飛鳥時代の日本には、同盟国であった百済(くだら)から、外交の証(人質)として二人の王子が滞在していました。兄の豊璋(ほうしょう)と、弟の善光(ぜんこう)です。しかし660年、唐と新羅の巨大な連合軍によって祖国・百済が突然滅亡してしまいます。遠く離れた日本で故郷の消滅を知った二人の王子は、深い悲しみと絶望に突き落とされました。
国を奪われた百済の生き残りの家臣たちは、激しい復興運動を起こし、日本に対して「豊璋王子を新しい王として帰国させ、援軍を送ってほしい」と要請します。662年、兄の豊璋は日本の大軍と共に、祖国を取り戻す決死の戦いへと旅立ちました。しかし、弟の善光は何らかの理由で兄に同行せず、そのまま日本に残ることになったのです。
翌663年、朝鮮半島の白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)で、日本・百済の連合軍は唐の巨大な水軍の前に壊滅的な大敗北を喫しました。復興の夢は完全に絶たれ、百済は二度と立ち上がれないほど完全に滅亡してしまいます。新しい王として戦った兄の豊璋も行方不明となり、日本に残っていた善光は、愛する家族と祖国を永遠に失ってしまいました。
帰るべき国も、頼るべき家族も失った善光は、まさに天涯孤独の身となりました。唐に捕まれば命はありません。彼は過酷な運命を受け入れ、亡命者としてこの日本で骨を埋めるという重い決断を下します。かつては華やかな外交使節として来日した誇り高き王子が、二度と故郷の土を踏むことができない悲劇の亡命王子となってしまったのです。
この孤独な王子に救いの手を差し伸べたのが、のちの天智天皇(てんじてんのう:中大兄皇子)でした。天智天皇は、共に唐と戦って血を流した百済への強い同情と連帯感を持っていました。彼は善光たち百済の難民を見捨てることなく、日本の国家として彼らを手厚く保護し、当時の政治や交通の重要な拠点であった難波(現在の大阪府)に彼らの住む場所を与えました。
さらに朝廷は、善光に対して「百済王(くだらのこにきし)」という、極めて特別で名誉ある名字(氏姓)を与えました。「こにきし」とは古代の朝鮮語で「王」を意味します。国は滅びても、彼が由緒正しき百済の王族であることを日本政府が公式に認め、日本の貴族と同じように高い身分を保障したのです。こうして日本に「百済王氏」という新しい一族が誕生しました。
難波の地(現在の大阪府枚方市や交野市周辺)には、善光を慕って多くの百済難民たちが集まりました。彼らはこの地に百済王神社(くだらおうじんじゃ)や立派なお寺を建て、祖国の神仏を祀りながら新しい生活を切り拓いていきます。善光は彼らの精神的なリーダーとして、異国の地で百済の文化と誇りを失わずに生きていくための大きな支えとなりました。
日本が彼らを保護したのには、現実的な理由もありました。百済の人々は、大陸の進んだ土木技術や建築、法律、医学などの最先端の知識を持っていたからです。天智天皇は彼らの持つ優秀な頭脳をフル活用して、水城や山城などの防衛施設を築き、天皇を中心とした強力な律令国家を作るための力としました。彼らは日本の国家大改造に欠かせない最強のブレーンだったのです。
善光の子孫たち(百済王氏)は、その後も朝廷で大活躍します。奈良時代には、ひ孫にあたる百済王敬福(きょうふく)という人物が、陸奥国(東北地方)の長官として赴任中に日本で初めて「黄金」を発見しました。この大量の黄金が、聖武天皇が進めていた東大寺の大仏建立の大きな助けとなり、百済王氏は天皇から絶大な信頼と感謝を受けることになります。
百済王氏の血脈は、日本の歴史の奥深くまで溶け込んでいきました。のちに平安京を開く桓武天皇(かんむてんのう)の母親である高野新笠(たかののにいがさ)は、百済の武寧王の子孫にあたる女性です。つまり、祖国を失って日本へ亡命した悲劇の王子の血は、途絶えることなく日本の皇室や貴族の中に深く受け継がれ、新しい時代を築く歴史の決定的な分岐点となったのです。