平安時代の中期、関東地方(今の千葉県あたり)に平将門(たいらのまさかど)という武将がいました。彼は「平氏(たいらし)」という元々は天皇の血を引く超エリート家系の出身ですが、京都の都での出世レースに敗れ、地元に帰って農業や開拓をしていました。とても強くて部下思いだったため、地元の農民たちからは「頼れる兄貴」としてカリスマ的な人気を誇っていました。
乱のきっかけは、京都から帰ってきた将門と、地元の親戚たち(おじ達)との間の領地争いという「身内のケンカ」でした。ケンカに勝った将門でしたが、さらに大きな問題に巻き込まれます。当時、京都から派遣されてきた国司(知事のような役人)は、税金を搾り取るだけの悪い奴らばかりでした。「国司にいじめられているから助けて!」と頼られた将門は、ついにブチギレて常陸国(茨城県)の国府(役所)を軍隊で襲撃し、国司を追い出してしまったのです。
「国の役所を襲う」というのは、完全な天皇への反逆行為です。もう後戻りできないと悟った将門は、関東の他の国府も次々と襲撃して占領。そして939年、ついに自らを「新皇(しんのう:新しい天皇)」と名乗り、「京都の天皇の支配を離れて、この関東地方を武士の力で独立した国にする!」という、日本の歴史上誰もやったことのない前代未聞の独立宣言をしました。
将門が新皇を名乗ったというニュースを聞いて、京都の貴族たちは「恐ろしい武士が関東から攻めてくる!」と大パニックに陥りました。さらに悪いことに、ほぼ同時期に瀬戸内海でも藤原純友(ふじわらのすみとも)が海賊を率いて大反乱を起こしていました(藤原純友の乱)。東西から挟み撃ちにされる危機を感じた朝廷は、「将門の首を取った者は、特別に貴族(身分の高い役人)にしてやる!」という異例の大号令を出して、全国の武士たちに討伐を命じました。
朝廷の号令に応えて立ち上がったのが、将門に恨みを持つ親戚の平貞盛(たいらのさだもり)と、関東の強力な武将である藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の連合軍でした。940年、両軍は激突します。最初は将門軍が押し気味でしたが、急に風向きが変わり、将門軍の目に強い風と砂が吹き付けました。その一瞬の隙を突かれ、飛んできた一本の矢が将門の額(ひたい)に命中。無敵を誇ったカリスマ武将は落馬し、あっけない最期を遂げました。
将門の乱は失敗に終わりましたが、この事件は歴史に巨大なドミノを倒しました。「反乱を起こしたのも武士、それを鎮圧したのも武士」。つまり、京都の貴族たちは「もう自分たちの力では国を守れない。強い武士に頼るしかない」と完全に思い知らされたのです。ここから、単なるガードマンだった「武士」が、日本を動かす主役の座へと猛スピードで駆け上がっていくことになります。