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文保の和談(両統迭立の合意) ぶんぽうのわだん(りょうとうてつりつのごうい) 政治 ☆ 重要

🕒 1317年 🐎 鎌倉時代
📍 場所: 京都府 京都 👤 関連: 後宇多上皇,伏見上皇
1317年、天皇の位(皇位)をめぐって激しく対立していた持明院統大覚寺統の二つの血筋に対し、鎌倉幕府が仲裁に入って成立した和解案です。承久の乱以降、天皇の決定権を握っていた幕府は、面倒な皇位継承問題に深く関わることを嫌い、両方の家から「交代で天皇を出す」という両統迭立(りょうとうてつりつ)のルールを提案しました。しかし、この曖昧な合意は結果的に両派の不満をさらに募らせ、のちの後醍醐天皇による倒幕運動と南北朝時代という長い動乱の時代を引き起こす歴史の決定的な契機となりました。
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後嵯峨天皇の曖昧な遺言

鎌倉時代の中頃、朝廷では皇室が真っ二つに割れる大問題が起きていました。原因は、後嵯峨天皇(ごさがてんのう)が亡くなる際、二人の息子のどちらの血筋を次の天皇の正統な跡継ぎにするか、はっきりとした遺言を残さなかったことです。彼は兄の後深草天皇(ごふかくさてんのう)を冷遇し、弟の亀山天皇(かめやまてんのう)を溺愛していましたが、最終的な判断を、なんと朝廷の敵であったはずの鎌倉幕府に丸投げしてしまったのです。
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持明院統と大覚寺統の激突

遺言がなかったことで、兄の血筋である持明院統(じみょういんとう)と、弟の血筋である大覚寺統(だいかくじとう)という二つのグループが、天皇の位(皇位)と広大な皇室の領地をめぐって血みどろの争いを始めました。「我々こそが正統な天皇の血筋だ!」。両者は激しくいがみ合い、京都の朝廷は機能不全に陥ります。そして、どちらが次の天皇になるかを決めてもらうため、双方がこぞって鎌倉幕府に泣きつくという異常事態となりました。
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幕府の苦悩と「両統迭立」の提案

承久の乱に勝利して以来、鎌倉幕府は天皇を決める事実上の決定権を握っていました。しかし、幕府の本音は「朝廷の泥沼の身内争いになんて、巻き込まれたくない」というものでした。どちらか一方に味方すれば、必ずもう一方から強い恨みを買うからです。そこで幕府は、面倒なトラブルを避けるため、「それなら両方の家から、交代で順番に天皇を出せばいいじゃないか」という折衷案を提案しました。これを両統迭立(りょうとうてつりつ)と呼びます。
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1317年、文保の和談の成立

幕府の提案を受け、1317年(文保元年)に京都で両派による話し合いが行われました。これが歴史のテストに出る文保の和談(ぶんぽうのわだん)です。当時の大覚寺統のトップである後宇多上皇と、持明院統のトップである伏見上皇は、幕府からの強い圧力もあり、表面上はこの「交代で天皇になる」というルールに渋々合意しました。とりあえずの和解が成立し、これで朝廷の混乱は収まるかのように見えました。
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納得できない両派の不満

しかし、この「交代制」というルールは、結局どちらのグループにとっても不満の残るものでした。自分が天皇になっても、次の代には必ずライバルの家に天皇の位が奪われてしまうからです。「やはり我々の血筋だけで皇位を独占したい」。両統迭立は根本的な問題の解決にはなっておらず、むしろお互いの疑心暗鬼と憎しみをさらに深くする結果を招いてしまったのです。
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後醍醐天皇の即位と強い野心

文保の和談の翌年、大覚寺統から新しい天皇が即位しました。のちに鎌倉幕府を滅ぼすことになる後醍醐天皇(ごだいごてんのう)です。彼は非常にプライドが高く、「交代制のルールなど馬鹿げている。私の血筋(大覚寺統)だけで永遠に天皇の位を受け継いでいくのだ」という強烈な野心を抱いていました。彼は、この交代制という面倒なルールを押し付けてきた鎌倉幕府そのものを、激しく憎むようになります。
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倒幕計画「正中の変・元弘の乱」

後醍醐天皇は、幕府の干渉を排除して自分だけの絶対的な権力を手に入れるため、密かに倒幕の計画を練り始めました。1324年の正中の変(しょうちゅうのへん)、1331年の元弘の乱(げんこうのらん)と、二度にわたって幕府を倒そうとクーデターを起こしますが、どちらも事前に計画が漏れて失敗してしまいます。激怒した幕府は、後醍醐天皇を捕らえ、遠く離れた隠岐(島根県)へと島流しにしてしまいました。
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幕府による天皇のすげ替え

後醍醐天皇を島流しにした幕府は、文保の和談の「交代制」のルールに従い、ライバルである持明院統から光厳天皇(こうごんてんのう)を新しい天皇として即位させました。天皇という国のトップを、武士の都合で勝手にすげ替えるという強引な幕府のやり方は、後醍醐天皇への同情と、幕府の横暴に対する全国の武士や悪党たちの強い反発を招くことになりました。
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鎌倉幕府の滅亡と二人の天皇

隠岐から脱出した後醍醐天皇の呼びかけに応じ、足利尊氏や新田義貞らの武士が立ち上がり、1333年についに鎌倉幕府は滅亡しました。しかし、後醍醐天皇は「私が唯一の正統な天皇である」と主張し、持明院統の光厳天皇を認めませんでした。この後醍醐天皇の強引な態度は、やがて彼に反発する武士たちを味方につけた足利尊氏との激しい対立を生み出します。
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南北朝時代への突入

足利尊氏は、後醍醐天皇を京都から追い出し、持明院統から新しい天皇を立てて室町幕府を開きました。一方、吉野(奈良県)へ逃げた後醍醐天皇(大覚寺統)も「自分こそが本当の天皇だ」と主張し続けました。こうして日本に「北の天皇(持明院統)」と「南の天皇(大覚寺統)」が同時に存在する南北朝時代という約60年にも及ぶ大内乱が始まります。文保の和談による曖昧な「交代制」の合意は、日本の歴史を真っ二つに引き裂く決定的な契機となってしまったのです。
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