鎌倉幕府を倒した後、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が行った武士を冷遇する政治(建武の新政)に不満が爆発。武士たちのリーダーとなった足利尊氏は天皇に反旗を翻しましたが、一度は敗れて九州へと逃げ延びていました。しかし、九州で武士たちの絶大な支持と協力を集めた尊氏は息を吹き返し、なんと数十万とも言われる超巨大な軍勢を率いて、再び天皇のいる京都を目指して海と陸から猛烈な勢いで攻め上がってきたのです。
天皇側の要であり、かつて鎌倉幕府を倒した立役者でもあるゲリラ戦の天才・楠木正成(くすのきまさしげ)は、迫り来る尊氏のケタ違いの大軍を見て「今、まともに正面からぶつかっても絶対に勝てない」と冷静に分析しました。正成は後醍醐天皇に対し「一度京都を明け渡して山(比叡山)に避難し、尊氏の大軍を京都の町におびき寄せてから、食料の補給路を断って兵糧攻めにしましょう」と、確実に勝利を掴むための現実的な必勝プランを提案します。
しかし、プライドの高い後醍醐天皇やその側近の貴族たちは「天皇が敵を恐れて京都から逃げるなんてカッコ悪い!帝の威信に関わる!」と、正成の完璧な作戦をあっさりと却下し、あくまで正面から堂々と戦うよう命令しました。正成は「この戦い、絶対に負ける。そして私は生きて帰ることはないだろう」と悟りますが、自分を信じて引き立ててくれた天皇への強い忠誠心から決して逆らわず、わずかな手勢だけを率いて死地である湊川(現在の兵庫県神戸市)へと向かったのです。
湊川へ出陣する途中、現在の大阪府(桜井の駅)で、正成はまだ11歳の息子・楠木正行(くすのきまさつら)を呼び寄せ、故郷へ帰るように命じます。「父はおそらく今回の戦いで生きて帰ることはできない。お前は立派に成長して、いつか必ず天皇のために忠義を尽くしてくれ」と涙ながらに遺言を託しました。この親子の悲しい別れ(桜井の別れ)は、命を懸けて主君に尽くす忠誠心の象徴として、戦前の日本の教科書にも載るほど有名な歴史の感動エピソードとして語り継がれています。
1336年5月、湊川で新田義貞(にったよしさだ)と正成の軍は決死の覚悟で奮戦しましたが、足利軍の圧倒的な数の暴力の前に敗北。正成は弟と「七度生まれ変わっても国のために報いたい(七生報国)」と誓い合い、自害しました。邪魔者がいなくなった足利尊氏は京都を制圧して新たな天皇を立て、室町幕府を開きます。一方、逃げた後醍醐天皇は「自分が本物だ!」と吉野(奈良県)に別の朝廷を開き、日本に2人の天皇が存在する南北朝時代という大乱世へ突入しました。