幕末の日本は、ペリー来航による開国と不平等条約の締結で大きな混乱と不安に陥っていました。さらに桜田門外の変で大老の井伊直弼が暗殺されると、江戸幕府の権威は地に落ちてしまいます。この絶体絶命の危機を乗り切るため、幕府は朝廷(天皇)の権威を利用しようと考えました。朝廷と幕府が一つにまとまって国難に立ち向かう「公武合体(こうぶがったい)」政策を打ち出し、武士と公家が手を結ぶことで世の中の不満を静めようとしたのです。
公武合体の最大の目玉として幕府が目をつけたのが、政略結婚でした。時の第14代将軍・徳川家茂(とくがわいえもち)の正室(妻)として、孝明天皇(こうめいてんのう)の異母妹である和宮(かずのみや)を迎え入れようと計画したのです。将軍家に天皇の血筋を引く女性を嫁がせることで、「幕府は天皇と親戚であり、天皇から信任されている」と全国に強くアピールし、幕府の権威を完全に取り戻すことが最大の狙いでした。
しかし、この縁談は和宮にとってあまりにも残酷な話でした。なぜなら、彼女にはすでに有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)という心に決めた許婚(婚約者)がいたからです。見知らぬ東国の武士のもとへ嫁ぐなど、京都の雅な世界で育った彼女には到底受け入れられません。和宮は涙を流して何度も結婚を断りましたが、幕府の強引な圧力と、国家の危機を心配する天皇の説得を前に、個人の幸せは完全に押し潰されてしまいました。
外国嫌いで知られる孝明天皇も、最初は妹を関東の野蛮な武士に嫁がせることに大反対でした。しかし、幕府から「和宮様が降嫁(こうか:皇族が臣下に嫁ぐこと)してくだされば、幕府は必ず条約を破棄して外国人を追い払います」という約束(攘夷の誓約)を引き出します。天皇は「日本から外国人を追い出せるなら」と苦渋の決断を下し、和宮もついに「国のため、兄のため」と涙ながらに運命を受け入れたのです。
1861年(文久元年)10月、和宮は京都を出発して江戸へと向かいました。この大行列は想像を絶する規模で、護衛の武士や荷物持ちなどを含めるとなんと数万人に達し、行列の長さは50キロメートルにも及んだと言われています。沿道の宿場町は大パニックとなり、幕府の威信をかけた超特大の引っ越しプロジェクトとなりました。しかし、和宮の胸中は、二度と故郷の京都に戻れないかもしれないという深い悲しみでいっぱいでした。
江戸城に入った和宮を待っていたのは、生活習慣や文化の激しい衝突でした。朝廷の優雅なルール(御所風)を貫こうとする和宮側と、武家の厳しいルール(武家風)を守らせようとする将軍の母・本寿院や大奥の女性たちとの間で、激しい嫁姑の対立や派閥争いが起きたのです。着物の着方から言葉遣いに至るまで、全てが異なる二つの世界が同じ屋根の下で暮らすことは、想像以上のストレスと摩擦を生み出しました。
周囲が対立する中、唯一の救いとなったのが、夫である徳川家茂の存在でした。家茂は非常に優しく誠実な青年で、京都から一人でやってきた和宮の寂しさを思いやり、彼女を深く愛しました。政略結婚で無理やり結ばれた二人でしたが、家茂の優しさに触れるうちに和宮も心を開き、二人の間には本当の深い愛情が芽生えていきます。対立していた大奥の中でも、仲睦まじい若い夫婦の姿は微笑ましく、和やかな空気を生み出しました。
一方で、この結婚は世間に全く別の火種をばらまいていました。天皇を尊び外国を打ち払おうとする尊王攘夷(そんのうじょうい)派の志士たちは、「幕府が自分の権力を守るために、無理やり天皇の妹を人質として奪い取った!」と激怒したのです。公武合体によって世の中を静めようとした幕府の計算は完全に外れ、かえって幕府への反発を過激化させてしまい、各地でテロや暗殺が頻発する恐ろしい事態を引き起こしました。
二人の幸せな結婚生活は長くは続きませんでした。1866年、長州征伐のために大坂城へ出陣していた家茂が、わずか21歳の若さで病死してしまったのです。江戸で夫の帰りを待っていた和宮のもとに届けられたのは、家茂が彼女のために京都で買った西陣織の美しい着物でした。和宮は愛する夫の形見を抱きしめ、涙が枯れるまで泣き崩れたと伝えられています。わずか4年で未亡人となった和宮は、落飾(出家)して静寛院宮と名乗りました。
やがて江戸幕府は崩壊し、官軍が江戸城へ総攻撃を仕掛けるという最大の危機(戊辰戦争)が訪れます。この時、かつての許婚であった有栖川宮熾仁親王が官軍の総大将として迫っていました。和宮は「徳川家をどうか助けてほしい」と必死の手紙を書き、天皇側へと命がけの嘆願を行いました。彼女の必死の努力は江戸城無血開城の実現に大きく貢献しました。和宮降嫁は、幕府を救おうとした結果として倒幕を招きましたが、最後は徳川の命脈を救う歴史の決定的な契機となったのです。