672年の壬申の乱(じんしんのらん)という古代最大の内乱に勝利し、天皇の座に就いた天武天皇。彼は、邪魔な対抗馬を自らの武力で倒したため、誰からも口出しされない絶対的な権力を手に入れました。これまでの日本は有力な豪族たちが話し合って政治を決めていましたが、天武天皇は「天皇が中心となって、すべてのルールを決める強い国」を作ろうと決意します。そのための大改革の第一歩が、身分制度の作り直しでした。
当時の日本には「氏姓制度(しせいせいど)」という古い身分ルールがありました。豪族たちは「臣(おみ)」や「連(むらじ)」といった、先祖代々受け継いできた「姓(かばね:地位を表す称号)」を誇りにしていました。しかし、天武天皇から見れば、古い家柄だけで威張っている豪族は、新しい天皇中心の国づくりにおいて非常に邪魔な存在でした。天皇の権威を高めるには、この身分の順番をガラリと変える必要があったのです。
684年、天武天皇は全く新しい8つの身分ランクを発表します。これがテストで必ず出る八色の姓(やくさのかばね)です。上から順に、真人(まひと)、朝臣(あそみ)、宿禰(すくね)、忌寸(いみき)、道師(みちのし)、臣(おみ)、連(むらじ)、稲置(いなぎ)という8段階に分けられました。これまでトップだった「臣」と「連」は、なんと6番目と7番目にまで大きく格下げされてしまったのです。
最も高い第1ランクの「真人(まひと)」を与えられたのは、天皇に近い親戚(皇族)たちでした。「最も偉いのは天皇の血筋である」と日本中に強烈にアピールしたのです。かつて天皇を脅かした蘇我氏のような巨大な豪族が二度と現れないよう、皇族の地位を絶対的なものにする狙いがありました。政治の重要な役職も、この「真人」の身分を持つ皇族たちによって独占される「皇親政治(こうしんせいじ)」が強化されます。
第2ランクの「朝臣(あそみ)」と第3ランクの「宿禰(すくね)」を与えられたのは、中臣氏(のちの藤原氏)や大伴氏といった、壬申の乱で天武天皇に味方して命がけで戦った忠実な家臣たちでした。古い家柄に関係なく、「天皇のために頑張った者が偉くなる」という実力主義の新しいルールを見せつけたのです。高いランクの姓をもらった豪族たちは大喜びし、ますます天皇のために忠誠を誓うようになりました。
一方で、悲惨だったのは新しいランクをもらえなかった古い名門豪族たちです。今まで威張っていた「臣」や「連」は、新ルールでは下から数えたほうが早い低い身分になってしまいました。彼らは政治の中心から完全に追い出され、天皇に逆らう力を持たないただの地方の役人へと転落していきます。天武天皇は刀を一度も抜くことなく、法律と身分制度の力だけで、邪魔な勢力を無力化することに見事成功したのです。
新しい身分制度によって天皇の権威は頂点に達しました。天武天皇は、ただの政治のトップではなく「現人神(あきつみかみ:人間の姿をしてこの世に現れた神様)」と呼ばれるようになります。誰の意見にも左右されず、神のように絶対的な命令を下せる存在となったのです。八色の姓は、天皇が神格化され、日本という国家の絶対的な君主として君臨するための、非常に巧妙で強力な政治的装置(システム)でした。
身分制度の改革と並行して、天武天皇は国の歴史をまとめる大事業もスタートさせています。それが、のちに完成する『古事記』と『日本書紀』の編纂(へんさん)です。天皇が神様の子孫であることを日本の正式な歴史として書き残すことで、八色の姓による「天皇中心の身分制度」が正しいことの証明書を作ろうとしたのです。法律と歴史書、両方の力を使って、天皇の支配を永遠のものにしようと計画しました。
この八色の姓の制定は、日本が「豪族の寄り合い所」から、しっかりとした法律と身分制度で国を治める「律令国家(りつりょうこっか)」へと生まれ変わるための重要なステップでした。天皇が新しい身分(姓)を自由に与える権力を握ったことで、すべての豪族は「天皇の家臣(官僚)」へと完全に組み込まれます。天武天皇が目指した中央集権体制(天皇に権力を集中させる仕組み)の基礎が、ここにしっかりと固まりました。
天武天皇はこの制度を定めた2年後に亡くなりますが、彼の目指した「天皇中心の国づくり」は、妻である持統天皇へと見事に受け継がれました。やがて大宝律令が完成し、平城京へと都が移る奈良時代には、この八色の姓で上位にランク付けされた「朝臣(あそみ)」などの貴族たちが、日本の政治を動かしていくことになります。古代の官僚制度の形を作り上げた、歴史の決定的な端緒を開いた出来事なのです。