一ノ谷、屋島の戦いで天才戦術家・源義経に連敗した平氏は、ついに本州の西の果てである長門国(山口県)の彦島まで追い詰められました。後がない平氏は、総大将の平宗盛(たいらのむねもり)や平知盛(たいらのとももり)を中心に、源氏の軍勢を海上で迎え撃つ決意を固めます。瀬戸内海を長年支配してきた平氏にとって、波の荒い関門海峡での「海戦」は、一発逆転を狙うために残された最後の勝機でもありました。
平氏の軍勢は軍船に乗り慣れた海のプロフェッショナルであり、潮の流れを熟知していました。一方の源氏軍は、関東地方からやって来た「馬に乗って陸地で戦う」ことを得意とする武士ばかりで、船酔いする者も多く海での戦いには不慣れでした。さらに船の数でも平氏軍が源氏軍を大きく上回っており、平氏の兵士たちは「海の上なら絶対に源氏の田舎侍には負けない」と強い自信を持っていたのです。しかし義経はこの不利な状況を、あっと驚く作戦で覆します。
1185年3月24日、両軍の巨大な船団が関門海峡の壇ノ浦(だんのうら)で激突し、ついに源平合戦の最終決戦の火蓋が切られました。戦いの序盤、激しい潮の流れは源氏に向かって流れており、平氏軍はこの潮流に乗って矢の雨を降らせ、源氏の船団を猛烈に攻め立てます。潮の勢いに押し戻された源氏軍は防戦一方となり、総司令官の義経も自ら弓を引いて最前線で必死に戦いますが、平氏軍の圧倒的な優勢のまま時間が過ぎていきました。
苦境に立たされた源義経は、ここで当時の武士の常識を覆す非情な命令を下します。「敵の船を漕いでいる水手(かこ)と舵取りを狙って射殺せ!」。当時の戦では、武器を持たない非戦闘員である船の漕ぎ手を攻撃することは暗黙のルール違反(マナー違反)とされていました。しかし、勝つためなら手段を選ばない義経の容赦のない攻撃によって漕ぎ手を失った平氏の船は、次々とコントロールを失い、海上で身動きが取れなくなっていきました。
午後になると、関門海峡の激しい潮の流れがパタリと止まり、やがて逆方向(平氏に向かう方向)へと流れ始めました。この「潮目の変化」により、今度は源氏軍が潮流に乗って猛反撃を開始します。さらに不運なことに、これまで平氏の味方であった水軍の将(阿波重能)が源氏に寝返り、平氏の作戦や天皇の乗る船の場所をすべて義経に密告してしまうという裏切りが発生しました。誇り高き平氏の軍団は、ここから一気に崩壊へと向かいます。
船の操作を奪われ、味方であった水軍の裏切りにも遭った平氏軍は、完全に逃げ場を失い総崩れとなりました。平氏の事実上の総司令官であった平知盛は、もはや絶対的な負け戦であることを悟ると、天皇の乗る船に自ら乗り込み「見苦しいものはすべて海に捨てよ。これからは東国の荒々しい男たちの顔を見ることになるぞ」と船内を掃除させました。武士としての運命を受け入れた知盛の、壮絶な最期への覚悟の言葉でした。船内には絶望の泣き声が響き渡ります。
敗北を悟った平清盛の妻・二位尼(にいのあま)は、まだ数え年で8歳の幼い安徳天皇(あんとくてんのう)を抱きかかえ、天皇の証である三種の神器(剣と勾玉)を身につけました。何もわからない天皇が「私をどこへ連れて行くのか」と尋ねると、二位尼は涙をこらえ「波の下にも、極楽浄土という立派な都がございますよ」と優しく慰め、暗く冷たい海へと身を投げたのです。源平合戦の中で最も悲しく、そして残酷な瞬間でした。
天皇の入水を見た平氏の武将たちも、次々と海へ飛び込みました。平知盛は、敵に生け捕りにされる恥辱を避けるため、非常に重い船の錨(いかり)を体にくくりつけて海へ沈みました。総大将の平宗盛は泳いでいるところを源氏に生け捕りにされます。「平家にあらずんば人にあらず」とまで言われ、日本の頂点で華やかな栄華を極めた平家一門は、こうして壇ノ浦の戦いで海の底へと消え去り、歴史の舞台から完全に滅亡したのです。
治承・寿永の乱に完全勝利した源氏でしたが、問題も残りました。海に沈んだ三種の神器のうち、鏡と勾玉は回収されましたが、宝剣(草薙剣)だけは永遠に海の底に失われてしまったのです。また、義経の大活躍は兄・源頼朝の強い嫉妬と警戒を招くことになります。頼朝の許可なく朝廷から勝手に役職をもらった義経は激しく対立し、やがて追討の対象として奥州平泉へと逃れ、悲劇的な死へと追い詰められていくことになります。
1180年から約5年間続いた治承・寿永の乱の終結は、単なる源氏と平氏の争いの終わりではありません。平氏という巨大な壁を倒し、西日本の勢力も抑え込んだ源頼朝が、名実ともに日本全国の武士の頂点に立ったことを意味します。この戦いの圧倒的な勝利を背景に、頼朝は武士による本格的な独自の政府である鎌倉幕府の基盤を確立させていきました。天皇と貴族の時代から武士の時代へと移り変わる、歴史の決定的な分岐点となったのです。