事件の発端は、京都にある有名な清水寺(きよみずでら)のトップ(別当)を決める人事トラブルでした。当時、清水寺は奈良の興福寺(南都)のグループに属していましたが、白河法皇はライバルである比叡山の延暦寺(北嶺)出身の仏師(仏像を彫る職人)である円勢を新しいトップに任命してしまったのです。これに激怒したのが、興福寺のお坊さんたちでした。「俺たちの縄張りに、敵対する延暦寺の人間を送り込むとは何事だ!」。
怒り狂った興福寺の僧兵(武器を持った乱暴なお坊さん)たちは、神様が乗る神聖な「神木(しんぼく)」を担ぎ上げ、数千人という大軍勢で奈良から京都の朝廷へと押し寄せました。このように神仏の権威を利用して武力で要求を突きつけるデモ行進を強訴(ごうそ)と呼びます。「要求を飲まないと神の祟りがあるぞ!」。この脅しに震え上がった白河法皇は、あっさりと円勢の任命を取り消し、興福寺の要求を飲んでしまいました。
しかし、話はこれで終わりませんでした。京都にやってきた興福寺の僧兵たちが、あろうことか延暦寺のグループである祇園社(現在の八坂神社)の人々に乱暴を働いてしまったのです。今度は延暦寺の僧兵たちがブチギレました。「やられたらやり返す!」。怒った延暦寺の僧兵たちは山を下りて清水寺に襲いかかり、立派なお堂を次々と破壊してしまったのです。宗教勢力同士のメンツをかけた血みどろの抗争が始まりました。
さらに延暦寺の僧兵たちは神輿(みこし)を担いで朝廷に押し寄せ、「清水寺のお堂を壊したのは俺たちだが、元はと言えば興福寺が悪い!興福寺の偉いお坊さんを島流しにしろ!」と滅茶苦茶な要求(強訴)を突きつけました。当時の日本では、興福寺(南都)と延暦寺(北嶺)は「南都北嶺(なんとほくれい)」と呼ばれる最強最悪の二大宗教ヤクザのような存在でした。朝廷はこの二大勢力の恐ろしい板挟みになってしまったのです。
延暦寺の僧兵が御所のすぐ近くまで迫り、身の危険を感じた白河法皇は完全にパニックに陥りました。「神の祟りなど恐れず、あいつらを武力で追い返せる者はおらんのか!」。法皇が頼りにしたのは、伝統的な貴族の警備隊ではなく、「北面の武士」として育て上げてきた武士たちでした。源光国、平正盛、そして若き源為義(みなもとのためよし)といった源平の猛将たちが急遽集められ、天皇の御所をガッチリと警備することになります。
結局、延暦寺の凄まじいプレッシャーに耐えきれなくなった法皇は、またしても要求を飲んでしまい、興福寺の偉いお坊さんを流罪(島流し)にする決定を下してしまいました。これを聞いて、今度は奈良の興福寺が黙っていません。「うちのトップを島流しにするとは何事だ!今度こそ京都を火の海にしてやる!」。興福寺の僧兵たちは再び神木を担ぎ、前回よりもさらに殺気立った何千もの大軍勢で京都に向けて進軍を開始したのです。
「このままでは京都が本当に滅ぼされてしまう」。追い詰められた白河法皇は、京都の南の入り口である宇治川で興福寺の大軍を食い止めるよう武士たちに命じました。宇治には白河法皇の一番のお気に入りである平正盛と、その息子でまだ若い平忠盛(たいらのただもり:平清盛の父)の親子が配置されました。神仏の権威を振りかざす狂信的な僧兵たちと、主君の命令に命を懸ける武士たちとの、絶対に負けられない戦いの幕開けです。
宇治川に到着した興福寺の僧兵たちは、「神木に向かって矢を射る気か!」と脅しをかけながら強行突破を図りました。しかし、平正盛や源為義らの武士たちは神の祟りを恐れることなく、容赦なく弓矢を引き絞り、僧兵たちに向かって一斉に雨あられと矢を射込みました。激しい武力衝突の結果、僧兵側に多数の死傷者が出て、ついに興福寺の軍勢はパニックを起こして奈良へと逃げ帰りました。武士の力が、神仏の権威に完全に打ち勝った瞬間でした。
この永久の強訴を見事に武力で鎮圧したことで、平正盛と忠盛親子の評価は朝廷内でうなぎ登りに高まりました。特に若い忠盛の勇敢な戦いぶりは白河法皇を大いに喜ばせ、平氏はますます法皇の寵愛を受けて異例のスピード出世を果たしていくことになります。一方で、かつて「天下の三不如意」と嘆いたほど強大だった宗教勢力(山法師)も、ついに武士の暴力の前には勝てないという現実が白日の下に晒されました。
この事件は、平安時代後期の日本社会が抱えていた深刻な病理を象徴しています。本来は国をまとめるはずの「神仏の権威」がヤクザのように暴れ回り、国のトップであるはずの天皇や法皇がそれをコントロールできず、雇った「武士の暴力」に頼るしかなかったのです。武士たちは「俺たちの武力がなければ、貴族も朝廷も生きていけないのだな」と自らの本当の力に気づき始めます。平氏政権という本格的な武家社会の到来を告げる、歴史の決定的な分岐点でした。