飛鳥時代より前の日本(ヤマト王権)では、政治を行う役人の地位は「氏姓制度(しせいせいど)」というルールで決められていました。これは、どの「家柄」に生まれたかによって、一生の身分も仕事も最初から決まっているというものです。親が偉ければ子供も自動的に偉くなり、親の身分が低ければどんなに天才でも出世できない、完全な世襲(せしゅう)のシステムでした。そのため、能力のない豪族が威張っていることも多かったのです。
推古天皇をサポートして政治を行っていた若き天才・聖徳太子は、この状況に頭を抱えていました。「家柄だけで偉くなった無能な豪族たちが勝手なことばかりしている。これでは国がバラバラになって、超大国の中国(隋)に攻め込まれてしまうかもしれない!」。そこで太子は、「家柄なんて関係ない!才能があって一生懸命働く人間をどんどん出世させる新しいルールを作ろう!」と、画期的な大改革を決意しました。
603年、太子は冠位十二階という新しい制度を発表します。役人のランクを上から順に「大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智」の12段階に分けました。そして、それぞれのランクに合わせて、紫、青、赤、黄、白、黒の濃淡(濃い・薄い)で色分けしたシルクの冠(帽子)を与えたのです。一番エラい人は「濃い紫」、一番下の人は「薄い黒」といった具合に、誰がどのレベルの役人なのかが色で一目で分かる仕組みでした。
この制度の最大のポイントは、冠が「一族」ではなく「個人の才能や手柄」に対して与えられたことです。つまり、どんなに身分が低い家に生まれても、中国語がペラペラだったり、政治の才能があったり、戦いで活躍したりすれば、天皇から直接高いランクの冠をもらって大出世することが可能になったのです。また、この冠は一代限りで、子供には受け継がれませんでした。実力次第で夢を掴める、飛鳥時代の「アメリカンドリーム」のような制度でした。
この実力主義のシステムによって、身分はそれほど高くなかったけれど才能にあふれた人物が大抜擢されました。その代表が小野妹子(おののいもこ)です。彼は語学や交渉の才能を認められ、大国・隋(中国)との命がけの外交交渉を行う遣隋使(けんずいし)のリーダーに選ばれました。もし昔の「家柄ルール」のままだったら、妹子のような優秀な人材が歴史の表舞台に立つことは絶対に無かったでしょう。
聖徳太子がこの制度を作った本当の狙いは、「すべての権力を天皇のもとに集めること」でした。冠(役人の地位)を与える権限を天皇が独占することで、「あなたが偉いのは、あなたの家柄のおかげではなく、天皇から冠をもらったからです」ということを豪族たちに強く思い知らせたのです。翌年に作られた十七条の憲法とセットで、日本の政治を「豪族の寄り合い」から「天皇中心の国家」へと劇的に進化させた、歴史の大きなターニングポイントとなりました。