1867年12月9日、薩摩藩や朝廷の岩倉具視らがクーデターを起こし、天皇を中心とする新しい政府の誕生を宣言した超重要イベントです。これが王政復古の大号令です。直前に大政奉還が行われましたが、実は幕府の組織はまだ残っており、徳川慶喜は引き続きトップに立とうと狙っていました。その徳川家の野望を完全に叩き潰すため、「江戸幕府を廃止する!将軍という役職もなくす!」と宣言し、約700年続いた武士の政治に完全にトドメを刺した「歴史の特大ドミノ」。明治新政府の絶対的なスタート地点です。
徳川慶喜が大政奉還を行って政権を天皇に返したことで、武力で幕府を倒そうとしていた薩摩藩や長州藩は攻撃の口実を失いました。慶喜は「天皇の下で開かれる新しい会議でも、最大勢力である徳川家が結局リーダーになるはずだ」と高度な計算をしていました。このままでは何一つ変わらず、幕府の形を変えただけの「徳川政権」が続いてしまう!倒幕派の武士たちは強い焦りと危機感を抱いていました。
徳川家を完全に政治の表舞台から排除したい西郷隆盛や大久保利通ら薩摩藩と、朝廷内の過激派である岩倉具視(いわくらともみ)は密かに手を結びます。彼らは「もはや平和的な会議や話し合いでは、徳川の息の根は止められない。力ずくで天皇中心の新政府を立ち上げ、徳川を追い出すしかない!」と決意。武力を使ったクーデター(非合法な政変)の準備を極秘裏かつ急ピッチで進めました。
1867年12月9日、薩摩藩や土佐藩などの軍隊が、天皇がいる京都の御所(ごしょ)の9つの門を突然封鎖しました。そして親幕府派の貴族たちを力ずくで締め出した上で、天皇の権威を最大限に利用して王政復古の大号令(おうせいふっこのだいごうれい)を一方的に宣言!これは「天皇中心の昔の政治に戻す」という意味であり、実質的な明治新政府の誕生宣言という超ド級の歴史的瞬間でした。
この宣言の最大の目的は、ただ新政府を作ることではなく「徳川家の権力を完全に剥ぎ取る」ことでした。「これまで260年続いた江戸幕府を廃止する!将軍という役職も今すぐなくす!」と高らかに宣言。これにより、大政奉還の後もシステムとして残っていた幕府の組織は完全に消滅し、1185年の源頼朝から約700年続いた「武士による政治体制」が名実ともに終わりを告げました。
その日の夜、天皇の御前で小御所会議(こごしょかいぎ)という歴史的な会議が開かれました。議題はただ一つ、「徳川慶喜をどう処分するか」です。土佐藩の山内容堂らが慶喜を必死にかばいましたが、岩倉具視や大久保利通が強気に押し切り、「慶喜の領地をすべて没収し、官職も辞めさせる」という超厳しい処分(辞官納地)を強行決定。慶喜を完全に丸裸にする容赦ない仕打ちでした。
「自ら政権を返してやったのに、領地まで全部奪うなんてふざけるな!」と旧幕府の武士たちは大激怒します。慶喜は争いを避けるため一旦大坂城へ退きましたが、薩摩藩が江戸の町で挑発行為(放火や略奪)を繰り返したため、ついに「薩摩を討つ!」とブチ切れて京都へ進軍。こうして日本を二分する内戦・鳥羽・伏見の戦いから始まる戊辰戦争へと、歴史のドミノは一気に倒れていくのです。
王政復古の大号令は、単なる紙切れの宣言ではありません。「誰が日本の新しいトップなのか」を武力と政治的プレッシャーで強制的に上書きした、歴史の巨大な転換点です。ここから明治維新と呼ばれる、欧米に追いつくための急激な近代化が本格的にスタートします。大政奉還で揺らいだ旧時代に完全にトドメを刺し、新しい時代を確定させた「テスト絶対出る」最重要のターニングポイントです。