1782年から1787年にかけて日本を襲った、江戸時代で最大かつ最悪の飢饉(極端な食料不足)です。異常気象や浅間山などの歴史的な大噴火が重なり、全国的に農作物が全く育たなくなりました。特に東北地方の被害は凄まじく、餓死や疫病で数十万人もの人々が命を落としました。この地獄のような状況下で、幕府のトップだった田沼意次(たぬまおきつぐ)の政治への不満が爆発し、全国で激しい打ちこわし(暴動)が発生。田沼の失脚と、次の寛政の改革へと繋がる歴史の特大ドミノとなりました。
江戸時代の1780年代、地球規模の異常気象が起きていました。夏になっても全く気温が上がらず、冷たい雨が降り続く「冷害」が日本列島を襲います。さらに追い打ちをかけるように、1783年に岩木山(青森県)や浅間山(あさまやま:群馬県・長野県)が歴史的な大噴火を起こしました!空は火山灰で真っ暗に覆われ、太陽の光が遮られてさらに気温が下がるという、農作物にとって最悪の自然災害コンボが発生してしまったのです。
太陽の光と温かさがなければ、主食であるお米は育ちません。特に寒冷な気候の東北地方(現在の青森県など)では、農作物が壊滅的な被害を受けました。田んぼは枯れ果ててしまい、食べるものが完全に底をついた人々は、雑草や木の根、さらには牛や馬まで食べて飢えをしのごうとしました。しかしそれも尽き果てると、疫病も流行して何十万人もの人々がバタバタと餓死していく、まさに地獄絵図のような凄惨な状況に陥ってしまったのです。
当時、江戸幕府のトップで政治を動かしていたのは田沼意次(たぬまおきつぐ)でした。彼は「農業」よりも「商業(お金)」を重視する斬新な政治を行っていましたが、農民にお米以外の換金作物(売ってお金になる綿花やタバコなど)を作ることを奨励していました。そのため、いざという時の「お米の蓄え(備蓄)」が極端に少なくなっていたのです。その結果、政府は全国的な食料不足に全く対応できず、被害をさらに拡大させてしまいました。
大飢饉の発生によって、お米の値段は普段の何倍にも異常に跳ね上がりました。すると、一部のズル賢い商人たちが「今お米を隠し持っておけば、もっと値段が上がって大儲けできるぞ!」と考え、お米の買い占め(売り惜しみ)を行ったのです。これにより地方の農村だけでなく、大都会である江戸や大坂でも庶民はお米が買えなくなり、餓死する人が続出しました。「俺たちがこんなに苦しいのに、金持ちだけが得をするなんて絶対に許せない!」と、人々の怒りは頂点に達します。
ついに怒りと飢えの限界を超えた庶民たちは、1787年、お米を隠し持っている悪徳商人やお金持ちの家をターゲットにして一斉に大暴れします。これを打ちこわしと呼びます。大都会・江戸をはじめ、大坂や全国の主要な都市で数万規模の人々が暴動を起こし、家屋は破壊され町は大パニックになりました。幕府の警察力だけではこの大群衆を到底抑えきることができず、約260年続く江戸時代の歴史の中でも、最大級の恐ろしい社会不安が日本全土を覆い尽くしたのです。
この未曾有の大混乱の責任を激しく追及され、長年絶対的な権力を握っていた田沼意次は、ついに政治の舞台から引きずり下ろされました(失脚)。彼に代わって幕府のトップに立ったのが、非常にマジメで厳しい性格の松平定信(まつだいらさだのぶ)です。定信は「二度とこんな飢饉を起こしてなるものか!」と、農村の立て直しや各地にお米の備蓄庫(社倉など)を作る寛政の改革(かんせいの改革)をスタートさせます。天災が国の政治を根本からひっくり返した特大ドミノでした。