かわや、便所)付近で旗本寄合席・板倉勝該(いたくら かつかね)に背後から脇差で斬られてで殺害された。板倉勝該は、板倉本家当主の板倉勝清を殺害するため、勝清を背中の家紋で判断した。結果、よく似ている家紋を付けていた細川宗孝を誤って人違いで殺害してしまった。
1750年
1月7日
版元・蔦屋重三郎 誕生
誕生
版元・蔦屋重三郎が浅草(新吉原、現:東京都台東区千束3-4丁目、浅草寺北側・日本堤付近)で生まれる。版元とは、本、浮世絵などの印刷物の出版・発行する現在の出版社を指す。
1751年
田沼意次 御側御用取次
官職
1751年
6月20日
江戸幕府8代将軍・徳川吉宗 死去
死去
1755年
宝暦の飢饉
天災
東北地方から北関東まで被害がおよんだ冷害により不作、餓死者多数を出した飢饉。
1758年
1758年(宝暦8年)、江戸幕府による尊王論者への初めての思想弾圧事件です。学者の竹内式部(たけのうちしきぶ)が、京都の若い公家たちに天皇の権力を回復すべきだという尊王論(そんのうろん)を教え、彼らが桃園天皇に軍学などを進講するようになりました。これを危険視した朝廷の古い権力者(関白ら)が幕府に訴え出たため、式部は京都から追放され、公家たちも処罰されました。幕末に吹き荒れる尊王攘夷運動へと繋がる思想的な端緒を開いた、歴史の重要な分岐点となる事件です。
1761年
7月13日
江戸幕府9代将軍・徳川家重 死去
死去
1767年
1767年(明和4年)、江戸幕府が行った厳しい思想弾圧事件です。兵学者の山県大弐(やまがただいに)や藤井右門らが、天皇を尊ぶ尊王論(そんのうろん)を唱え、幕府の政治を激しく批判したとして逮捕・処刑されました。実際に反乱の証拠はなかったものの、体制の揺らぎを恐れた幕府が過剰に警戒して見せしめとしたのです。この事件で表向きの批判は封じられましたが、彼らが残した思想は静かに受け継がれ、のちの幕末における尊王攘夷運動の端緒を開く重要な歴史的事件となりました。
1767年
上杉鷹山 米沢藩・財政改革
政治
1770年
大坂・油問屋株 制定
政治
1770年
江戸・質屋株 制定
行事
1772年
1772年、身分の低い家柄から異例の出世を遂げた田沼意次(たぬまおきつぐ)が、幕府の最高職である老中(ろうじゅう)に就任した出来事です。彼は従来の農業中心の政治から、商業や貿易を重視する新しい経済政策(田沼の政治)を推し進めました。商人から税金を取るために同業者組合である株仲間(かぶなかま)を積極的に認め、長崎貿易や蝦夷地(北海道)の開拓も計画します。しかし、賄賂(わいろ)が横行し、天明の大飢饉が起きたことで失脚しました。日本の資本主義的な経済発展の端緒を開いた重要な歴史の転換点です。
1772年
黄表紙本・川柳・狂歌 流行
行事
1773年
10月5日
徳川家斉が生まれる
誕生
一橋家第2代当主・一橋治済(ひとつばしはるさだ、後:徳川治済)と大奥女中の母・お富の方(おとみのかた、本名:岩本富子)の間に長男として江戸城西ノ丸で生まれる。
1774年
8月
1774年、蘭方医の杉田玄白や前野良沢らが、オランダの解剖学書『ターヘル・アナトミア』を日本語に翻訳し、『解体新書(かいたいしんしょ)』として刊行した出来事です。人間の体を実際に解剖して本の内容が正しいと確信した彼らは、辞書もない状態から命がけで翻訳を成し遂げました。日本の医学をそれまでの経験医学から近代的な科学へと進化させる決定的な契機となった一冊です。さらに、西洋の優れた学問を広く伝えることで、江戸時代後半の蘭学(らんがく)が大発展する端緒を開いた、日本文化史上の重大な転換点です。
1776年
1776年、江戸時代中期の天才・平賀源内(ひらがげんない)が、オランダ製の摩擦起電機「エレキテル」を自らの手で復元した歴史的な出来事です。長崎で手に入れた壊れた西洋の機械を、設計図も電気の知識もない状態から、日本の職人の技術を結集して約7年がかりで修理・復元しました。日本人が初めて人工的に電気を発生させた決定的な契機であり、西洋の科学技術に挑む日本の「ものづくり」の精神と、蘭学(らんがく)発展の端緒を開いた重要な文化史のイベントです。
1780年 〜 1852年
1780年からペリー来航直前の1852年頃までの江戸時代後期は、幕府の体制が大きく揺らいだ「内憂外患」の激動の時代です。松平定信の寛政の改革や水野忠邦の天保の改革で幕府の立て直しが図られましたが、厳しすぎるルールに反発が起き失敗。一方で、庶民の教育水準は上がり、浮世絵などに代表される豊かな化政文化が花開きました。しかし、大飢饉や大塩平八郎の乱で国内が混乱する中、外国船が頻繁に接近。異国船打払令を出すなど危機感が高まり、幕末の動乱への足音が近づいていきます。
1782年
1782年から1787年にかけて日本を襲った、江戸時代で最大かつ最悪の飢饉(極端な食料不足)です。異常気象や浅間山などの歴史的な大噴火が重なり、全国的に農作物が全く育たなくなりました。特に東北地方の被害は凄まじく、餓死や疫病で数十万人もの人々が命を落としました。この地獄のような状況下で、幕府のトップだった田沼意次(たぬまおきつぐ)の政治への不満が爆発し、全国で激しい打ちこわし(暴動)が発生。田沼の失脚と、次の寛政の改革へと繋がる歴史の特大ドミノとなりました。
1782年
1782年、江戸幕府の老中・田沼意次(たぬまおきつぐ)の主導により、下総国(千葉県)の印旛沼・手賀沼の干拓事業が開始された歴史的出来事です。頻発する水害を防ぎ、広大な新田開発を行って幕府の財政を立て直す目的がありました。莫大な工事費用を江戸の商人から調達する斬新な手法(町人請負新田)を取りましたが、難工事と大洪水、そして意次の失脚によって事業は中止に追い込まれます。江戸時代の土木技術の限界と、商業資本を活用しようとした田沼政治の象徴的なプロジェクトです。
1783年
5月9日
1783年(天明3年)、群馬県と長野県の境にある浅間山が歴史的な大噴火を起こした出来事です(天明大噴火)。大量の火山灰や泥流が山のふもとの村々を飲み込み、多くの犠牲者を出しました。さらに、空を覆った火山灰によって太陽の光が遮られ、全国的な大冷害(異常気象)を引き起こしました。これが原因で日本史上最悪の天明の大飢饉が深刻化し、当時の政治トップだった田沼意次が失脚する原因にもなった、江戸時代の歴史を大きく変えた特大ドミノの一つです。
1784年
田沼意知 殺害事件
事件
江戸幕府の老中である遠江国相良藩主・田沼意次の嫡男・田沼意知が佐野善左衛門政言(さのぜんえもんまさこと)に刺殺される事件が発生。意知を刺した佐野政言は、田沼政権の倹約令をはじめ不満を持っていた庶民からは「佐野大明神」、「世直し大明神」と崇められた。政言の死後に高止まりだった米の相場が下落したことも要因となった。
1785年
蝦夷地調査隊 派遣
行事
1786年
田沼意次 老中失脚
官職
1786年
宿毛一揆(土佐国、現:高知県)
運動
1786年
8月25日
江戸幕府10代将軍・徳川家治 死去
死去
1787年
5月
1787年(天明7年)、米価の異常な高騰に苦しむ庶民が、江戸や大坂などの主要都市で米屋や豪商を襲撃した大規模な暴動です。天明の大飢饉や浅間山の大噴火による大凶作が続く中、利益を優先する商人たちが米を買い占めたことで、お米の値段が例年の数倍に跳ね上がりました。飢えと怒りに耐えかねた数万人規模の民衆が各地で打ちこわしを起こし、日本中はパニックに陥ります。この大混乱は田沼意次が完全に失脚する原因となり、続く松平定信の寛政の改革へと繋がる歴史の決定的な契機となりました。
1787年
7月
1787年、白河藩主であった松平定信(まつだいらさだのぶ)が、江戸幕府の最高責任者である老中に就任した出来事です。前任の田沼意次による政治は商業を重視しましたが、賄賂が横行し、さらに天明の大飢饉や打ちこわしによって社会は混乱の極みにありました。定信はこの危機を乗り越えるため、祖父である第8代将軍・徳川吉宗の「享保の改革」を理想とし、質素倹約と農業重視を徹底する寛政の改革(かんせいのかいかく)をスタートさせます。幕府の権威を立て直す決定的な契機となりましたが、その厳しすぎるルールは人々の反発を招きました。
1787年
7月
1787年から、老中の松平定信(まつだいらさだのぶ)が行った江戸幕府の立て直しです。これを寛政の改革(かんせいのかいかく)と呼びます。直前まで政治をしていた田沼意次の「お金儲け重視」の政治と、天明の大飢饉による大混乱を正すため、徳川吉宗の「享保の改革」を理想とした超・厳しい節約と道徳を人々に押し付けました。棄捐令で武士の借金を帳消しにしたり、囲米で飢饉に備えたりしましたが、あまりに厳しすぎるルールに人々は息苦しさを感じ、わずか6年で定信はクビになってしまいます。テストに絶対出る「江戸の三大改革」の2番目となる超重要イベントです。
1787年
9月
1787年から始まった寛政の改革の中で、幕府の直参武士である旗本・御家人を借金地獄から救うために出された法令が棄捐令(きえんれい)です。米を担保にお金を貸す商人・札差(ふださし)に対し、古い借金の完全な帳消しや、新しい借金の利子の大幅な引き下げを命じました。一時的に武士は救われましたが、怒った商人がお金を貸さなくなったため、かえって武士の生活が苦しくなるという大失敗に終わります。武士と商人の経済的な力関係の逆転を示す、歴史の転換点となった重要な法令です。
1789年
1789年、老中・松平定信が寛政の改革の一環として全国の大名に命じた災害備蓄ルールが「囲米の制(かこいまいのせい)」です。直前に起きた天明の大飢饉で多数の餓死者が出た反省から、「1万石につき50石」の米を蔵に貯金(備蓄)するよう義務付けました。江戸の町でも七分積金という独自の貯蓄制度を行い、村々にも米蔵を作らせました。厳しすぎるルールに批判もありましたが、のちの飢饉で多くの命を救うことになり、日本の危機管理対策の端緒を開いた重要な法令です。
1789年
クナシリ・メナシの戦い(蝦夷地、現:北海道)
合戦
1790年
2月
江戸・石川島人足寄場 設置
政治
無宿人や軽罪人、引き取り人のいない刑余者などの自立支援施設のこと。江戸・石川島(現:東京都中央区佃2丁目)に設置した。この案を献策したのは、火付盗賊改役を務めた長谷川平蔵(はせがわへいぞう、通称:鬼平、鬼平犯科帳のモデル)である。
1790年
4月
江戸・七分積金
政治
老中・松平定信が江戸の町費の倹約を命じ、その倹約額の7割を積み立てて不時の出費に充てるように促し、貸付金としても運用した。
1790年
5月
1790年、老中の松平定信が行った寛政の改革の一環として、幕府の公式な学校である昌平坂学問所(湯島聖堂)において、朱子学以外の学問(異学)を教えることを禁止した法令です。田沼意次の時代に乱れた政治や風紀を立て直すため、上下の身分秩序を重んじる朱子学を「正学」として保護し、武士の道徳観を正そうとしました。この禁令は全国の藩校にも影響を与えて思想の統一が図られ、優秀な幕臣を育成する歴史の重要な転換点となりました。
1790年
5月
出版統制令
政治
松平定信が発布した法令で、洒落本(しゃれぼん)、黄表紙(きびょうし)などの貸出・売買を禁じた。本の出版元である蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)、洒落本作家の山東京伝(さんとう きょうでん) 、黄表紙作家の恋川春町(こいかわはるまち)らが処罰された。
1791年
男女混浴 禁止
行事
1792年
10月20日
1792年、ロシアの使節ラクスマンが、漂流民の大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)を送り届けることを名目に、通商(貿易)を求めて北海道の根室に来航した事件です。鎖国中の江戸幕府にとって、ヨーロッパの正式な使節が日本を訪れて外交交渉を行ったのはこれが初めてでした。当時の老中・松平定信は通商を断りつつも、長崎への入港許可証(信牌)を与えて穏便に帰国させました。しかし、この来航は幕府に北方の防衛(海防)の重要性を痛感させ、鎖国体制が大きく揺らぎ始める歴史の決定的な契機となりました。
1793年
松平定信 失脚
行事
1793年
5月14日
徳川家慶が生まれる
誕生
江戸幕府11代将軍・徳川家斉(とくがわいえなり)と側室の母・香琳院(こうりんいん、本名:押田照子)の間に次男として江戸城で生まれる。
1797年
5月31日
版元・蔦屋重三郎 死去
死去
脚気により、47歳で亡くなる。墓所は、日蓮宗・正法寺(しょうほうじ、現:東京都台東区東浅草)にある。
1800年
4月19日
伊能忠敬 蝦夷地測量に向け出発
行事
伊能忠敬は、早朝に富岡八幡宮(とみおかはちまんぐう) に参拝して、第1次測量となる暇夷地 (北海道)に向けてへ出発した。
1804年
1804年から1830年頃の文化・文政時代を中心に、江戸の町人たちによって生み出された活気あふれる大衆文化が化政文化です。第11代将軍・徳川家斉の治世下で、厳しい寛政の改革の反動から、皮肉やユーモア、退廃的な娯楽が愛されました。上方(京都・大坂)から江戸へと文化の中心が完全に移り、浮世絵や滑稽本、歌舞伎などが大流行します。高い識字率を背景に庶民が文化の主役となった、日本の近代大衆文化への端緒を開いた歴史の重要な分岐点となる時代です。
1804年
9月
1804年、ロシア帝国の公式な使節であるレザノフが、日本との貿易(通商)を求めて長崎に来航した歴史的事件です。彼は12年前にロシアの使節ラクスマンが幕府から受け取っていた「長崎への入港許可証(信牌)」を正式に持参していましたが、幕府は「鎖国」のルールを理由に約半年間も彼を待たせた挙句、貿易を完全に拒否しました。これに激怒したレザノフの部下がのちに北方領土を攻撃し、日本の国防意識を劇的に高める決定的な契機となりました。
1804年
10月13日
1804年、和歌山の医師である華岡青洲(はなおかせいしゅう)が、自ら開発した麻酔薬「通仙散(つうせんさん)」を用いて、世界初となる経口全身麻酔下での乳がん摘出手術に成功した出来事です。西洋に先駆けること約40年、激痛を伴うため不可能とされていた本格的な外科手術を、家族の献身的な犠牲と約20年の研究の末に実現させました。この偉業は、痛みをなくして命を救うという近代外科学の扉を開き、日本の医療技術が飛躍的な進歩を遂げる歴史の決定的な契機となりました。
1805年
3月
ロシア使節レザノフ 通商要求 幕府が拒否する。
行事
1806年
文化露寇(蝦夷地、現:北海道)
合戦
1808年
4月
1808年(文化5年)、江戸幕府の役人である間宮林蔵(まみやりんぞう)が、蝦夷地(現在の北海道)の北にある樺太(サハリン)を探検し、樺太が大陸と海で隔てられた「島」であることを世界で初めて発見した歴史的偉業です。当時、ロシアが北方から日本へ接近しており、幕府は北方の地理を正確に把握する必要に迫られていました。アイヌの人々の協力を得て過酷な探検を成功させた林蔵の発見により、この海峡は「間宮海峡」と名付けられました。日本の北方領土防衛の意識を高める歴史の決定的な契機となった出来事です。
1808年
8月
1808年、鎖国中の日本にイギリスの軍艦フェートン号が突然侵入し、長崎の港を大パニックに陥れた事件です。当時、ヨーロッパで戦争中だったイギリスが、敵国であるオランダの船を捕まえるためにオランダ国旗を偽装して侵入。日本の役人や商館員を人質に取り、水や食料を強要しました。長崎奉行は兵力不足で抵抗できず、要求を飲んだ後に責任をとって切腹。この屈辱的なフェートン号事件をキッカケに、江戸幕府は外国船への警戒を強め、のちに外国船を無差別に攻撃する異国船打払令(いこくせんうちはらいれい)を出すという歴史の大きなドミノが倒れました。
1811年
天文方に蛮所書和解掛 設置
行事
蛮所書和解掛とは、江戸幕府によって設置された蘭書を中心とした翻訳機関。また、天文方については、幕府によって設置された宇宙・星の動きを観察する天体運行および暦(こよみ)の研究機関のことである。
1814年
北越騒動(越後国、現:新潟県)
運動
1818年
5月14日
イギリス商船ブラザース号 浦賀来航
外交
イギリス人・ピーター・ゴードン艦長が率いる商船ブラザース号が浦賀に来航する。貿易を要求するが、江戸幕府にこれを拒否される。
1824年
4月8日
徳川家定が生まれる
誕生
江戸幕府12代将軍・徳川家慶(とくがわいえよし)と側室の母・本寿院(ほんじゅいん、本名:跡部堅子)の間に四男として江戸城で生まれる。
1825年
江戸幕府が1825年に発布した、日本の沿岸に近づく外国船を問答無用で砲撃して追い払うよう命じた法令です。当初は水や食料を与えて穏便に帰らせる方針(薪水給与令)でしたが、イギリス船などによる略奪事件(フェートン号事件や宝島事件など)が相次いだことで、幕府は強硬な鎖国政策へと転換しました。「無二念打払令」とも呼ばれます。のちにモリソン号事件などを経て、アヘン戦争での清の敗北を知った幕府は方針を撤回しますが、幕末への混乱の端緒を開いた重要な出来事です。
1828年
10月
1828年(文政11年)、長崎の出島に滞在していたオランダ商館医のシーボルトが、国外持ち出し禁止の日本地図を密出国させようとしたことが発覚した国家機密漏洩事件です。船が暴風雨で座礁したことから、荷物の中に伊能忠敬らが作成した極秘の精密地図が発見されました。幕府は驚愕し、地図を渡した書物奉行の高橋景保ら多数の知識人や蘭学者を厳しく処罰。シーボルトも国外追放処分となりました。この事件は幕府が欧米列強の脅威に直面し、情報管理と国防の統制を一段と強める歴史の転換点となりました。
1830年
お蔭参りが流行(500万人が、伊勢神宮を参拝したと言われる)
行事
1830年
文政のお蔭参り
行事
参詣者の数は427万6500人に上る大流行。この当時の日本総人口は約3228万人である。経済効果は、86万両以上あったといわれている。
1831年
1831年頃、江戸時代後期の天才浮世絵師・葛飾北斎(かつしかほくさい)が発表した、風景画の大傑作『冨嶽三十六景』の版行です。新しく輸入された「ベロ藍」という鮮やかな青色を使い、奇抜な構図で様々な場所から富士山を描いて江戸の庶民を熱狂させました。大ヒットにより追加で描かれ全46図となり、歌川広重らとともに名所絵(風景画)のジャンルを確立して化政文化を彩ります。のちに海を渡り、西洋の印象派の画家に多大な影響を与えた、世界美術史における歴史の決定的な契機となる出来事です。
1831年
長州藩天保一揆(周防国、現:山口県東部)
運動
1833年
1833年(天保4年)から数年間にわたって日本全国を襲った、江戸時代最大級の飢饉です。異常気象による冷害や大雨で米が全く育たず、特に東北地方で甚大な被害を出しました。全国で餓死者や病死者が続出し、数年間で日本の人口が百万人以上も減少したと言われています。各地で米を求める打ちこわしや一揆が激増し、元役人の大塩平八郎までもが反乱を起こす異常事態となりました。幕府の権威が大きく揺らぎ、天保の改革へと向かう歴史の決定的な契機となった大災害です。
1834年
1834年頃、江戸時代後期の浮世絵師・歌川広重(うたがわひろしげ)が発表した、日本を代表する風景画の傑作『東海道五十三次』の版行です。江戸から京都までを結ぶ大動脈である東海道の53の宿場町に、出発地と到着地を加えた全55枚からなる連作です。季節の変化や雨、雪、風といった自然の美しさと、そこに行き交う人々の生き生きとした姿を見事に描き出し、江戸の庶民に空前の旅行ブームを巻き起こしました。日本の名所絵(風景画)を完成させ、のちの西洋美術にも多大な影響を与えた、文化史における歴史の転換点となる出来事です。
1837年
2月19日
1837年、大坂(大阪)で元警察官のリーダー・大塩平八郎(おおしおへいはちろう)が、苦しむ庶民を救うために江戸幕府に対して起こした反乱です。当時、天保の大飢饉(てんぽうのだいききん)で餓死者が続出しているのに、幕府の役人と悪徳商人はお米を隠し持って自分たちだけボロ儲けしていました。正義感の強い大塩はついにブチ切れ、大砲を撃ち込んで大坂の町を焼き払います。反乱はわずか1日で鎮圧されましたが、「幕府の元役人が反乱を起こした!」という衝撃のニュースは日本中を駆け巡り、幕府の権威が大きく揺らぐキッカケとなりました。
1837年
7月30日
1837年(天保8年)、日本の漂流民を送り届け、通商と布教を求めて来航したアメリカの商船モリソン号に対し、江戸幕府が異国船打払令(いこくせんうちはらいれい)に基づいて砲撃を加えた事件です。幕府は軍艦と勘違いして大砲を撃ちましたが、のちに非武装の商船であり、日本人漂流民を保護していたことが判明します。この事実を知った渡辺崋山や高野長英らの蘭学者が幕府の対応を厳しく批判し、のちの蛮社の獄(ばんしゃのごく)へと繋がる歴史の重要な契機となりました。
1837年
9月29日
徳川家茂が生まれる
誕生
水戸藩第9代藩主・徳川斉昭(とくがわなりあき)と有栖川宮織仁親王の第12王女である正室の母・吉子女王(よしこじょおう)の間に七男として小石川の水戸藩上屋敷(現:東京都文京区後楽)で生まれる。
1838年
緒方洪庵 適々斎塾 開く
行事
医師・蘭学者の緒方洪庵が大阪に適々斎塾(別名:適塾、現:大阪市中央区瓦町三丁目)を開いた。塾生には、幕末から明治維新にかけて活躍した福澤諭吉、大村益次郎、箕作秋坪、佐野常民、高峰譲吉などを輩出した。後に大阪大学の前身となる。
1838年
佐渡一国一揆(佐渡国、現:新潟県佐渡市)
運動
1839年
5月
1839年、江戸幕府の古い外交政策を批判した西洋の学問(蘭学)の学者たちが、幕府によって厳しく処罰された言論弾圧事件です。キッカケは、日本人漂流民を助けに来たアメリカの船を幕府が大砲で追い払った「モリソン号事件」でした。「これでは外国と戦争になってしまう!」と危機感を持った渡辺崋山(わたなべかざん)や高野長英(たかのちょうえい)らが幕府を批判する本を書いたところ、逮捕されて悲惨な最期を遂げました。幕府の時代遅れな危機感のなさが浮き彫りになった事件です。
1840年
6月28日
アヘン戦争
行事
アヘンの蔓延に危機感をつのらせた清がイギリス商人のアヘンを焼却した。これをきっかけに清とイギリスの間で2年間に渡って続いた戦争である。イギリスはインドで製造したアヘンを清に輸出して巨額の利益を得ていた。結果、清は敗北、勝利したイギリスは南京条約という不平等な条約を結び、アヘンの貿易は継続させた。
閏
江戸幕府11代将軍・徳川家斉 死去
死去
1841年
5月
1841年から、老中の水野忠邦(みずのただくに)が行った、江戸幕府最後の立て直し作戦です。これが天保の改革(てんぽうのかいかく)です。外国船が日本に迫り、国内では大飢饉や「大塩平八郎の乱」が起こるなど、幕府は内憂外患の超ピンチ!水野は「享保・寛政の改革」を真似て、超厳しいぜいたく禁止令や株仲間の解散、江戸に出稼ぎに来た農民を村に強制送還する人返しの法などを実行しました。しかし、やり方が強引すぎて人々の大反発を買い、江戸や大阪を幕府の直轄地にしようとした上知令(あげちれい)が失敗したことで、わずか2年で失脚しました。テストに絶対出る「江戸の三大改革」の最後を飾る大事件です。
1842年
株仲間解散令
行事
株仲間による専売をやめさせて、市場で自由な価格競争を促し、物価を下げようと考え、株仲間を解散するように全国の商人、職人に対して適用した。商人たちの反対や命令に従わないなど、上手くいかなかった。
1842年
物価引下令
行事
生活に必要な食料品や物資の価格、賃金、家賃を強制的に引き下げ、貨幣の交換比率を変更して物価の高騰を抑止した。株仲間の解散もその一つである。
1842年
7月
1842年(天保13年)、江戸幕府が外国船に対する強硬な態度を改め、水や食料を与えて穏便に帰らせるように命じた法令です。それまでの異国船打払令を撤回して発布されました。最大の理由は、隣の大国である清(中国)がアヘン戦争でイギリスに大敗したという衝撃的なニュースです。「今の日本が外国と戦争をすれば確実に滅びる」と危機感を抱いた老中・水野忠邦は、外国との不要なトラブルを避けるために方針を大転換しました。幕末の開国へと向かう日本の対外政策において、歴史の重要な転換点となった出来事です。
閏
徳川家茂が生まれる
誕生
和歌山藩第11代藩主・徳川斉順(とくがわなりゆき)と側室の母・実成院(じつじょういん、本名:松平操子)の間に次男として江戸城で生まれる。
1853年 〜 1868年
6月3日
1853年のペリー来航から、1868年の大政奉還と江戸城無血開城を経て、明治時代が始まるまでの激動の約15年間です。黒船の圧倒的な武力に屈して日米修好通商条約などの不平等条約を結んだ幕府に対し、武士たちの間で「天皇を敬い外国を追い払え!」という尊王攘夷(そんのうじょうい)の嵐が吹き荒れました。やがて坂本龍馬の仲介で薩長同盟が結ばれると、倒幕の波は決定的なものとなり、260年続いた江戸幕府はついに滅亡。日本が近代国家(明治維新)へと生まれ変わるための、最も熱くドラマチックな転換期です。
1853年
6月3日
1853年、アメリカの使節ペリーが4隻の巨大な黒い蒸気船(黒船)を引き連れて、江戸湾の浦賀(神奈川県)にやってきた大事件です。当時のアメリカは捕鯨(クジラ漁)やアジア貿易を拡大しており、日本に水や食料の補給拠点を求めて開国を迫りました。約200年間も鎖国を続けてきた江戸幕府は大パニックに!ペリーは「1年後にまた返事を聞きに来る」と言い残して去りますが、この圧倒的な武力によるプレッシャーが、日本を近代国家へと突き動かす「幕末」の端緒を開いた歴史の決定的な転換点となりました。
1853年
6月22日
江戸幕府12代将軍・徳川家慶 死去
死去
1854年
1月16日
1854年、アメリカの使節ペリーが、開国の返事を聞くために前回の約束(1年後)を破り、わずか半年で再び浦賀(神奈川県)にやってきた歴史的事件です。しかも、前回(4隻)の倍以上となる合計9隻の巨大な黒船艦隊を率いて江戸湾の奥深くまで侵入し、幕府に強烈な軍事的プレッシャーをかけました。圧倒的な武力を前に抵抗を諦めた幕府はついに「日米和親条約」を結び、200年以上続いた「鎖国」体制が完全に崩壊する歴史の決定的な転換点となりました。
1854年
3月3日
1854年、再び日本にやってきたペリー率いるアメリカ艦隊の強い圧力により、江戸幕府がアメリカとの間で結んだ歴史的な条約です。これが日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)です。この条約により、日本は下田(静岡県)と箱館(北海道)の2つの港を開き、アメリカ船に水や食料、石炭を補給することを約束しました。これにより、江戸幕府が約200年以上も続けてきた鎖国(さこく)体制が完全に終わりを告げ、日本が世界の舞台へと引きずり出される「開国」の特大ドミノが倒れた超重要事件です。
1854年
8月
日英和親条約 締結
外交
1854年
12月
日露和親条約 締結
外交
1855年
2月
安政の大地震
天災
1855年
12月
日蘭和親条約 締結
外交
1856年
2月
浮世絵師・歌川広重『名所江戸百景』制作
行事
1856年
10月
初代米国総領事ハリス、下田に着任する。
行事
1856年
11月
薩摩藩・天璋院(てんしょういん、別名:篤姫 あつひめ)が徳川3代将軍・家定の正室となる。
行事
1857年
1857年、幕府の代官であった江川英龍(えがわひでたつ)の計画により、伊豆国(静岡県)に韮山反射炉(にらやまはんしゃろ)が完成した歴史的出来事です。アヘン戦争や黒船来航に強い危機感を抱いた英龍が、外国船に立ち向かうための強力な大砲(鉄製カノン砲)を国産で作るために建設を主導しました。英龍の死後も息子の英敏が意志を継いで完成させ、日本の近代産業の発展と西洋の軍事技術導入の決定的な契機となった、世界遺産にも登録されている重要な産業遺産です。
1857年
長州藩・吉田松陰が私塾「松下村塾(しょうかそんじゅく)」を長州萩城下(現:山口県萩市)に開く。
行事
1857年
5月
1857年、アメリカの初代駐日総領事タウンゼント・ハリスと江戸幕府との間で結ばれた条約です。日米和親条約の追加ルールとして、長崎の開港やアメリカ貨幣の通用、そして日本にとって極めて不利な領事裁判権(治外法権)などが定められました。この条約によって国内の移動権を得たハリスはついに江戸城へ登り、将軍との謁見を果たします。翌年の日米修好通商条約による本格的な貿易開始へ向け、幕府の鎖国体制を完全に崩壊させる端緒を開いた重要な外交事件です。
1858年
4月21日
1858年、幕末の未曾有の国難を乗り切るため、彦根藩主の井伊直弼(いいなおすけ)が江戸幕府の最高職である大老に就任した歴史的事件です。当時、アメリカから迫られた不平等条約の締結問題と、次の将軍を誰にするかという将軍継嗣問題で幕府は大混乱に陥っていました。直弼は強権を発動して条約に無断で調印し、反対派を徹底的に弾圧する「安政の大獄」を引き起こします。強引な独裁政治は人々の激しい怒りを買い、幕府崩壊への決定的な契機となりました。
1858年
6月19日
1858年、アメリカ総領事ハリスの強い圧力により、幕府の大老・井伊直弼が天皇の許可を得ずに結んだ歴史的な不平等条約です。これが日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)です。神奈川(横浜)など5つの港を開いて外国との本格的な貿易をスタートさせましたが、日本には関税自主権がなく、外国人に領事裁判権を認めるという超不利な内容でした。これにより日本の経済は大混乱し、怒った武士たちによる「尊王攘夷運動」が爆発。江戸幕府の滅亡へと繋がる特大のドミノとなりました。
1858年
7月6日
江戸幕府13代将軍・徳川家定 死去
死去
1858年
9月
1858年から1859年にかけて、江戸幕府の最高権力者である大老・井伊直弼(いいなおすけ)が、自分の政治に反対する人々を徹底的に弾圧した恐ろしい事件です。これを安政の大獄(あんせいのたいごく)と呼びます。天皇の許可なく条約を結んだことや、次の将軍を強引に決めたことに反対した大名や武士、学者たち約100名以上が逮捕され、謹慎や島流し、死刑などの重い罰を受けました。特に吉田松陰や橋本左内といった優秀な若者たちが処刑されたことは日本にとって大きな損失となり、人々の怒りは頂点に達し、歴史を大きく変える桜田門外の変へと繋がる特大のドミノとなりました。
1858年
9月3日
日仏修好通商条約
外交
1859年
3月
イギリス人・オールコックが初代駐日総領事に着任する。
行事
1859年
10月7日
1859年、福井藩の有能な藩士である橋本左内(はしもとさない)が、大老・井伊直弼が主導した弾圧事件「安政の大獄」によって伝馬町牢屋敷で処刑(斬首)された歴史的出来事です。左内は名君・松平春嶽の側近として藩の近代化を進め、西郷隆盛らと共に次の将軍に徳川慶喜を推す「一橋派」の中心として国事に奔走しました。しかし幕府の怒りを買い、26歳(満25歳)という若さで命を落とします。吉田松陰ら優秀な人材を失ったことで幕府への反発は頂点に達し、倒幕への決定的な契機となりました。
1859年
10月27日
1859年、長州藩の思想家であり教育者である吉田松陰(よしだしょういん)が、大老・井伊直弼による安政の大獄によって江戸の伝馬町牢屋敷で処刑(斬首)された歴史的事件です。松陰は松下村塾で高杉晋作や伊藤博文など、のちの明治維新を牽引する若者たちを多数育てました。しかし、幕府の政策を激しく批判して老中暗殺を企てたため、危険人物として処刑されました。享年30歳(満29歳)。彼の死は弟子たちの心に火をつけ、倒幕運動を激化させる歴史の決定的な契機となりました。
1860年
1月13日
勝海舟、福沢諭吉、ジョン万次郎らを乗せ、幕府海軍が保有する軍艦・咸臨丸(かんりんまる)が米国へ向け品川を出港する。
行事
1860年
3月24日
1860年、江戸城の桜田門の外で、江戸幕府の最高権力者である大老・井伊直弼が、水戸藩などの脱藩浪士たちに白昼堂々暗殺された大事件です。原因は、井伊直弼が天皇の許可を得ずに日米修好通商条約を結び、それに反対する人々を安政の大獄で厳しく処罰したことへの強烈な恨みでした。この事件により「幕府のトップでさえ簡単に殺されてしまう」という事実が日本中に知れ渡り、幕府の権力は完全に失墜。ここから尊王攘夷(天皇を尊び、外国を追い払う)の運動が爆発的に広がり、倒幕へのドミノ倒しが一気に加速していきます。
1861年
10月20日
幕末の1861年、朝廷(天皇)と幕府(武士)が手を結んで国難を乗り切ろうとする公武合体(こうぶがったい)政策の象徴として、孝明天皇の妹である和宮(かずのみや)が、第14代将軍・徳川家茂(とくがわいえもち)に嫁いだ歴史的事件です。許婚がいた和宮にとって悲劇的な政略結婚でしたが、家茂との間には深い愛情が芽生えました。しかし、幕府が皇族を政治利用したとして尊王攘夷派の激しい怒りを買い、かえって倒幕運動を激化させる結果を招く歴史の重要な分岐点となりました。
1862年
7月
1862年(文久2年)、薩摩藩の最高権力者である島津久光の強い圧力によって実行された江戸幕府の政治改革です。朝廷の権威を利用して幕府に迫り、将軍後見職に一橋慶喜、政事総裁職に松平慶永(春嶽)、京都守護職に松平容保を任命する「三要職」を新設しました。さらに、大名の経済的負担であった参勤交代を大幅に緩和(3年に1回に軽減)します。幕府を立て直すための改革でしたが、結果的に外様大名が国政に介入する端緒を開き、幕府の衰退を早める決定的な契機となった歴史的事件です。
1862年
8月21日
1862年、武蔵国の生麦村(現在の神奈川県横浜市)で、薩摩藩の実質的トップ・島津久光の大名行列を馬で横切ったイギリス人4名が、薩摩の武士に斬り殺された国際的トラブルです。これを生麦事件(なまむぎじけん)と呼びます。大名行列を横切る行為は当時の日本では重罪でしたが、文化の違いを理解しない外国人が巻き込まれる形となりました。激怒したイギリスは莫大な賠償金を要求。これを突っぱねた薩摩藩との間で翌年の薩英戦争が勃発し、日本が「倒幕」へと突き進む特大のドミノの1枚目となった超重要事件です。
1863年
天誅組の変(大和国、現:奈良県)
合戦
1863年
生野の変(但馬国、現:兵庫県北部)
合戦
1863年
天狗党の乱(常陸国、現:茨城県)
合戦
1863年
薩英戦争(薩摩国、現:鹿児島県西部)
合戦
1863年
3月
14代将軍・徳川家茂が将軍として230年ぶりに上洛する。
行事
1863年
5月10日
1863年、外国人を日本から追い出そうとする尊王攘夷(そんのうじょうい)の思想に燃える長州藩(山口県)が、関門海峡(下関海峡)を通過するアメリカなどの外国船に対して無差別に大砲を撃ち込んだ事件です。江戸幕府が天皇に約束させられた「攘夷決行の日(5月10日)」に合わせて、長州藩が単独で実力行使に出ました。しかし、すぐにアメリカやフランスの軍艦から猛烈な報復攻撃を受け、長州藩の海軍は壊滅状態に陥ります。この無謀な事件は、のちの四国艦隊下関砲撃事件を招き、日本の武力では外国に勝てないという現実を突きつけられる歴史の重要な契機となりました。
1863年
6月
高杉晋作 奇兵隊 結成
行事
高杉晋作が藩士と藩士以外の武士・庶民から編成された部隊・奇兵隊を結成した。下関防衛を主な目的とし、初代総督は晋作が就任した。「奇兵」とは、正規の武士を意味する「正規兵」の反対語である。
1863年
7月2日
1863年に薩摩藩(鹿児島県)と、当時世界最強と言われたイギリス(大英帝国)の海軍が激突した戦争です。原因は前年に薩摩藩士がイギリス人を斬り殺した生麦事件。イギリスは犯人の処罰と賠償金を求めて鹿児島湾に軍艦で押し寄せました。交渉は決裂し、大砲の撃ち合いに発展!薩摩藩は城下が火の海になる大被害を受けますが、イギリス軍の艦長を戦死させるなど予想以上の大健闘を見せます。この戦いで「外国を武力で追い払う(尊王攘夷)なんて絶対に無理だ!」と痛感した薩摩藩は、逆にイギリスから最新の武器や技術を学ぶようになり、幕府を倒す最強の藩へと生まれ変わっていく歴史の重要なターニングポイントです。
1863年
8月18日
1863年、京都の政治を牛耳っていた過激な尊王攘夷派(長州藩など)を、幕府と協力する公武合体派(会津藩・薩摩藩など)が武力で京都から追放したクーデター事件です。天皇の許可なく過激な行動を繰り返す長州藩に怒った孝明天皇の密命により、会津藩と薩摩藩が秘密裏に手を組んで御所(天皇の住まい)の門を封鎖しました。この事件により長州藩と三条実美ら急進派の公家たちは京都から追い出され、日本の政治の中心が「攘夷」から「公武合体」へと大きく方向転換する歴史の重要な契機となりました。
1864年
天王山籠城戦(山城国、現:京都府)
合戦
1864年
下関戦争(長門国、現:山口県西半分)
合戦
1864年
6月5日
1864年、京都の旅館「池田屋」に潜伏していた長州藩などの尊王攘夷派(そんのうじょういは)の志士たちを、京都の治安維持組織である新選組(しんせんぐみ)が急襲した血みどろの大事件です。「京都の町を火の海にして天皇を連れ去る」という恐ろしいテロ計画を未然に防いだことで、新選組の名は日本中に轟きました。一方で、多くの有能な人材を失った長州藩は激怒し、のちに「禁門の変」というさらなる武力衝突を引き起こすことになります。幕末の歴史の時計の針を激しく進めた、重大な歴史の転換点です。
1864年
8月5日
1864年、尊王攘夷を掲げて外国船への砲撃を繰り返していた長州藩に対し、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの4カ国からなる四国連合艦隊が報復として下関を攻撃・占領した事件です(馬関戦争とも呼ばれます)。最新兵器の前に長州藩は惨敗し、攘夷(外国人を力ずくで追い払うこと)が不可能であることを痛感しました。この絶望的な敗北を機に、長州藩は外国の進んだ技術を取り入れて幕府を倒すという方針へ大きく転換し、日本の近代化への決定的な契機となった歴史の重要な転換点です。
1864年
8月20日
1864年、京都の政治から追放されていた長州藩(山口県)が、天皇に無実を訴え、実権を握る会津藩や薩摩藩を排除するために軍勢を率いて京都へ進軍し、武力衝突を起こした事件です。京都御所の門である蛤御門(はまぐりごもん)周辺で激しい市街戦が繰り広げられたため、蛤御門の変とも呼ばれます。長州藩は敗北した上に、天皇の御所に向かって発砲したとして「朝敵(天皇の敵)」の烙印を押されました。この事件は、長州藩を滅亡の危機に追い込む第一次長州征討の引き金となり、幕末の動乱をさらに激化させる歴史の決定的な分岐点となりました。
1864年
9月
1864年、禁門の変で天皇に銃を向け「朝敵(天皇の敵)」となった長州藩に対し、江戸幕府が全国の大名に号令をかけて行った大規模な軍事遠征です。これを第一次長州征討(だいいちじちょうしゅうせいとう)とも呼びます。時を同じくして外国艦隊からも攻撃を受けた長州藩は、戦う前から絶体絶命の危機に陥りました。幕府軍の参謀として実権を握っていた薩摩藩の西郷隆盛の提案により、長州藩は責任者の切腹などを条件に戦わずして降伏します。一時的に幕府の権威が回復したものの、のちの討幕運動を激化させる歴史の端緒を開いた事件です。
1866年
1月21日
1866年、幕末の歴史を決定的に動かした奇跡の軍事同盟です。犬猿の仲だった薩摩藩と長州藩が、土佐藩の坂本龍馬らの仲介によって手を結びました。幕府から攻撃されて武器が買えなかった長州藩に薩摩藩が名義を貸して武器を調達し、逆に長州藩は薩摩藩に不足していたお米を提供するという、お互いの弱点を補う最強タッグが誕生!この薩長同盟(さっちょうどうめい)の成立により、「倒幕(幕府を倒す)」という歴史の巨大なドミノが一気に倒れ始め、翌年の大政奉還や明治維新へと直結する絶対必須の最重要イベントです。
1866年
6月7日
1866年、第14代将軍・徳川家茂が指揮する幕府軍(約15万人)と長州軍(約3500人)が激突した戦いです。別名四境戦争とも呼ばれます。兵力では幕府軍が圧倒的有利でしたが、長州藩は秘密裏に薩長同盟を結んでいたため、薩摩藩は出兵を拒否。さらに長州軍は最新の洋式兵器と天才戦術家・大村益次郎の指揮により幕府軍を圧倒しました。戦いの最中に将軍・家茂が急死したことで幕府軍は完全に敗退し、幕府の権威失墜と倒幕運動の加速を決定づけた歴史の決定的な契機となりました。
1866年
7月20日
江戸幕府14代将軍・徳川家茂 死去
死去
1867年
4月
坂本龍馬 土佐藩籍に復帰
行事
1867年
4月
坂本龍馬 亀山社中を「海援隊」に改称して同隊の隊長となる。
官職
1867年
8月
1867年の夏から秋にかけて、日本各地で空からお札が降ってきたことをキッカケに、民衆が「ええじゃないか」と歌い踊りながら町を練り歩いた大熱狂のパニック事件です。開国による物価の急上昇や政情不安でストレスが限界に達していた人々が、「世直し」を求めて爆発しました。ちょうど江戸幕府が終わりを迎える大政奉還の直前に起こったため、この社会の大混乱は幕府の権威をさらに失墜させ、倒幕を目指す勢力にとって非常に有利に働きました。幕末の日本がひっくり返る直前の、異様なエネルギーを象徴する出来事です。
1867年
10月14日
1867年、江戸幕府の第15代将軍・徳川慶喜が、政治を行う権利を天皇に返した大事件です。これを大政奉還(たいせいほうかん)と呼びます。薩摩藩や長州藩から「幕府を倒せ!」というプレッシャーが極限まで高まる中、慶喜は「自ら政権を返せば、新しい政府でも徳川家がトップに立てるはずだ」という逆転のアイデアでこの決断を下しました。しかし、結果的にこの出来事によって約260年続いた江戸幕府は終結。鎌倉時代から約700年続いた武士の時代が完全に終わりを告げ、明治維新へと繋がる歴史の特大ターニングポイントとなりました。
1867年
10月24日
徳川慶喜 将軍職辞職願 提出
行事
大政奉還の時点では慶喜は征夷大将軍を辞職しておらず、そのため辞職願を朝廷へ提出した。
1867年
11月15日
近江屋事件
事件
坂本龍馬、中岡慎太郎らが京都河原町・近江屋井口新助邸で殺害された事件。龍馬たちを殺害した犯人は不明とされ、京都見廻組の仕業、もしくは紀州藩士、新選組などといった名が挙がってるが推測の域を出ない。龍馬が殺害された日は、奇しくも龍馬が33歳になった誕生日であった。
1867年
12月5日
徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が徳川最後の15代将軍となる。
行事
1867年
12月9日
1867年12月9日、薩摩藩や朝廷の岩倉具視らがクーデターを起こし、天皇を中心とする新しい政府の誕生を宣言した超重要イベントです。これが王政復古の大号令です。直前に大政奉還が行われましたが、実は幕府の組織はまだ残っており、徳川慶喜は引き続きトップに立とうと狙っていました。その徳川家の野望を完全に叩き潰すため、「江戸幕府を廃止する!将軍という役職もなくす!」と宣言し、約700年続いた武士の政治に完全にトドメを刺した「歴史の特大ドミノ」。明治新政府の絶対的なスタート地点です。
1867年
12月12日
徳川慶喜 大坂城に退去する。
行事
1867年
12月25日
江戸薩摩藩邸の焼討事件
事件
1868年
松山戦争(常陸国、下総国、現:千葉県北部、茨城県南西部)
合戦
1868年
淀千両松の戦い(山城国、現:京都府)
合戦
1868年
阿波沖海戦(阿波国、現:徳島県)
合戦
1868年
甲州勝沼の戦い(甲斐国、現:山梨県)
合戦
1868年
宇都宮城の戦い(下野国、現:栃木県、群馬県一部)
合戦
1868年
市川・船橋戦争(下総国、現:千葉県北部、茨城県南西部)
合戦
1868年
五井戦争(上総国、現:千葉県)
合戦
1868年
上野戦争(武蔵国、現:東京都、埼玉県、神奈川県一部)
合戦
1868年
北越戦争(越後国、現:新潟県)
合戦
1868年
白河口の戦い(陸奥国、現:福島県白河市)
合戦
1868年
母成峠の戦い(陸奥国、現:福島県郡山市・猪苗代町)
合戦
1868年
二本松の戦い(陸奥国、現:福島県二本松市)
合戦
1868年
今市の戦い(下野国、現:栃木県、群馬県一部)
合戦
1868年
磐城の戦い(陸奥国、現:福島県浜通り)
合戦
1868年
会津城籠城戦(陸奥国、現:福島県会津若松市)
合戦
1868年
会津世直し一揆(陸奥国、現:福島県会津)
運動
1868年
秋田戦争(出羽国、現:秋田県、陸奥国、現:岩手県・青森県)
合戦
1868年
弘道館戦争(常陸国、現:茨城県)
合戦
1868年
野辺地戦争(陸奥国、現:福島県、宮城県、岩手県、青森県、秋田県一部)
合戦
1868年
上田騒動(信濃国・下田藩)
運動
1868年
箱館戦争(北海道函館市)
合戦
1868年
1月3日
1868年から1869年にかけて起こった、新しい国を作りたい新政府軍(薩摩藩・長州藩など)と、旧体制を守ろうとする旧幕府軍による日本を二分する巨大な内戦です。これが戊辰戦争(ぼしんせんそう)です。京都の「鳥羽・伏見の戦い」から始まり、江戸城の無血開城、東北地方での激戦、そして北海道の「箱館戦争」まで、約1年半にわたって日本全国を巻き込みました。この戦いで新政府軍が勝利したことで、約260年続いた江戸幕府は完全に滅亡し、天皇を中心とする近代的な明治時代が本格的にスタートする歴史の最大の転換点となりました。
1868年
1月3日
1868年に京都の南で起こった、旧幕府軍と新政府軍による戊辰戦争の最初の激突です。兵力では旧幕府軍が約1万5千人と圧倒していましたが、薩摩藩・長州藩を中心とする新政府軍の最新兵器の前に大苦戦。さらに、天皇の軍隊であることを示す錦の御旗(にしきのみはた)が掲げられると、旧幕府軍は「朝敵(天皇の敵)」になることを恐れて総崩れとなりました。総大将の徳川慶喜が戦場から逃亡したことで新政府軍の勝利が決定し、日本の近代化を決める本格的な内戦が幕を開けました。
1868年
3月14日
1868年、戊辰戦争のさなか、新政府軍による江戸総攻撃の直前に、旧幕府軍の勝海舟と新政府軍の西郷隆盛が会談を行い、戦うことなく江戸城を明け渡した歴史的事件です。総攻撃が実行されれば、100万人が住む大都市・江戸は火の海になり、諸外国の介入を招いて日本が植民地になる恐れがありました。しかし、山岡鉄舟の命がけの交渉や、天璋院(篤姫)らの嘆願、そして勝と西郷という二人の英傑の決断により、奇跡的に江戸城無血開城が実現しました。日本の首都が戦火から守られ、近代国家へとスムーズに移行するための歴史の決定的な分岐点となった出来事です。
1868年
5月
1868年、戊辰戦争(ぼしんせんそう)の中で起こった、新政府軍と会津藩(福島県)による悲劇的な激戦です。これを会津戦争(あいづせんそう)と呼びます。かつて京都の治安維持を任され、薩摩藩や長州藩を厳しく取り締まっていた会津藩は、新政府軍から「幕府側の最大の敵」として強烈な恨みを買っていました。最新兵器を持つ新政府軍の大軍勢に囲まれた会津藩は、お年寄りから女性、そして10代の少年たち(白虎隊)までもが命がけで戦う悲惨な総力戦を繰り広げますが、約1ヶ月の籠城戦の末に降伏しました。
1868年
5月
1868年、戊辰戦争のさなか、新政府軍の横暴な振る舞いに反発した東北地方(奥羽)と新潟(越後)の全31藩が、孤立した会津藩などを救うために結成した巨大な軍事同盟です。これを奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)と呼びます。彼らは仙台藩と米沢藩を中心に団結し、新政府軍に真っ向から立ち向かいました。しかし、新政府軍の最新兵器や同盟内部の裏切りによって次々と敗北し、数ヶ月で崩壊してしまいます。東北地方が焦土と化す悲惨な会津戦争へと繋がる、内戦の激化を決定づけた歴史の重要な分岐点です。
1868年
7月17日
江戸から東京へ改称
行事
1868年
8月19日
榎本武揚、旧幕府の軍艦など8隻を率いて、品川から江戸湾を脱出する。
行事
1868年
9月8日
1868年(慶応4年)9月8日、新政府が江戸時代から続く混乱を断ち切り、新しい国づくりを進めるために元号を「明治」へと改めた出来事です。これまで天皇一代の間に何度も変わっていた元号を、天皇一人につき一つとする一世一元の制(いっせいいちげんのせい)が定められました。新しい元号は明治天皇自身が神前でのくじ引きで決めたという裏話もあります。この改元により、名実ともに武士の時代が終わり、天皇を中心とする日本の近代国家への歩みが本格的に始まる歴史の決定的な契機となりました。
1868年
12月
榎本武揚ら旧幕府軍は箱館を占領して五稜郭を本営とする。
事件
1868年
12月17日
1868年、江戸城の無血開城に納得しない旧幕府海軍副総裁・榎本武揚(えのもとたけあき)らが、北海道(蝦夷地)を占領して樹立した独立政権です。通称蝦夷共和国(えぞきょうわこく)と呼ばれます。日本史上初となる「選挙」で榎本が総裁となり、新選組の土方歳三らも加わって、五稜郭(ごりょうかく)を拠点に新しい国づくりを目指しました。しかし、翌年に新政府軍の猛攻を受けて降伏し、約1年半続いた戊辰戦争(箱館戦争)が完全に終結する歴史の重要な転換点となりました。
1869年
宮古湾海戦(岩手県宮古市宮古港)
合戦
1869年
松前の戦い(北海道松前郡松前町)
合戦
1869年
二股口の戦い(蝦夷地)
合戦
1869年
木古内の戦い(北海道上磯郡木古内町)
合戦
1869年
会田・麻績騒動(信濃国・筑摩郡)
運動
1869年
ばんどり騒動(越中国、現:富山県)
運動
1869年
5月
戊辰戦争 終結
行事
新政府軍は雪解けの季節を待ち、5月に旧幕府軍のいる箱館へ総攻撃を開始する。これにより、榎本武揚らは降伏する。
1870年
庚午事変(淡路国・徳島藩)
合戦
1870年
松代騒動(信濃国・松代藩)
運動
1870年
中野騒動(信濃国・中野県)
運動
1871年
解放令反対一揆(西日本)
運動
1873年
血税一揆(西日本)
運動
1873年
美作騒擾(岡山県北部)
合戦
1873年
会見血税一揆(鳥取県会見郡)
運動
1873年
西讃竹槍騒動(香川県西部)
運動
1873年
筑前竹槍一揆(福岡県)
運動
1874年
佐賀城の戦い(佐賀県佐賀市佐賀城)
合戦
1874年
朝日山の戦い(佐賀県鳥栖市村田町朝日山)
合戦
1874年
寒津川の戦い(寒津川)
合戦
1874年
田手川の戦い(田手川)
合戦
1874年
三瀬の戦い(佐賀県三瀬村)
合戦
1874年
境原の戦い(佐賀県神埼市千代田町境原)
合戦
1874年
2月1日
1874年、明治政府のやり方に不満を持つ不平士族(元武士)たちが佐賀県で起こした反乱です。政府を辞めて地元に帰っていた江藤新平(えとうしんぺい)をリーダーとして挙兵しましたが、大久保利通(おおくぼとしみち)が率いる政府の近代的な軍隊によってわずか1ヶ月ほどで鎮圧されました。この佐賀の乱は、この後全国で次々と起こる士族反乱(しぞくはんらん)の連続ドミノの最初の1枚目となる重要な事件です。
1874年
5月
1874年、明治政府が台湾南部に軍隊を派遣した、日本にとって近代初の海外派兵です。数年前に起きた「宮古島島民遭難事件」(琉球の人々が台湾で殺害された事件)の報復と、国内で爆発寸前だった不平士族(ふへいしぞく)の不満を外へそらす目的がありました。清国(中国)から賠償金を引き出すことに成功し、琉球(沖縄)が日本の領土であると国際的に認めさせる大きな足がかりとなり、のちの琉球処分へと繋がる歴史の重要なドミノの1枚です。
1875年
9月20日
1875年、日本が朝鮮(現在の韓国・北朝鮮)の沿岸にわざと軍艦を近づけて挑発し、武力衝突を引き起こした事件です。鎖国を続けていた朝鮮に対し、日本はアメリカのペリーが日本にやったのと同じ「大砲の脅し(砲艦外交)」を使って無理やり国を開かせようとしました。この事件を口実に、翌年、朝鮮にとって非常に不平等な日朝修好条規(にっちょうしゅうこうじょうき)を結ばせることに成功し、日本の本格的な大陸進出が始まる特大ドミノとなりました。
1876年
神風連の乱(熊本県熊本市)
合戦
1876年
伊勢暴動(愛知県、岐阜県、三重県、堺県)
合戦
1876年
10月27日
1876年(明治9年)、福岡県の秋月(現在の朝倉市)で起きた武士たちによる反乱です。明治政府が打ち出した「刀の禁止(廃刀令)」や「給料の停止(秩禄処分)」に激怒した不平士族(ふへいしぞく)が、熊本県で起きた「神風連の乱」に呼応して挙兵しました。しかし、近代的な兵器を持つ政府軍にわずか数日で鎮圧されてしまいます。この事件は、翌年の西南戦争へと続く全国的な士族反乱(しぞくはんらん)の連鎖を示す重要な歴史のドミノの一つです。
1876年
10月28日
1876年(明治9年)、山口県の萩で起きた武士たちによる反乱です。明治維新の立役者であり、政府の元トップエリートだった前原一誠(まえばらいっせい)が、政府の急激な近代化政策に不満を持つ不平士族(ふへいしぞく)を率いて挙兵しました。「神風連の乱」や「秋月の乱」に続く一連の士族反乱の一つですが、かつての仲間である政府軍の近代兵器の前にわずか数日で鎮圧されてしまいます。この事件は、翌年の日本最後の内戦である西南戦争へと繋がる歴史のドミノの重要な1枚です。
1877年
熊本城攻防戦(熊本県・熊本城)
合戦
1877年
植木の戦い(熊本県植木町)
合戦
1877年
木葉の戦い(熊本県木葉町)
合戦
1877年
高瀬の戦い(熊本県高瀬町)
合戦
1877年
田原坂の戦い(熊本県田原坂)
合戦
1877年
植木・木留の戦い(熊本県植木、木留)
合戦
1877年
小川の戦い(熊本県小川)
合戦
1877年
松橋の戦い(熊本県松橋)
合戦
1877年
城東会戦(熊本県城東)
合戦
1877年
人吉攻防戦(熊本県人吉)
合戦
1877年
大口の戦い(鹿児島県大口)
合戦
1877年
紫原の戦い(鹿児島県紫原)
合戦
1877年
豊後の戦い(宮崎県豊後)
合戦
1877年
茶屋の辻の戦い(大分県竹田市)
合戦
1877年
野尻の戦い(宮崎県野尻)
合戦
1877年
米良の戦い(宮崎県米良)
合戦
1877年
宮崎の戦い(宮崎県宮崎市)
合戦
1877年
美々津の戦い(宮崎県美々津)
合戦
1877年
和田越の戦い(宮崎県)
合戦
1877年
可愛岳の戦い(鹿児島県可愛岳)
合戦
1877年
城山籠城戦(鹿児島県城山)
合戦
1877年
1月
1877年(明治10年)、かつて明治維新の最大の功労者であった西郷隆盛を指導者として、鹿児島県(薩摩)の士族(元武士)たちが新政府に対して起こした日本最後の内戦です。特権を奪われて不満を爆発させた士族たちが大軍を率いて決起しましたが、徴兵制によって集められた新政府の近代的な軍隊の前に敗北し、西郷は自刃しました。この戦いにより、武力で政府を倒すことは不可能だと悟った人々は、言論で政治を変えようとする自由民権運動へと戦い方をシフトしていく、歴史の決定的な転換点となりました。
1884年
秩父事件(埼玉県秩父郡)
合戦
1913年
11月22日
江戸幕府15代将軍・徳川家茂 死去
死去