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天保の薪水給与令 てんぽうのしんすいきゅうよれい 政治

🕒 1842年7月
📍 場所: 日本全国の沿岸 👤 関連: 水野忠邦
1842年(天保13年)、江戸幕府が外国船に対する強硬な態度を改め、水や食料を与えて穏便に帰らせるように命じた法令です。それまでの異国船打払令を撤回して発布されました。最大の理由は、隣の大国である清(中国)がアヘン戦争でイギリスに大敗したという衝撃的なニュースです。「今の日本が外国と戦争をすれば確実に滅びる」と危機感を抱いた老中・水野忠邦は、外国との不要なトラブルを避けるために方針を大転換しました。幕末の開国へと向かう日本の対外政策において、歴史の重要な転換点となった出来事です。
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異国船打払令の強硬な時代

江戸幕府は1825年に異国船打払令(いこくせんうちはらいれい)を出し、「日本の海岸に近づく外国船は、理由を問わず大砲で撃ち払え」という非常に強気な鎖国政策をとっていました。当時はヨーロッパの船が日本近海に度々現れてトラブルを起こしていたため、武力で脅して追い返すのが一番だと考えていたのです。この命令により、日本は外国に対して完全に扉を閉ざし、周囲にトゲを向けたハリネズミのような状態になっていました。
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モリソン号事件という悲劇

この強硬な法令が引き起こした悲劇が、1837年のモリソン号事件です。アメリカの商船モリソン号は、海で遭難した日本人の漂流民を助け、故郷へ送り届けるために非武装で善意でやって来ました。しかし、幕府の役人は「外国船はとにかく撃て」という法令に忠実に従い、事情も聞かずに大砲を撃ち込んで追い返してしまったのです。恩を仇で返すようなこの無慈悲な事件は、日本の外交姿勢の異常さを世間に浮き彫りにしました。
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知識人たちの怒りと蛮社の獄

このモリソン号事件の対応に対し、国内の知識人たちから激しい批判が上がります。蘭学者(西洋の学問を学ぶ学者)である渡辺崋山(わたなべかざん)や高野長英らは、「相手の事情も聞かずに撃つのは野蛮すぎる。海外の事情を知らなすぎる」と幕府の無知を嘆きました。しかし、批判を許さない幕府は彼らを逮捕し、厳しい処罰を与えます(蛮社の獄)。幕府は世界の現実から目を背け、強硬な姿勢を崩そうとしませんでした。
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アヘン戦争勃発の衝撃

しかし、そんな幕府の目を覚まさせる大事件が隣の国で起きます。1840年、大国である清(中国)と、世界最強の海軍を誇るイギリスとの間でアヘン戦争が勃発したのです。麻薬であるアヘンの密輸を巡るトラブルから始まったこの戦争ですが、長崎のオランダ商人を通じて「清とイギリスが戦争をしている」というニュースが日本にも入ってきました。幕府の首脳陣は、固唾を飲んでこの前代未聞の大戦争の行方を見守ることになります。
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大国・清の凄惨な敗北

戦争の結果は、日本中を恐怖のどん底に突き落としました。東アジアの超大国であり、日本にとって昔から憧れの存在であった清が、イギリスの近代的な軍艦と強力な大砲の前に手も足も出ずに惨敗したのです。イギリス軍が清の沿岸の都市を次々と破壊していく様子を聞いた幕府の役人たちは、「もしイギリス軍が日本に攻めてきたら、今の日本の武士たちでは到底太刀打ちできない」と、強烈なショックと焦りを感じました。
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オランダ国王からの警告

さらに幕府の焦りを煽ったのが、親交のあったオランダからの警告です。オランダ国王は幕府に対し、「世界は大きく変わっている。今のまま外国船を撃ち払うような乱暴なことをしていれば、日本も清のようにイギリスに滅ぼされてしまうぞ」という内容の親書(手紙)を送り、平和的な開国を強く勧めてきました。信頼するオランダからの忠告は、幕府に「鎖国を守るためには方針を変えなければならない」と痛感させました。
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老中・水野忠邦の危機感

当時、幕府の政治のトップ(老中)に立ち、天保の改革を進めていたのが水野忠邦(みずのただくに)です。彼は財政の立て直しなど国内の改革に必死でしたが、アヘン戦争の敗報を聞いて「このまま異国船打払令を続ければ、外国に戦争の口実を与えてしまう」と深い危機感を抱きました。武士のプライドを守ることよりも、国家が滅亡するリスクを回避するため、忠邦は苦渋の決断として外交方針の大転換を図ります。
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天保の薪水給与令の発布

1842年7月、水野忠邦は異国船打払令を正式に撤回し、新たに天保の薪水給与令(てんぽうのしんすいきゅうよれい)を発布しました。これは「迷い込んできた外国船には、むやみに大砲を撃つのではなく、必要な燃料(薪)や飲料水、食料を与えて、穏便に帰ってもらいなさい」という法令です。17年ぶりに外国への態度を軟化させ、不要な軍事衝突を避けるという、極めて現実的で柔軟な方針へと大きく舵を切ったのです。
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現場の混乱とジレンマ

しかし、この法令は現場の役人たちを大いに悩ませました。幕府の命令は「水や食料は与えろ。だが上陸は絶対にさせるな。言うことを聞かない場合は撃ってもよい」という、非常に曖昧で難しいものだったからです。言葉が通じない屈強な外国人水夫たちを怒らせずに、どうやって水だけを渡して帰ってもらうのか。沿岸の警備を任された武士たちは、いつ戦闘になってもおかしくないギリギリの緊張感の中で、外国船の対応に追われました。
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開国への歴史の端緒

天保の薪水給与令は、日本の鎖国体制を守るためのギリギリの時間稼ぎに過ぎませんでした。外国船に対して武力で対抗することを諦めた幕府の弱腰な姿勢は、欧米列強に「日本は強く出れば要求をのむ」というメッセージを与えてしまいます。この事件は、やがてアメリカのペリー艦隊が武力を背景に開国を迫ってくる未来へと繋がる、日本の対外政策が崩壊していく歴史の決定的な契機、そして幕末の動乱への端緒を開いたのです。
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