1874年、明治政府のやり方に不満を持つ不平士族(元武士)たちが佐賀県で起こした反乱です。政府を辞めて地元に帰っていた江藤新平(えとうしんぺい)をリーダーとして挙兵しましたが、大久保利通(おおくぼとしみち)が率いる政府の近代的な軍隊によってわずか1ヶ月ほどで鎮圧されました。この佐賀の乱は、この後全国で次々と起こる士族反乱(しぞくはんらん)の連続ドミノの最初の1枚目となる重要な事件です。
明治時代になり、政府は「四民平等」や「徴兵令」など、新しい国づくりのための改革を次々と進めました。しかし、これは今まで特権を持っていた武士(士族)たちからすると、プライドも仕事も給料も奪われる最悪の出来事でした。「俺たちが命がけで新しい時代を作ったのに、なんだこの扱いは!」と、政府に対する激しい怒りと不満を抱える不平士族(ふへいしぞく)が生まれ、日本中の武士たちの間でマグマのようにグツグツと溜まっていたのです。
怒れる武士たちのリーダーとなったのが、江藤新平(えとうしんぺい)です。彼はもともと明治政府のトップクラスのエリート政治家で、日本の法律や裁判所の基礎を作った超優秀な人物でした。しかし、「武士の不満をそらすために韓国を武力で開国させよう」という征韓論(せいかんろん)をめぐる政府内の激しいケンカ(明治六年の政変)に敗れ、大久保利通らと対立して政府を辞め、地元である佐賀県に帰ってきていました。
1874年2月、佐賀で不満を爆発させた士族たちがついに反乱を起こします。地元の士族たちに強く頼み込まれた江藤は、「ここで自分が立ち上がらなければ!」と決意し、もう一人のリーダー・島義勇(しまよしたけ)とともに約3000人の軍勢で佐賀県庁を襲撃しました。近代的な兵器も準備し、最初は勢いよく政府の部隊を追い払いましたが、実はこれこそが、政府で実権を握る大久保利通(おおくぼとしみち)が待ち構えていた展開だったのです。
大久保利通は「ここで佐賀の反乱を徹底的に潰して、全国の武士たちに見せしめにしよう」と冷酷に計算していました。大久保自らが軍隊を率いて佐賀へ向かい、電信(電報)や蒸気船といった最新技術をフル活用して、あっという間に大軍を送り込みました。徴兵令で集められた農民中心の近代的な政府軍の圧倒的な火力の前に、佐賀の士族たちはなす術もなく敗れ去り、反乱はわずか1ヶ月足らずで完全に鎮圧されてしまいました。
逃亡した江藤新平は捕まり、自分がかつて作った「裁判の制度」すらまともに受けさせてもらえないまま、大久保の命令でスピード処刑(死刑)されてしまいました。日本の近代化をリードした天才の、あまりにも悲惨な最期でした。しかし、この佐賀の乱の鎮圧を見ても武士たちの怒りは収まらず、これをキッカケに「神風連の乱」や「秋月の乱」、そして最大で最後の士族反乱である「西南戦争」へと、歴史の血なまぐさいドミノが倒れていくのです。