仏教は、紀元前5世紀頃にインドのシャカ(ガウタマ・シッダールタ)によって開かれた宗教です。それがシルクロードを通って中国へと伝わり、さらに朝鮮半島へと広がっていきました。当時の日本は「大和政権」が国を治めており、大陸の進んだ文化や技術を積極的に取り入れようとしていた時代です。仏教もまた、単なる宗教としてではなく、最新の「国の守り方」や「最先端のテクノロジー」を伴うパッケージとして日本に迫ってきていました。
当時の朝鮮半島では、高句麗(こぐりょ)、新羅(しらぎ)、百済(くだら)という3つの国が激しく領土を争っていました。その中で、新羅などの敵国に押されてピンチに陥っていたのが百済です。百済の王である聖明王(せいめいおう)は、「なんとか強い武力を持つ日本の大和政権を味方につけたい!」と必死に考えました。そこで、日本との同盟を強固にするための最高のプレゼントとして選ばれたのが、当時最先端の教えである「仏教」だったのです。
そして538年(諸説あり)、百済の使者が海を渡り、大和政権のトップである欽明天皇(きんめいてんのう)のもとへやってきました。使者は、黄金に輝く美しい釈迦の仏像(金銅の釈迦如来像)や、お経が書かれた巻物、仏具などを献上し、仏教の素晴らしさを天皇に熱く語りました。国から国へと公式なルートで正式に仏教が伝えられたため、これを「仏教公伝(ぶっきょうこうでん)」と呼びます。ここから日本の新しい歴史が動き始めます。
プレゼントとして贈られた仏像を見た欽明天皇や貴族たちは、とてつもない衝撃を受けました。当時の日本人は、山や木、滝などの自然そのものに神様が宿ると信じており(神道)、人間の姿をした神様(仏像)を見たことがなかったからです。ピカピカに輝く仏像のお顔を見た天皇は「なんと素晴らしいお顔なのだ!」と感動しつつも、この全く新しい「外国の神様」を日本の国として受け入れるべきかどうか、大変な悩みを抱えることになります。
悩んだ欽明天皇は、二人の有力な家臣に意見を求めました。一人は、大陸の進んだ文化や技術を管理し、国の財政を担当していた蘇我稲目(そがのいなめ)です。彼は「西の進んだ国々はみんな仏教を信じています。日本だけが信じないわけにはいきません!」と、仏教の受け入れに大賛成しました。蘇我氏は、仏教を取り入れることで大陸の最新技術を独占し、自分たちの政治的なパワーをさらに強くしようという狙いを持っていたのです。
もう一人は、軍事や警察を任され、古くから日本の神々の儀式も担当していた物部尾輿(もののべのおこし)です。彼は「日本の国には、昔からこの国を守ってくださる神々がたくさんいらっしゃいます。それなのに、外国から来た得体の知れない神様を拝めば、昔からの神様が怒って大変なことになります!」と猛反対しました。こうして、仏教を受け入れるかどうかの問題は、蘇我氏と物部氏による激しい権力闘争へと発展していくことになります。
意見が真っ二つに割れたため、欽明天皇は「とりあえず、賛成している蘇我稲目だけが試しに仏像を拝んでみなさい」という妥協案を出しました。喜んだ稲目は、自分の家をお寺にして仏像を大切に拝みました。ところが、その直後に日本で恐ろしい疫病(伝染病)が大流行してしまいます。「それ見たことか!外国の神を拝んだから日本の神が怒ったのだ!」と物部氏は激怒し、天皇の許可を得てお寺を焼き払い、仏像を川(難波の堀江)に投げ捨ててしまいました。
しかし、蘇我氏と物部氏の争いはこれで終わりません。親の世代から始まった対立は、やがて息子である蘇我馬子(そがのうまこ)と物部守屋(もののべのもりや)の世代へと引き継がれ、ついには激しい武力衝突(丁未の乱)にまで発展します。この戦いで蘇我氏が勝利したことで、日本は国を挙げて仏教を保護・振興していく方針を固めました。のちに飛鳥時代に花開く華やかな仏教文化(飛鳥文化)は、この激しい権力闘争の果てに生み出されたものなのです。
ここでテストによく出る重要な裏話があります。「仏教伝来は何年か?」という年号のミステリーです。現在の中学校や高校の教科書では、伝来したのは「538年」だと教えられており、テストでもこれが正解です。「ごみ(538)も燃やした仏教伝来」という語呂合わせが有名ですね。この538年という数字は、聖徳太子の伝記である『上宮聖徳法王帝説』や、奈良県の元興寺というお寺の記録『元興寺縁起』などの歴史史料に基づいて決定されています。
一方で、お父さんやお母さんの世代は「552年(ごみに仏教)」と学校で習いました。なぜなら、日本の公式な歴史書である『日本書紀』には552年に伝わったと書かれているからです。しかし最新の研究で、この552年という年は「仏の教えが衰える悪い時代(末法)のスタートの年」に無理やり合わせた、後からの脚色である可能性が高いと分かったのです。このように、研究によって教科書の記述が変わるのも歴史の面白いところです。