1199年、鎌倉幕府を開いた絶対的なリーダー・源頼朝が急死し、長男の源頼家がわずか18歳で第2代将軍に就任しました。しかし、偉大すぎる父の後を継いだ若い頼家には、個性豊かでプライドの高い坂東武者(関東の武士たち)をまとめ上げるほどのカリスマ性や政治の経験がまだ備わっていませんでした。頼家は一部の側近だけをひいきにするなど独断的な政治を行い、幕府の古い有力な御家人たちからの反発を少しずつ買っていくことになります。
頼家の独断専行を危惧した母の北条政子や祖父の北条時政ら有力御家人たちは、頼家が直接裁判の判決を下すことを禁じました。代わりに13人の有力な武士たちが話し合って政治を決める「十三人の合議制」をスタートさせます。しかし、将軍としての権力を大きく制限された頼家はこれに猛反発し、自分のお気に入りの若い武士たちを重用して対抗しようとしました。将軍と有力御家人たちの間に、修復不可能な深い亀裂が生じ始めたのです。
頼家を強く支持していたのが、頼家の乳母(育ての親)の夫であり、頼家の妻の実家でもある比企能員(ひきよしかず)でした。頼家に長男の一幡(いちまん)が生まれると、比企氏は「将来の将軍の外戚(母方の実家)」として幕府内で急激に権力を強めていきます。これに対して、頼朝の妻の実家として幕府を操ろうとしていた北条時政は、「このままでは北条氏の権力や居場所が奪われてしまう」と、強い危機感と焦りを抱くようになりました。
1203年7月、北条氏と比企氏の対立が水面下で激しさを増す中、思いがけない事態が発生します。将軍である源頼家が突然重い病に倒れ、危篤状態(死の淵をさまよう状態)に陥ってしまったのです。最高権力者が生死をさまよう事態に、鎌倉は大混乱に陥りました。そして、この頼家の病という絶対絶命のピンチが、水面下で燻っていた権力闘争の火薬庫に一気に火をつけ、鎌倉を血で染める凄惨な争いを引き起こす引き金となってしまったのです。
頼家の死を覚悟した北条政子と時政は、頼家が持っていた日本全国の支配権を、長男の一幡と、頼家の弟である千幡(のちの源実朝)の二人で分割して相続させるという案を強引に決定しました。千幡は北条氏が育てていたため、これは北条氏の権力を保つための露骨な作戦でした。当然、すべてを一幡に継がせて権力を独占したかった比企能員はこの理不尽な分割案に激怒し、ついに邪魔な北条氏を武力で討伐する決意を固めたと言われています。両者の激突はもはや避けられない状態となりました。
しかし、政治の駆け引きにおいて、百戦錬磨の北条時政の方が一枚も二枚も上手でした。1203年9月2日、時政は「仏像の供養をするから」という口実で、能員を自分の屋敷に呼び出しました。罠だと疑わずに武装せずにやってきた能員は、待ち構えていた北条軍の兵士たちに囲まれ、あっけなく暗殺されてしまいます。最高指導者を失った比企一族は、その日のうちに北条軍の総攻撃を受け、燃え盛る屋敷の中で一幡とともに一族もろとも滅ぼされました(比企能員の変)。
比企一族が滅亡した数日後、危篤状態だったはずの源頼家が奇跡的に目を覚まします。しかし、彼を待っていたのはあまりにも残酷な現実でした。自分の可愛い息子(一幡)も、一番の味方であった比企一族も、祖父である時政の手によって皆殺しにされていたのです。激怒した頼家は、すぐに時政を討伐する命令を出そうと激しく命じましたが、すでに幕府の実権は完全に北条氏に握られており、哀れな将軍の命令に従う武士はもはや鎌倉に誰もいませんでした。
もはや将軍としての実力も味方も失った頼家に対し、母の北条政子は非情な決断を下します。「病気で政治ができない」という理由で頼家から将軍の座を強制的に剥奪し、無理やり出家(お坊さんにすること)させてしまいました。そして1203年9月29日、頼家は鎌倉から遠く離れた伊豆国(静岡県)の修善寺(しゅぜんじ)へと追放され、厳重な監視のもとに幽閉されてしまったのです。鎌倉幕府の第2代将軍は、ここに完全に政治の表舞台から失脚しました。
修善寺に幽閉された後も、頼家は北条氏への強い恨みを持ち続けていました。北条氏にとって、前将軍である頼家が生きていれば、いつ反乱の旗印にされるか分からない非常に危険な存在です。翌1204年7月、ついに刺客が修善寺へと放たれました。入浴中で無防備だった頼家は激しく抵抗しましたが、刺客たちに首に縄を巻き付けられ、急所を刺されて凄惨な暗殺を遂げました。かつての鎌倉殿は、わずか23歳という若さで悲劇の生涯を閉じたのです。
頼家を追放した後、北条時政は頼家の弟である源実朝(みなもとのさねとも)を第3代将軍に据え、自らは幼い将軍を補佐する初代の「執権(しっけん)」という最高の役職に就きました。将軍の独裁を阻止し、最強のライバルであった比企氏を滅ぼしたこの一連の事件は、幕府の実権が源氏から北条氏へと完全に移り変わることを決定づけました。北条氏が約130年にわたって日本を支配する執権政治の、歴史の決定的な端緒を開いたのです。