戦国時代の九州は、薩摩国(現在の鹿児島県)を本拠地とする島津氏が圧倒的な強さを誇っていました。当主の島津義久(しまづよしひさ)と優秀な弟たちは、大友氏や龍造寺氏といった有力な大名を次々と撃破し、九州統一まであと一歩というところまで迫ります。勇敢で戦上手な島津軍の快進撃は誰にも止められないかに見えました。しかし、海を越えた本州では、さらに巨大な権力を持つ男が天下統一へと向かって動いていたのです。
島津軍の猛攻により、ついに本拠地まで追い詰められた豊後国(大分県)の大名・大友宗麟(おおともそうりん)は、プライドを捨てて大坂へ向かいました。彼が助けを求めた相手こそ、すでに関白として日本の中心を支配していた豊臣秀吉です。秀吉は「天皇の代理人」という絶対的な権威を手に入れており、全国の大名に勝手な私戦を禁じる「惣無事令(そうぶじれい)」という命令を出して、武力による領土拡大を固く禁じていました。
秀吉は大友宗麟からのSOSを受け、島津義久に対して「直ちに戦をやめて領地を返還せよ」という強い警告の手紙を送ります。しかし、九州の覇者としてのプライドが高い島津氏は、成り上がりの秀吉からの命令を鼻で笑い、これを無視してしまいました。「遠く離れた大坂から、九州の戦に口出しできるはずがない」。この島津氏の油断と見通しの甘さが、豊臣の大軍を九州へと呼び込む決定的な契機となってしまったのです。
1586年、怒った秀吉はまず四国の大名たち(長宗我部元親や仙石秀久など)を先発隊として九州へ送り込みます。しかし、戸次川(へつぎがわ)の戦いで、島津軍の得意戦法「釣り野伏せ」の罠に見事にはまり、秀吉の先発隊は壊滅的な大敗を喫してしまいました。有能な武将たちが次々と討ち死にし、「やはり島津軍は強すぎる」と日本中に衝撃が走ります。しかし、秀吉の本当の恐ろしさは、ここから発揮されることになります。
1587年、ついに豊臣秀吉本人が、実の弟である豊臣秀長(とよとみひでなが)や、天才軍師の黒田官兵衛(くろだかんべえ)らと共に、総勢20万人を超えるという未曾有の大軍勢を率いて九州へ上陸しました。当時の島津軍が数万人であったのに対し、西日本の大名たちを総動員した秀吉の軍事力は桁違いでした。秀吉は圧倒的な数の暴力と、計算し尽くされた兵糧(食料)の補給作戦で、島津軍をじわじわと追い詰めていきます。
豊臣軍の進行は凄まじく、島津軍は各地で敗退を重ねて本拠地の薩摩へと逃げ帰りました。秀吉の弟・豊臣秀長は、敵を完全に全滅させるのではなく、「降伏すれば命と領地は保証する」という寛大な条件を出して島津氏を精神的にも追い込みます。戦うか、降伏か。絶望的な状況の中で、島津義久は一族の存亡をかけた究極の決断を迫られました。圧倒的な権力と物量の前に、無敵を誇った島津の武士たちもついに刀を置く時が来たのです。
1587年5月、当主の島津義久はついに敗北を認めました。彼は自ら髪を剃って丸坊主(出家)になり、泰平寺というお寺で秀吉にひれ伏して降伏します。九州の覇者が天下人に屈したこの瞬間、秀吉の九州平定が事実上完了しました。秀吉は命を懸けて戦った島津氏の武勇を認め、薩摩などの領地をそのまま彼らに任せるという寛大な処置をとります。力でねじ伏せ、恩で報いる秀吉の巧妙な政治手腕が光る決着でした。
九州を平定した秀吉ですが、現地を視察して驚くべき光景を目にします。長崎などの港町がキリスト教の宣教師(イエズス会)の領地として寄付され、多くの日本人が奴隷として海外へ売られていたのです。また、キリシタン大名たちが神社やお寺を破壊している事実を知り、秀吉は「このままでは日本が外国に乗っ取られてしまう」と強い危機感を抱きました。九州征伐は、日本の国防という新たな問題に直面する歴史の分岐点でもありました。
九州平定の直後である1587年6月、秀吉は突如として歴史のテストに必ず出るバテレン追放令(ばてれんついほうれい)を発布します。「バテレン」とはキリスト教の宣教師のことです。秀吉はキリスト教の布教を禁止し、宣教師たちに20日以内に日本から出て行くよう命じました。同時に、貿易の拠点である長崎を幕府の直轄地(直接支配する土地)として没収します。宗教と貿易を切り離し、外国の脅威から日本を守るための強硬な防衛策でした。
島津氏を降伏させたことで西日本を完全に支配下に置いた豊臣秀吉。残る敵は、関東を支配する巨大な北条氏(ほうじょうし)と、東北の伊達政宗(だてまさむね)らのみとなりました。九州での圧倒的な勝利は、全国の大名たちに「秀吉には絶対に逆らえない」という絶望的なまでの権力の差を見せつける結果となりました。この九州平定は、秀吉が日本の戦国時代を終わらせ、完全なる天下統一を成し遂げるための歴史の決定的な契機となったのです。