平安時代に最澄が開いた比叡山(ひえいざん)の延暦寺は、日本の仏教の最高峰として絶大な権威を誇っていました。しかし戦国時代になると、彼らは「僧兵(そうへい)」と呼ばれる武装した僧侶の軍隊を持ち、政治や経済にも深く口出しするようになります。天皇や大名でさえも手出しができない「神聖な独立国」のような存在であり、時には自分たちの要求を通すために武力を行使する、非常に厄介な巨大勢力となっていたのです。
1570年、天下統一を進める織田信長に対し、強大な危機感を抱いた大名たちが手を組みました。これが歴史のテストに出る信長包囲網(のぶながほういもう)です。特に、義弟であった浅井長政(あざいながまさ)の裏切りは信長を激怒させました。長政は同盟国である朝倉義景(あさくらよしかげ)と共に信長に牙を剥き、近江国(現在の滋賀県)を舞台に、織田軍との間で激しい攻防戦を繰り広げ、信長を幾度も絶体絶命のピンチへと追い詰めていくことになります。
信長軍の猛攻を受けた浅井・朝倉の連合軍は、不利を悟ると、すぐ近くにあった比叡山へと逃げ込みました。比叡山は「仏様のいる聖地」であるため、いくら信長でも絶対に攻撃してこないだろうと計算したのです。延暦寺の僧侶たちも、信長に反発していたため、彼らを喜んで山にかくまいました。こうして、神聖な修行の場であるはずの比叡山は、信長に敵対する大名たちの巨大な軍事基地へと変貌してしまったのです。
敵を目の前にして手出しができない織田信長は、延暦寺に対して何度も最後通牒(警告)を送りました。「浅井と朝倉の味方をするのをやめ、織田側につけ。それが無理なら、せめて中立を保て。もしこれに従わないなら、根本中堂(こんぽんちゅうどう)をはじめとする比叡山の全てを焼き払うぞ」。しかし、自らの絶対的な権威を過信していた延暦寺の僧侶たちは、信長の警告を鼻で笑い、完全に無視し続けたのです。
「神仏を恐れぬつもりか!」。信長の強硬な決断に対し、明智光秀などの重臣たちでさえ「比叡山を焼けば、仏罰が下り世間の反感を買います」と必死に止めようとしました。しかし信長の意志は揺るぎません。「僧侶のくせに肉を食い、女を囲い、武器を持って戦をする者たちのどこが仏の使いか。真に国を乱しているのはあいつらだ」。信長は中世の古い権威や迷信を打ち破るため、自ら「仏の敵」となる覚悟を決めたのです。
1571年(元亀2年)9月12日、ついに運命の時が訪れます。数万の織田軍が比叡山の麓をぐるりと包囲し、逃げ道を完全に塞ぎました。そして信長の「焼き払え!」という非情な号令のもと、兵士たちは山に向かって一斉に火を放ちながら攻め上っていきました。秋の乾燥した空気と強風に煽られ、火の手は瞬く間に山全体へと広がり、何百年も守られてきた仏教の聖地は、あっという間に炎の海に飲み込まれていきました。
炎は、比叡山の最も重要な建物である根本中堂や、数え切れないほどのお堂、貴重な仏像、そして何百年分もの歴史的なお経や書物を次々と灰にしていきました。最澄が開いて以来、約400年にわたって一度も消えることなく燃え続けていた「不滅の法灯(ふめつのほうとう)」も、この時ばかりは無残に消え去ってしまいました。空を焦がすほどの真っ赤な炎は、遠く離れた京都の町からも恐ろしいほどはっきりと見えたといいます。
信長の攻撃は、建物を焼くだけでは終わりませんでした。歴史のテストでも必ず問われる比叡山焼き討ちの最も凄惨な側面は、徹底した殺戮(さつりく)です。逃げ惑う僧侶たちはもちろんのこと、山に避難していた女性や子供までもが容赦なく斬り殺されるか、燃え盛る炎の中に投げ込まれました。数千人もの命が奪われたこの冷酷な行動は、「信長に逆らう者は神仏であってもこうなる」という全国への強烈な見せしめでした。
この前代未聞の大事件は、日本中を恐怖とパニックに陥れました。朝廷の公家たちは日記に「仏法が滅びてしまった」と絶望を書き残し、武田信玄などのライバル大名たちも、信長を「神仏を恐れぬ第六天魔王(だいろくてんまおう)」と呼んで激しく非難しました。しかし信長は世間の批判など一切気に留めず、焼け野原になった比叡山の領地を没収し、家臣の明智光秀らに分け与えて、近江の支配をさらに強固なものにしていきました。
比叡山焼き討ちは、単なる残虐な軍事行動ではありません。「宗教勢力が武力を持って政治に介入する」という中世特有の歪んだシステムを、物理的な力で完全に破壊した歴史の決定的な転換点なのです。これ以降、強大な力を持っていた他の寺社勢力(本願寺など)も次々と信長に屈していくことになります。神仏の権威から政治を切り離し、武士が強力に国を統治する近代的な国家へと向かう、歴史の重要な分岐点となりました。