1864年末、第一次長州征伐で幕府に降伏した長州藩では、幕府に従う保守派が実権を握っていました。これに危機感を抱いた高杉晋作(たかすぎしんさく)は、わずか80人の仲間と共に功山寺で挙兵しました。この捨て身のクーデターは見事に成功し、再び倒幕派が藩の主導権を握ることになりました。この政権交代に激怒した江戸幕府は、長州藩を完全に叩き潰すため、再び全国の大名に動員をかけました。これが第二次長州征伐へと繋がる歴史の転換点となったのです。
再度の討伐命令を出した幕府でしたが、今回は最初から大きな誤算が生じていました。長州藩はひそかに、土佐藩の坂本龍馬(さかもとりょうま)らの仲介によって、ライバル関係にあった薩摩藩と秘密裏に薩長同盟(さっちょうどうめい)を結んでいたのです。薩摩藩のリーダーである西郷隆盛は、幕府からの出兵要請を「大義名分のない戦いには参加しない」ときっぱり拒否しました。これにより幕府側の包囲網は崩れ、長州藩は孤立無援のどん底から脱出することに成功したのです。
薩長同盟の最大の恩恵は、武器の調達でした。鎖国体制下の日本で、朝敵となった長州藩は外国から最新の武器を直接買うことができませんでした。そこで、薩摩藩の名義を借りて、イギリスから最新式のミニエー銃や軍艦を大量に買い付けたのです。この裏工作を全面的にサポートしたのが坂本龍馬でした。幕府軍が旧式の火縄銃や槍を中心に戦う準備を進める中、長州藩は世界最新鋭のテクノロジーを装備した近代軍隊へと生まれ変わっていました。
長州軍の総指揮を任されたのは、天才的な軍事学者である大村益次郎(おおむらますじろう)でした。彼は身分制度に囚われず、農民や町人からなる奇兵隊(きへいたい)などの諸隊に最新のライフル銃を持たせ、徹底的な近代戦術を叩き込みました。さらに、従来の派手な武士の鎧兜を廃止し、動きやすい黒い衣服を採用しました。大村の無駄を省いた徹底的な合理主義により、わずか3500人の長州軍は、15万人の幕府大軍を迎え撃つ最強の軍隊となったのです。
1866年6月、ついに幕府軍が長州藩の四方の国境(四境)から一斉に攻め込み、「四境戦争」が勃発しました。最初の激突となった周防大島(山口県)では、圧倒的な数の幕府軍に一時占領されます。しかし、夜闇に乗じて軍艦から猛烈な砲撃を仕掛けた高杉晋作の天才的な奇襲戦術により、幕府軍は大混乱に陥って敗走しました。この緒戦の勝利は、長州藩の士気を大いに高め、近代兵器の凄まじい威力を幕府側に見せつける決定的な契機となったのです。
現在の広島県との国境にあたる芸州口や、島根県との国境である石州口の戦いでは、大村益次郎の指揮が冴え渡りました。大村は地形を巧みに利用し、最新のミニエー銃の圧倒的な射程距離と連射性能を生かして、遠距離から幕府軍を次々と狙撃しました。近づくことすらできずに次々と倒れていく味方の惨状を見て、守護大名たちの旧式軍隊は恐怖に陥り、戦意を完全に喪失して敗走しました。大村の近代戦術が、圧倒的な兵力差を完全に覆したのです。
九州の玄関口である小倉口(福岡県)では、長州藩の軍艦と幕府側の小倉藩などの軍勢が激しい海戦と陸上戦を繰り広げました。ここでも長州軍の圧倒的な火力が光り、小倉城を包囲して幕府軍を追い詰めます。幕府側は必死に防戦を試みますが、最新の洋式戦術に全く太斗打ちできません。この小倉口での勝利により、長州藩の優勢は完全に決定的なものとなり、数だけの幕府軍では近代化された少数の軍隊に絶対に勝てないという事実が証明されました。
長州軍の圧倒的な強さの前に、前線の幕府軍が次々と敗退を続ける中、大坂城で総指揮を執っていた第14代将軍・徳川家茂(とくがわいえもち)が、1866年7月にわずか21歳で急死するという大悲劇が起こります。家茂は過酷なストレスと脚気の悪化により命を落としたと言われています。心の支えであった将軍を失った幕府軍の士気は完全に崩壊し、前線の各大名たちは「もはや戦う意味はない」と、次々と勝手に自分の領国へ退却し始めました。
将軍の急死により、これ以上の戦争継続は不可能となった幕府は、和平交渉の全権を勝海舟(かつかいしゅう)に託しました。勝は宮島(広島県)に向かい、長州藩の代表と会談を行います。勝は「これ以上の無駄な流血は避けるべきだ」と語り、実質的に幕府の敗北を認める形で休戦を成立させました。勝の命がけの外交交渉によって幕府軍の全線撤兵が決定し、約3ヶ月に及んだ激しい戦争は、長州藩の完全な勝利という形でついに終結したのです。
第二次長州征伐における幕府の惨敗は、日本全国に凄ましき衝撃を与えました。15万の大軍がわずか数千の地方藩に打ち破られたことで、江戸幕府の軍事的な無能さと権威の失墜が完全に証明されたのです。この歴史の分岐点となった大勝利により、時代は一気に「倒幕」へと加速していきました。自信を深めた長州藩と薩摩藩は、これ以降、武力による新政府樹立の動きを本格化させ、翌年の大政奉還や明治維新へと繋がる決定的な契機となったのです。