15世紀に統一された琉球王国(現在の沖縄県)は、中国(明)や日本、東南アジアを結ぶ「中継貿易」の拠点として莫大な富を築き、独自の華やかな文化を花開かせていました。当時の琉球は中国の皇帝の家来になる「冊封(さくほう)」という関係を結んでおり、巨大な帝国である中国から特別な保護を受けながら、平和に栄えていた独立国だったのです。
しかし、豊臣秀吉の時代から暗雲が漂い始めます。秀吉が朝鮮へ攻め込む際、薩摩(鹿児島県)の島津氏を通じて琉球にも軍隊や物資を出すよう命令が来ました。しかし、親分である中国と戦うことになるため、琉球はこれを渋々と半分だけ負担する形でごまかしました。これが、日本側から「琉球は言うことを聞かない生意気な国だ」と目をつけられる最初のきっかけになります。
江戸幕府を開いた徳川家康は、明(中国)との途絶えていた貿易を復活させるため、琉球をパイプ役として利用しようと考えました。家康は島津氏を通じて「将軍就任のお祝い(謝恩使)に挨拶に来なさい」と琉球に強く要求します。しかし、明との関係を最優先する琉球の国王・尚寧王(しょうねいおう)は、これを無視し続けました。琉球は日本と中国の板挟みになっていたのです。
琉球に何度も無視されて家康がイライラする中、これを最大のチャンスと見たのが薩摩藩の殿様・島津家久(しまづいえひさ)です。当時の薩摩藩は、「関ヶ原の戦い」で西軍について敗れた後の深刻な財政難に苦しんでいました。「もし琉球を武力で支配して貿易の利益を独り占めできれば、藩の借金は一気に解決する!」。島津氏は家康に、琉球への武力攻撃の許可を強く求めました。
1609年3月、家康の許可を得た島津氏は、約3000人の完全武装した薩摩軍を軍船に乗せて、琉球王国へと攻め込みました(薩摩藩の琉球侵攻)。平和な貿易国であった琉球は十分な軍備を持っておらず、最新式の鉄砲を装備した戦国最強の薩摩軍の前に、奄美大島や沖縄本島の北部は次々とあっけなく制圧されていきました。
薩摩軍は破竹の勢いで琉球の首都へと迫り、国王の住む美しい首里城(しゅりじょう)を完全に包囲しました。国を戦火で灰にされることを恐れた尚寧王は、無駄な抵抗をやめて開城を決意し、ついに薩摩軍に対して降伏を申し出ます。戦国武将たちの容赦ない武力の前に、南の海の独立王国は侵攻開始からわずか1か月足らずで膝を屈することになったのです。
降伏した尚寧王と琉球の役人たちは捕虜として薩摩へ連行され、さらにそこから遠く離れた江戸まで長旅をさせられました。そして江戸城で第2代将軍・徳川秀忠に、駿府城で大御所・家康に面会させられ、「これからは日本の幕府に絶対に従います」と誓わされたのです。独立国の王が他国の将軍に深く頭を下げるという、大変な屈辱を味わうことになりました。
琉球に戻ることを許された尚寧王ですが、薩摩藩から「掟十五ヶ条(おきてじゅうごかじょう)」という厳しいルールを突きつけられました。「中国との貿易はすべて薩摩藩を通すこと」「薩摩藩の許可なく勝手に法律を作ってはいけない」など、琉球の政治と経済の自由を完全に奪うものです。奄美群島も薩摩藩に奪われ、琉球は事実上、薩摩藩の完全な支配下(属国)に置かれました。
しかし、薩摩藩も幕府も琉球という国そのものを完全に消滅させることはしませんでした。なぜなら、琉球が「独立国」のフリをして中国(明やのちの清)と貿易を続けてくれた方が、日本にとって莫大な利益が入ってくるからです。こうして琉球は、「表面上は中国の家来でありながら、裏では日本の薩摩藩に支配されている」という、奇妙な日明両属(にちみんりょうぞく)という二重支配の体制に組み込まれました。
この薩摩藩の琉球侵攻以降、琉球は将軍が代わるたびに「慶賀使(けいがし)」を送り、琉球王が代わるたびに「謝恩使(しゃおんし)」を江戸へ送る義務を負いました。異国の美しい衣装を着た彼らの大行列は、「将軍様の力は外国にまで及んでいる」と日本の庶民にアピールするための最高のパレードとして利用されます。日本の国際秩序(いわゆる「鎖国」体制)が完成していく、歴史の決定的な契機となったのです。