室町幕府が開かれた当初、政治の仕組みは非常に特殊でした。軍事と恩賞の決定権を持つ初代将軍の足利尊氏(あしかがたかうじ)と、実際の裁判や政治の運営を行う弟の足利直義(あしかがただよし)による「二頭政治」が行われていたのです。最初はうまくいっていた兄弟ですが、武功を重視する尊氏側の武将たちと、法律や秩序を重んじる直義側の官僚たちの間で、次第に意見の食い違いが生じ、幕府内部に亀裂が入り始めました。
直義の最大の政敵となったのが、尊氏の執事(側近)として軍事を取り仕切っていた高師直(こうのもろなお)です。師直は、戦いに勝つためなら古い権威や天皇のルールさえも無視する超・革新的な武将でした。「天皇なんて木彫りの人形でいい」と豪語する師直の強引なやり方は、伝統的な秩序を重んじるマジメな直義にとって絶対に許せないものでした。二人の水面下の対立は、やがて幕府を揺るがす巨大な火種となっていきます。
1349年、直義はついに師直を排除するため、尊氏に直訴して師直の執事職を辞めさせることに成功します。しかし、軍事力を持つ師直が黙っているはずがありません。師直はすぐさま大軍を率いて、京都の直義の屋敷を包囲する逆クーデターを起こしました。武力で圧倒された直義は完全に屈服し、政治の舞台から強制的に引退させられ、出家に追い込まれてしまいます。これで師直の天下になるかと思われました。
この複雑な対立に火に油を注いだのが、尊氏の隠し子である足利直冬(あしかがただふゆ)の存在でした。尊氏は直冬の母親の身分が低いことを理由に、彼を実の子として一切認めず冷遇していました。これを可哀想に思った直義が直冬を養子として引き取ったのです。直冬は九州で独自の軍事力を持ち、直義派の強力な切り札として台頭していました。尊氏と師直は、この目障りな直冬を討伐するため、自ら大軍を率いて九州へと出陣します。
1350年、尊氏と師直が九州へ向けて京都を離れた隙を突いて、出家していたはずの足利直義が密かに京都から脱出しました。大和国(奈良県)へ逃れた直義は、全国の武士たちに向けて「憎き高師直を討伐せよ!」と激しい命令を発します。直義の真面目な人柄を慕っていた多くの武士たちがこれに呼応して集結し、ついに観応の擾乱(かんのうのじょうらん)と呼ばれる、幕府を真っ二つに割る血みどろの大内乱が勃発したのです。
直義が取った作戦は、当時の常識を覆すものでした。なんと、幕府が長年戦ってきた最大の敵である「南朝」に降伏し、味方についたのです。南朝の権威を利用して正当性を得た直義軍は圧倒的な勢いとなり、慌てて京都へ引き返してきた尊氏・師直の軍勢を、摂津国の打出浜(うちでのはま)で激突し、見事に打ち破りました。敗北した尊氏は、直義の突きつけた講和条件を丸呑みし、高兄弟の出家と追放を約束させられます。
1351年、出家させられた高師直と高師泰の兄弟は、京都へと護送される途中の武庫川のほとりで、直義派の武将の軍勢に待ち伏せされ、一族もろとも無残に惨殺されてしまいました。政敵を完全に排除することに成功した直義は、再び幕府の政治の表舞台への復帰を果たします。しかし、尊氏の最大の側近であった高兄弟を殺したことで、尊氏と直義の兄弟の間には、もはや絶対に修復不可能な深い溝が刻まれました。
直義が復帰したものの、尊氏の息子・足利義詮(あしかがよしあきら)との仲が悪化し、再び幕府内は緊張状態に陥ります。ここで尊氏は恐ろしい策略を仕掛けました。尊氏は直義の味方である大名を討伐すると見せかけて京都を出陣し、なんと自らも敵である「南朝」に降伏したのです!尊氏と義詮に東西から挟み撃ちにされる形となった直義は、命の危険を感じて京都を脱出し、北陸地方を通ってかつての幕府の拠点・鎌倉へと逃げ延びました。
直義を完全に滅ぼすため、足利尊氏は自ら大軍を率いて東海道を突き進みます。そして1351年末、駿河国(静岡県)の薩埵峠(さったとうげ)で両軍が激突しました。この戦いで直義軍は完全に壊滅状態となり、敗れた直義はついに尊氏に降伏します。鎌倉に幽閉された直義は、そのわずか数ヶ月後の1352年2月に突然この世を去りました。病死とも、尊氏による毒殺とも囁かれていますが、真相は今も歴史の闇の中に隠されています。
観応の擾乱は直義の死によって一応の決着を見ましたが、その代償はあまりにも巨大でした。尊氏と直義が交代で南朝に降伏するというプライドを捨てた行動をとったため、消えかけていた南朝の勢力が再び息を吹き返してしまったのです。さらに、全国の武士たちが自分に都合の良い方に寝返りを繰り返したことで、幕府の権威は地に落ちました。この内乱は、南北朝時代という長い動乱の時代をさらに泥沼化させた、歴史の決定的な分岐点なのです。