ホーム > 勉強ルーム > 日本史 年表 > 江戸時代(後期)

江戸時代(後期) えどじだい(こうき)

🕒 1780年 〜 1852年
👤 関連: 松平定信,水野忠邦,大塩平八郎
1780年からペリー来航直前の1852年頃までの江戸時代後期は、幕府の体制が大きく揺らいだ「内憂外患」の激動の時代です。松平定信寛政の改革水野忠邦天保の改革で幕府の立て直しが図られましたが、厳しすぎるルールに反発が起き失敗。一方で、庶民の教育水準は上がり、浮世絵などに代表される豊かな化政文化が花開きました。しかし、大飢饉や大塩平八郎の乱で国内が混乱する中、外国船が頻繁に接近。異国船打払令を出すなど危機感が高まり、幕末の動乱への足音が近づいていきます。
スポンサーリンク
📜

マジメすぎる!松平定信と寛政の改革

1780年代、田沼意次の時代は賄賂が横行し、さらに「天明の大飢饉」や浅間山の大噴火など災害が連続して世の中は大混乱に陥りました。この絶体絶命のピンチに登場したのが、白河藩主の松平定信(まつだいらさだのぶ)です。彼は田沼の政治を全否定し、「質素倹約」をスローガンに超マジメな寛政の改革をスタートさせました。贅沢を固く禁じ、武士には借金の帳消し(棄捐令)や学問(朱子学)を強制。農民には飢饉に備えてお米を貯金させるなど、幕府の立て直しに本気で取り組みました。
😩

厳しすぎて息苦しい…改革の失敗

しかし、定信の改革はあまりにも厳しすぎました。華やかな着物や贅沢な食事はもちろん、庶民の娯楽や出版物までも厳しく取り締まられたため、江戸の町人たちからは大ブーイング!「白河の清きに魚も棲みかねて もとの濁りの田沼恋しき(定信の政治は水が綺麗すぎて息苦しい、少し濁っていた田沼の時代が恋しい)」という皮肉たっぷりの落首(落書き)が大流行する始末です。結局、窮屈すぎるルールに武士も庶民も誰もついていけず、定信はわずか6年ほどで失脚して幕府を去ってしまいました。
🎨

町人文化の最高潮!化政文化

政治が厳しかった反動もあり、19世紀初頭(文化・文政期)には江戸を中心とした町人文化・化政文化(かせいぶんか)が最高潮に達します!十返舎一九の爆笑旅行記『東海道中膝栗毛』や、滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』が大ベストセラーに。また、多色刷りの版画である「錦絵」が発達し、葛飾北斎歌川広重が描いた色鮮やかな風景画の浮世絵が大流行しました。これらの浮世絵は、のちに海を渡ってゴッホなどヨーロッパの天才画家たちにも強烈なショックを与えることになります。
🏫

世界トップクラス!寺子屋と高い教育

この華やかな化政文化の発展を土台で支えたのは、庶民の驚異的な教育レベルの高さでした。町や村のあちこちに寺子屋(てらこや)という民間の学校が作られ、子どもたちは師匠から「読み・書き・そろばん」などの日常生活に直結する実用的な知識を楽しく学びました。なんと当時の江戸の識字率(文字をスラスラ読める人の割合)は世界トップクラス!武士だけでなく、農民や商人の子どもたちまでが当たり前に本を読み、手紙を書き、計算をこなすという、非常にハイレベルな教育社会が完成していたのです。
🚢

ヒタヒタと迫る外国船の影

国内で庶民の文化が成熟する一方、海の向こうからは不穏な影がヒタヒタと忍び寄っていました。産業革命を終えた欧米諸国が、資源や貿易の拠点を求めてアジアへ次々と進出してきたのです。1792年にはロシアの使節ラクスマンが北海道の根室にやってきて通商(貿易)を要求。さらに1808年には、イギリスの軍艦が長崎港に武装して不法侵入する「フェートン号事件」なども発生しました。長い間、鎖国で平和ボケしていた江戸幕府は、得体の知れない外国船の連続接近に強い危機感を抱き始めます。
💣

問答無用で撃ち払え!異国船打払令

相次ぐ外国船の接近にパニックになった幕府は、1825年についに「日本のルール(鎖国)を守らずに近づく怪しい外国船は、理由を聞かずに問答無用でブッ飛ばせ!」という超強硬な法律、異国船打払令(いこくせんうちばらいれい)を発布しました。沿岸の警備を強化し、大砲で撃ち払って追い返すという力技で国を守ろうとしたのです。しかし、相手は最新の大砲や蒸気船を持つ欧米列強です。時代遅れの日本の武器で本当に国を守り切れるのか、西洋の事情を知る一部の知識人たちは強い不安を募らせていました。
🤐

忠告を無視する幕府と蛮社の獄

1837年、漂流した日本人を親切に助けて返しに来たアメリカの商船を、幕府の役人が異国船打払令に基づいて大砲で激しく追い返すモリソン号事件が起きます。これを知った蘭学者(西洋の学問を学ぶ知識人)の渡辺崋山や高野長英らは、「相手の事情も聞かずに無差別に攻撃するなんて、日本が世界から孤立して滅ぼされてしまう!」と幕府の対応を痛烈に批判しました。しかし頭の硬い幕府は彼らの正しい忠告を無視し、逆に「幕府に逆らう危険人物」として彼らを厳しく処罰してしまいます(蛮社の獄)。
🔥

幕府の役人が反乱!大塩平八郎の乱

外交問題に加えて、国内でも大ピンチが訪れます。全国的な異常気象による「天保の大飢饉」が発生し、多くの人が餓死しました。しかし、大阪の役人や大商人たちは自分たちの利益ばかりを優先し、お米を隠し持って庶民を見殺しにしました。これに激怒した元・幕府の役人(与力)であった大塩平八郎が、「苦しむ人々を救う!」と1837年に大砲を撃って武装蜂起しました(大塩平八郎の乱)。幕府の身内である元エリート役人が反乱を起こした事実は、全国の武士や庶民に特大のショックを与えました。
⚔️

絶体絶命!水野忠邦と天保の改革

「内憂外患(内も外もボロボロ)」という幕府の絶体絶命の危機に、老中・水野忠邦(みずのただくに)が立ち上がります。幕府の権威を回復させるため、1841年から天保の改革を断行!物価を下げるために大商人たちの特権グループである株仲間を強制的に解散させ、農民が江戸へ出稼ぎに行くのを禁止して無理やり村へ帰らせました(人返しの法)。さらに、派手なお祭りや芝居、贅沢品を一切禁止するという、かつての寛政の改革以上にガチガチで超厳しいルールを人々に押し付けたのです。
📉

権威の失墜、そして開国前夜へ

水野忠邦の改革の最大の目玉は、江戸と大阪の周辺の豊かで重要な土地を大名から取り上げ、すべて幕府の直轄地(幕府だけの領地)にしてしまう「上知令(あげちれい)」でした。しかし、これには領地を奪われる大名や旗本から農民まで、あらゆる階層から「ふざけるな!」と凄まじい猛反発を受け、あっけなく撤回に追い込まれます。水野はわずか2年で失脚し、天保の改革は完全に大失敗に終わりました。幕府の命令を誰も聞かなくなり、その権威は完全に地に落ち、日本は「黒船来航」という最大の試練へと突き進んでいきます。
スポンサーリンク
スポンサーリンク