1607年、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)によって断絶していた日本と朝鮮の国交が回復し、江戸幕府に対して初めて朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし)が来日した歴史的な出来事です。国交回復を強く望む徳川家康の命を受け、対馬藩の宗氏(そううじ)が国書の偽造という危険な外交交渉の末に実現させました。当初の目的は捕虜の返還でしたが、やがて将軍の代替わりを祝う平和の使節へと役割を変えます。以降約200年間で11回派遣され、両国の平和と文化交流を支えた歴史の決定的な転換点です。
豊臣秀吉が起こした「文禄・慶長の役」により、日本と朝鮮半島の関係は最悪の事態に陥っていました。秀吉の死によって日本軍は撤退しましたが、朝鮮半島は戦火で激しく荒廃し、多くの人々が日本に捕虜として連れ去られました。朝鮮の人々は日本に対して激しい怒りと深い憎しみを抱いており、両国の国交は完全に断絶してしまったのです。この絶望的なマイナスからのスタートが、江戸時代の新しい外交の最初の大きな壁となりました。
新しく江戸幕府を開いた徳川家康は、この最悪な関係を修復したいと強く願っていました。家康自身は秀吉の朝鮮出兵に軍隊を出しておらず、「自分は朝鮮と戦う意志はなかった」とアピールできる立場にありました。家康が国交回復を急いだ理由は、東アジアにおける日本の国際的な信用を取り戻すことと、朝鮮を通じて中国(明)との貿易を再開させ、幕府の経済力をさらに強大にするという非常に現実的な狙いがあったためです。
家康から「朝鮮との国交を回復せよ」という超難題を命じられたのが、朝鮮半島と九州の間にある対馬(長崎県)を治める宗氏(そううじ)でした。当時の対馬の殿様である宗義智(そうよしとし)は必死でした。なぜなら、山ばかりで米が育たない対馬にとって、朝鮮との貿易の利益こそが生き残るための唯一の命綱だったからです。対馬藩の存亡を懸けた、不可能に近いギリギリの外交交渉がここからスタートすることになります。
宗義智は何度も朝鮮へ使者を送り、「家康様は平和を望んでいます」と訴えました。しかし、朝鮮側の怒りは凄まじく「平和を望むなら、先に日本から正式な謝罪の手紙(国書)を出し、朝鮮の王族のお墓を荒らした犯人を引き渡せ!」と非常に厳しい条件を突きつけてきました。しかし、日本のトップに立った将軍・家康に「頭を下げて謝罪の手紙を書いてください」などと頼めるはずもなく、交渉は完全に暗礁に乗り上げてしまいます。
追い詰められた対馬藩の宗氏は、なんと「将軍・家康からの謝罪の手紙を自分たちで勝手に偽造する」という、バレれば死刑確定の恐ろしい大タブー(国書偽造)に手を染めてしまいます。さらに、お墓を荒らした犯人として、対馬の別の罪人を「こいつらが犯人です」と偽って朝鮮側に引き渡したのです。この命がけの嘘とギリギリの綱渡りによって、朝鮮側も「そこまで言うなら」と、ついに日本への使節団の派遣を承諾しました。
1607年、ついに朝鮮からの使節団が日本に到着しました。これが第1回目の朝鮮通信使です(当時は「回答兼刷還使」と呼ばれました)。彼らの最大の目的は、秀吉の出兵の時に日本に連れ去られていた約3000人もの朝鮮人捕虜を無事に連れ帰ることでした。使節団は江戸へ向かう道中、日本各地で過酷な生活を送る捕虜たちを探し出し、涙ながらに祖国へと連れ帰りました。両国の深い傷を癒やすための極めて重要な旅でした。
使節団は江戸城で第2代将軍・徳川秀忠に謁見し、さらに駿府城(静岡県)で引退した徳川家康とも会見を行いました。国書が対馬藩によって偽造されたものであることは、実は家康たちも薄々感づいていたという説もありますが、幕府はあえてこれを黙認しました。「平和と国交回復」という両国の最大の目的を優先させたのです。こうして、秀吉の時代から続いた憎しみの連鎖は断ち切られ、正式に両国間の平和な外交関係が復活しました。
初期の使節団は捕虜の返還が目的でしたが、関係が安定してくるとその意味合いが大きく変わっていきます。4回目の派遣からは、日本の新しい将軍が就任した際にお祝いの言葉を伝えるための、平和と友好の使節団となりました。この頃から正式に「朝鮮通信使」と呼ばれるようになります。「通信」とは「信(まこと)を通わす」という意味であり、お互いに嘘をつかず信頼し合うという、美しい善隣友好の理念が込められていました。
朝鮮通信使は、約400〜500人もの大行列で日本を横断する超巨大な国家イベントでした。 彼らは朝鮮の最先端の学問や芸術を持つエリート集団であり、行列が通る道沿いには、異国の華やかな衣装や音楽を一目見ようと日本中の庶民が熱狂して見物に訪れました。日本の学者や武士たちも宿屋に押し寄せ、筆談(漢字を書いて会話すること)で詩や学問の交流を深め、日本の文化レベルを大きく押し上げました。
家康の平和への願いと対馬藩の命がけの努力から始まった朝鮮通信使は、その後1811年まで約200年間にもわたって全11回派遣されました。いわゆる「鎖国」の時代において、日本が正式な国交を結んでいたのは朝鮮と琉球(沖縄)だけです。この使節団の存在は、日本と朝鮮が武力ではなく文化と信頼で結ばれていた平和な時代の象徴であり、江戸時代の安定した国際関係を築き上げた歴史の決定的な契機となったのです。