1787年、老中に就任した松平定信(まつだいらさだのぶ)は、崩壊しかけていた幕府を立て直すため寛政の改革(かんせいのかいかく)をスタートさせました。前の田沼意次の時代は、商業が発展した一方で賄賂(わいろ)が横行し、武士の道徳観や風紀が著しく乱れていました。「このままでは武士の魂が腐ってしまう」。強い危機感を抱いた定信は、政治や経済のルールだけでなく、人々の「心」や「学問」のあり方まで厳しく正そうと決意したのです。
定信が目をつけたのが、江戸幕府が古くから理想の学問としてきた朱子学(しゅしがく)でした。朱子学は「君主には忠義を尽くし、親には孝行せよ」という、身分の上下関係や社会の秩序を非常に重んじる儒学の一派です。「武士が朱子学の教えをしっかり学べば、幕府に忠誠を誓う真面目な役人が育つはずだ」。定信は、乱れた世の中の秩序を取り戻すための最強の特効薬として、この朱子学を幕府の「正学(公式な学問)」として保護しようと考えました。
しかし当時の世の中では、朱子学以外のさまざまな学問(異学)が流行していました。例えば、行動や実践を重んじる「陽明学(ようめいがく)」や、昔の古典を自由に解釈する「古学(こがく)」などです。これらは個人の考え方を大切にする魅力的な学問でしたが、定信の目には「勝手な解釈をして身分制度や幕府の秩序を揺るがす危険な思想」に映りました。国家を一つにまとめるためには、こうした多様な思想を排除する必要があったのです。
1790年(寛政2年)、松平定信は歴史のテストに頻出する寛政異学の禁(かんせいいがくのきん)を発布しました。これは、幕府の公式な学校である江戸の湯島聖堂(ゆしませいどう)において、「朱子学以外の学問(異学)を教えることを絶対に禁じる」という厳しい命令です。学問の自由を奪うようなこの政策は、幕府に仕える役人たちに対し、「出世したければ、幕府が認めた正しい学問だけを学びなさい」と強烈なメッセージを突きつけるものでした。
この禁令と同時に、定信は湯島聖堂の組織を大改造しました。林家という学者の家が個人的に運営していた私塾を、幕府が直接管理する公式な国立学校へと格上げしたのです。これがのちに「昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ)」と呼ばれるエリート官僚の育成機関です。幕府の全面的なバックアップのもと、全国から優秀な武士たちが集められ、彼らは幕府の望む通りに朱子学をみっちりと叩き込まれることになりました。
新しく生まれ変わった学問所を盛り上げるため、定信は全国から最高レベルの朱子学者たちを教授としてスカウトしました。柴野栗山(しばのりつざん)、岡田寒泉(おかだかんせん)、尾藤二洲(びとうじしゅう)といった実力者たちです。彼らは「寛政の三博士」と呼ばれ、厳格な朱子学の教えを熱心に指導しました(のちに古賀精里も加わります)。身分にとらわれず、実力のある学者を教壇に立たせたことで、学問所のレベルは飛躍的に向上しました。
もちろん、異学を学んでいた学者たちからは「学問の自由を奪うな!」と強い反発の声が上がりました。朱子学だけを正しいとする幕府のやり方は、多くの知識人にとって息苦しいものだったのです。しかし、幕府の絶対的な権力と定信の強硬な姿勢の前に、異学の学者たちは次第に表舞台から姿を消すか、あるいは自分の考えを隠して朱子学に従うふりをするしかありませんでした。江戸の思想界は、定信の思惑通りに徐々に朱子学一色へと染まっていきました。
幕府の強烈な方針転換は、江戸の町だけでなく日本全国の諸大名にも大きな影響を与えました。多くの大名が幕府の顔色をうかがい、「自分の藩の学校(藩校)でも、朱子学以外を教えるのはやめよう」と右へ倣えでルールを変えていったのです。こうして寛政異学の禁の影響は全国の武士階級に波及し、日本中の教育現場で「朱子学=絶対的な正義」という思想統制が、恐ろしいほどのスピードで進んでいくことになりました。
定信はさらに、「学問吟味(がくもんぎんみ)」という幕府公認の厳しい試験制度をスタートさせました。これは現代の国家公務員試験のようなもので、朱子学の試験で優秀な成績を収めれば、身分が低い武士でも幕府の重要な役職に出世できるチャンスが与えられました。「真面目に学べば報われる」。この実力主義の導入によって、武士たちは競うように学問所に通い、朱子学を必死に勉強するようになり、幕府の狙い通りに有能な官僚が次々と育っていきました。
寛政異学の禁は、学問の自由を制限したという負の側面もありますが、バラバラになりかけていた武士たちの道徳観を統一し、幕府の権力を再び強化したという点で大きな成功を収めました。一方で、医学や天文学といった実用的な「蘭学(らんがく)」の制限はしなかったため、日本の科学技術はひそかに発展を続けます。思想を統制して秩序を守ろうとしたこの政策は、江戸幕府が幕末の動乱を乗り切るためのエリート集団を生み出す、歴史の決定的な契機となったのです。