平安時代前期、日本の貴族たちは唐(中国)の文化に強く憧れ、漢詩を作ることが最高の教養とされていました。しかし、菅原道真の提案で遣唐使が停止(894年)されると、大陸の文化をそのまま真似るのではなく、日本の風土や感情に合った日本独自の文化を見直そうという機運が高まります。こうして、日本古来の言葉である「和歌(やまとうた)」が、漢詩と並ぶ正式な文学として再び脚光を浴びる時代がやってきたのです。
「和歌の素晴らしさを後世に残すための立派な歌集を作ろう」。905年、第60代・醍醐天皇(だいごてんのう)は、国家の公式な事業として日本初の勅撰和歌集を作ることを決意しました。万葉集の時代から受け継がれてきた数え切れないほどの和歌の中から、最高に美しい名歌だけを厳選してまとめるという、国家の威信をかけた前代未聞の文化プロジェクトがスタートしたのです。
この重大な任務を任されたのが、当時最高峰の歌人であった紀貫之(きのつらゆき)、紀友則(きのとものり)、凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)、壬生忠岑(みぶのただみね)の四人です。彼らは身分こそそれほど高くありませんでしたが、和歌の才能においては誰もが認める超一流のプロフェッショナルでした。彼らは膨大な量の和歌を集め、どれを収録するか、どのような順番で並べるか、昼夜を問わず熱い議論を交わしながら編纂作業を進めました。
プロジェクトは順調に進むかと思われましたが、途中で大きな悲劇が襲います。編纂チームのリーダー格であり、貫之のいとこでもあった紀友則が、完成を待たずに病でこの世を去ってしまったのです。深い悲しみに包まれる中、残された紀貫之が中心となってチームを引っ張り、亡き友の思いを引き継いで作業を続けました。貫之の圧倒的なセンスと情熱が、この歌集を単なる和歌の寄せ集めではなく、一つの巨大な芸術作品へと昇華させていきます。
完成した『古今和歌集』は全二十巻、約1100首もの和歌が収録されました。その最大の特徴は、和歌の並べ方にあります。春、夏、秋、冬と季節の移り変わりを表現した「四季の歌」や、出会いから別れまでの恋愛模様を描いた「恋の歌」など、テーマごとに分類して配列されました。前の歌と次の歌がまるでしりとりのように意味や言葉で繋がり、最初から最後まで通して読むことで一つの美しいストーリーが浮かび上がるよう綿密に計算されていたのです。
収録された和歌には、編纂者たちの同時代の歌だけでなく、少し前の時代に活躍した名歌人たちの作品も数多く選ばれました。特に、在原業平(ありわらのなりひら)や小野小町(おののこまち)、僧正遍昭(そうじょうへんじょう)など、天才的な六人の歌人は「六歌仙(ろっかせん)」として高く評価されました。漢詩全盛の時代にあっても、日本の心である和歌を守り育ててきた過去の巨匠たちに、最高の敬意を払ったのです。
『古今和歌集』の巻頭には、紀貫之が書いた「仮名序(かなじょ)」という序文(前書き)が添えられました。当時、公式な文章はすべて漢字で書くのが常識でしたが、貫之はあえて日本独自の文字である「ひらがな(仮名)」を使ってこの序文を書きました。流麗なひらがなで論じられたこの文章は、日本で最初の本格的な文学評論とされ、仮名文字が持つ美しさと表現力の高さを世に知らしめる決定的な契機となりました。
「やまとうたは、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」。これは「仮名序」の冒頭の有名な一節です。和歌とは、人の心の中にある感動や思いを種として、様々な言葉の葉っぱとなって咲き誇ったものである、という意味です。花鳥風月を見て感動する心、恋に悩む切ない思い。人間の自然な感情をそのまま三十一文字で表現することの尊さを高らかに宣言し、和歌の存在意義を美しく定義しました。
天皇のお墨付きを得て完成した『古今和歌集』は、平安貴族たちの間で「絶対に読まなければならない教科書」となりました。貴族たちは、美しい和歌を詠んで恋人に送ったり、「歌合(うたあわせ)」という和歌のコンテストで優雅に競い合ったりするようになります。和歌の良し悪しが貴族の教養や出世、さらには恋愛の成功までも左右するようになり、和歌は貴族社会のコミュニケーションにおける最も重要なツールとして完全に定着しました。
『古今和歌集』の完成は、ただの歌集の出版にとどまりません。日本人が自らの言葉と感情の美しさに自信を持ち、日本独自の国風文化(こくふうぶんか)を確立したことを象徴する歴史の重要な分岐点です。この後も天皇の命による勅撰和歌集は「八代集(はちだいしゅう)」として次々と編纂されていくことになります。紫式部や清少納言らが活躍する華やかな国風文化の黄金期へ向けて、その輝かしい歴史の端緒を開いた不朽の傑作です。