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備中高松城の戦い びっちゅうたかまつじょうのたたかい 合戦

🕒 1582年4月 〜 1582年6月4日 🏯 安土桃山時代
📍 場所: 岡山県 備中国(現在の岡山県岡山市北区高松) 👤 関連: 羽柴秀吉,清水宗治
1582年、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が毛利氏の配下である清水宗治が守る備中高松城(岡山県)を水攻めにした戦いです(備中高松城の戦い)。低湿地という地形を利用し、堤防を築いて川の水を流し込むという前代未聞の奇策で城を孤立させました。しかし攻城戦の最中、主君・織田信長が討たれる「本能寺の変」が発生。秀吉は信長の死を隠したまま宗治の切腹を条件に講和を結び、すぐさま畿内へと引き返す「中国大返し」を成功させました。天下人・秀吉の誕生へと直結する歴史の重要な分岐点です。
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信長の命令と毛利攻め

1582年、織田信長の命令を受けた羽柴秀吉(はしばひでよし:のちの豊臣秀吉)は、中国地方を支配する強大な大名・毛利氏を倒すため、軍勢を率いて進軍していました。秀吉は毛利方の城を次々と落とし、ついに毛利領の最前線である備中国(現在の岡山県)に位置する「備中高松城」へと迫ります。しかし、この城は周りを深い沼や泥田に囲まれた天然の要塞であり、普通の攻め方では到底落とすことができない難攻不落の城だったのです。
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義の武将・清水宗治

この備中高松城を守っていたのが、毛利氏に強い忠誠を誓う武将・清水宗治(しみずむねはる)です。宗治は非常に義理堅い性格で、部下や領民からも深く慕われていました。秀吉は「味方になれば、備中国を丸ごとプレゼントしよう」と信じられないような好条件で引き抜き(寝返り)を提案しますが、宗治は「主君を裏切ることは武士の恥である」とこれをきっぱりと拒否します。誇り高き名将を前に、秀吉は力技での激しい攻城戦を余儀なくされました。
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沼地の城への苦戦

降伏を拒まれた秀吉は、城への総攻撃を開始します。しかし、高松城の周囲に広がる深い沼地が秀吉軍の行く手を大きく阻みました。足をとられた兵士たちは身動きが取れず、城から撃ち込まれる鉄砲や弓矢の格好の的になってしまったのです。数万の大軍で囲んでも、沼と泥に守られた城には一歩も近づくことができません。「力攻めでは、味方の被害が増えるばかりだ」。この厄介な地形を前に、戦の天才である秀吉の軍師・黒田官兵衛らも深く頭を抱えました。
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前代未聞の奇策「水攻め」

力攻めを諦めた秀吉は、城が平野の低い場所にある地形に目をつけ、前代未聞の奇策を思いつきます。「城の周りに巨大な堤防を築き、近くの川の水を流し込んで城ごと水没させてしまおう」。これが日本三大水攻めの一つに数えられる「高松城の水攻め」です。秀吉は近くの村人たちに「土俵(土を詰めた袋)を持ってきたら、高いお金で買い取るぞ」とお触れを出し、豊富な資金力を使って信じられないスピードで巨大な堤防の建設をスタートさせました。
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湖に浮かぶ孤城

お金の力と秀吉の圧倒的な統率力により、高さ約8メートル、長さ約3キロにも及ぶ巨大な堤防がわずか12日間という短期間で完成しました。ちょうど梅雨の時期で大雨が降り続いたことも重なり、近くの足守川の水をせき止めて流し込むと、高松城の周辺はあっという間に巨大な湖へと姿を変えました。孤島のように水に浮かぶ城は完全に外の世界から孤立し、食料の補給も逃げ出すこともできない、まさに生殺しの絶望的な状況に追い込まれてしまったのです。
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毛利本軍の到着と膠着状態

水没していく城を救うため、ついに毛利氏の総大将である毛利輝元と小早川隆景らが数万の大軍を率いて救援に駆けつけました。しかし、城と毛利本軍の間には巨大な人工の湖が広がっており、手出しすることができません。秀吉側も、毛利の大軍を前に安易に動くことはできず、戦線は完全に膠着(ストップ)してしまいました。秀吉は主君の織田信長に「いよいよ毛利本軍と決戦をするので、応援に来てください」と援軍を要請する急ぎの手紙を送ります。
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運命を狂わす密使の逮捕

しかし1582年6月、歴史の運命を根底から覆す大事件が発生します。援軍に向かうはずだった主君・織田信長が、京都で明智光秀に裏切られて自害したのです(本能寺の変)。光秀は毛利軍に「一緒に秀吉を挟み撃ちにしよう」という秘密の手紙を送りましたが、その手紙を持った密使が、運悪く秀吉の陣地に迷い込んで捕まってしまいます。秀吉は、信長の死という自分にとって最も危険で最悪な情報を、敵よりも早く知ることになったのです。
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信長の死を隠した極秘交渉

「信長様の死が毛利にバレれば、一気に攻め込まれて我が軍は全滅する!」。絶体絶命の危機に陥った秀吉は、信長の死を全軍にひた隠しにしたまま、毛利側へ急いで和睦(仲直り)の交渉を持ちかけました。「城主である清水宗治の命と引き換えにするなら、城内の兵士の命は助け、毛利の領土も保証しよう」。毛利側は信長の死を知らないため、「あの信長の本軍が来る前に和平を結べるなら」と、この極めて厳しい条件を最終的に受け入れたのです。
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名将・清水宗治の切腹

1582年6月4日、和睦の条件に従い、城主の清水宗治は小舟に乗って水没した城から漕ぎ出しました。彼は部下や領民の命を救うため、小舟の上で見事な舞を舞い、立派な辞世の句を詠んだのち、秀吉軍が見守る中で潔く切腹しました。そのあまりにも立派な最期は、敵である秀吉からも「武士の鑑(鏡)」と大絶賛されたと伝わります。宗治の尊い自己犠牲によって、水攻めの地獄に苦しんでいた数千の城兵たちは命を救われ、備中高松城の戦いは幕を閉じました。
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奇跡の大移動「中国大返し」

宗治の切腹を見届けるや否や、秀吉は軍を反転させます。「信長様の仇、明智光秀を討つ!」。秀吉は堤防を壊して水を引き、数万の軍勢を率いて、備中から京都までの約200キロの道のりをわずか1週間あまりで駆け抜けるという、日本戦史に残る奇跡の大移動「中国大返し」を成功させました。絶体絶命のピンチから迅速な決断で退却戦を成功させ、山崎の戦いでの大勝利へと繋げたことが、秀吉が天下人へと登り詰める歴史の最大の分岐点となったのです。
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