781年に即位した桓武天皇は、日本の政治を根本から立て直す強い決意を持っていました。当時の平城京(奈良)は、東大寺などの巨大な寺院や僧侶たちが絶大な権力を握り、政治にまで深く口を出してくる状態でした。あの道鏡の事件のように、お寺の勢力に国を乗っ取られかねない危険な状況を断ち切るため、天皇は「奈良のお寺から遠く離れた、全く新しい場所へ都を移す」という壮大な計画を思いつきます。
当時、平城京には「南都六宗」と呼ばれる巨大な仏教勢力が密集していました。彼らは広大な土地を持ち、税金も免除されるなどやりたい放題でした。桓武天皇は、この古くて腐敗した関係を完全に断ち切るため、新しい都には「奈良の古いお寺は絶対に移転してはならない」という厳しいルールを定めます。政治と宗教を明確に切り離す、歴史の決定的な転換点となる強い意志の表れでした。
新しい都の場所に選ばれたのは、山城国(現在の京都府向日市や長岡京市周辺)の長岡京でした。この場所の最大の魅力は「水上交通の便利さ」です。桂川や宇治川といった大きな川が合流する地点にあり、全国から税金として納められるお米や特産物を、船を使って大量に、そしてスムーズに運ぶことができました。急増する都の人口を養い、経済を発展させるための完璧な立地条件だったのです。
この巨大な遷都プロジェクトの責任者(造長岡宮使)に大抜擢されたのが、天皇からの信頼が厚い藤原種継(ふじわらのたねつぐ)という貴族でした。彼は持ち前の行動力とリーダーシップを発揮し、全国から大量の労働者と物資をかき集めます。そして、昼夜を問わず猛スピードで新しい宮殿や道路の建設を進め、わずか半年足らずという驚異的な短期間で、天皇が移り住むための立派な都を形にしていきました。
784年(延暦3年)11月、桓武天皇はついに平城京を離れ、新しい都である長岡京へ遷都を行いました。新しい宮殿に入った天皇は、古いしがらみのないこの地で、国の法律を厳しく守らせる新しい政治を力強くスタートさせます。役人の不正を取り締まる「勘解由使(かげゆし)」を設置したのもこの時期です。すべてが順調に進み、希望に満ちた新時代の幕開けになるはずでした。
しかし、遷都からわずか翌年の785年、長岡京を揺るがす大事件が起きます。建設の最高責任者であり、天皇の右腕だった藤原種継が、夜の建設現場を視察中に何者かによって弓矢で射殺されてしまったのです。新しい都づくりに反対する奈良の古い貴族たちや、建設の負担に苦しむ人々の不満が爆発したテロ事件でした。最も頼りになる部下を失い、桓武天皇は激しい怒りとショックを受けます。
激怒した桓武天皇は、徹底的な犯人探しを行いました。その結果、なんと天皇の実の弟であり、次の天皇になる予定だった皇太子・早良親王(さわらしんのう)が暗殺の黒幕として逮捕されてしまいます。早良親王は「私は無実だ!」と泣き叫び、飲食を絶って抗議しましたが、天皇は全く耳を貸しませんでした。親王は淡路島(兵庫県)への島流しにされ、護送される途中で餓死するという悲惨な最期を遂げます。
早良親王が非業の死を遂げた直後から、長岡京には信じられないような不幸が次々と降りかかりました。天皇の妻や母親といった最も身近な皇族が次々と謎の病気で亡くなり、さらには大雨による川の氾濫や、全国的な疫病(伝染病)の大流行まで発生したのです。希望の都だったはずの長岡京は、あっという間に死と恐怖の影に覆われ、人々は「これは無実の罪で死んだ早良親王の怨霊の祟りだ」と震え上がりました。
「弟の怨霊(おんりょう)が、私を呪い殺そうとしている…」。早良親王の祟りの恐怖にすっかり心を病んでしまった桓武天皇は、何度もお祓いを行いましたが、不幸は全く収まりませんでした。せっかく造った長岡京ですが、川の氾濫が多いという地形的な弱点もありました。ついに天皇の精神は限界を迎え、「この呪われた都を捨てて、もう一度別の場所へ逃げよう」と悲痛な決断を下します。
794年、桓武天皇は怨霊の恐怖から逃れるため、長岡京からすぐ近くの平安京(現在の京都市中心部)へ再び都を移しました。こうして、壮大な理想を掲げて造られた長岡京は、わずか10年という短い期間で歴史の表舞台から姿を消したのです。美しい都の裏には、ドロドロとした血塗られた権力争いと、目に見えない怨霊の恐怖から逃げ惑う権力者の、悲しくも生々しい人間ドラマが隠されていました。