南北朝の激しい内乱を終わらせ、室町幕府の全盛期を築き上げた第3代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)。金閣寺を建てるほど絶大な権力を握った彼は、「もっともっと幕府を豊かにして、誰も逆らえない圧倒的な力を手に入れたい!」と考えました。そこで目をつけたのが、お隣の巨大帝国である中国の明(みん)との貿易でした。明の進んだ技術や高級品、そして「お金」を日本に持ち込もうと計画したのです。
当時、東シナ海周辺では倭寇(わこう)と呼ばれる日本の海賊たちが大暴れしており、中国や朝鮮の海岸を襲って物を奪っていました。明の皇帝はこれに大激怒!「日本のトップなら、この海賊たちをなんとかしろ!」と義満にクレームを入れてきました。義満はこれを大チャンスと捉え、「海賊を私が厳しく取り締まる代わりに、正式な貿易をさせてください」と明の皇帝に直接交渉を持ちかけたのです。
しかし、明と貿易をするには一つの大きな条件がありました。それは明の皇帝の「家来」として挨拶に行くという朝貢貿易(ちょうこうぼうえき)のスタイルをとることです。日本側から見れば、中国の下にへりくだる屈辱的なルールでしたが、超現実主義者の義満は「プライドなんかでお金は稼げない!利益が出るなら喜んで家来になろう」と割り切りました。そして、明の皇帝から「日本国王」という称号を正式にもらい受けたのです。
1404年、ついに日明貿易がスタートします。この時、明の皇帝が「海賊(倭寇)と正式な貿易船をどうやって見分けるんだ?」と心配したため、特別なアイテムが配られました。それが勘合(かんごう)と呼ばれる証明書です。文字が書かれた紙を半分にちぎり、日本の船が持ってきた半分と、中国側が持っている半分をピタリと合わせて「本物だ!」と確認するシステムです。このため、勘合貿易とも呼ばれます。
この勘合貿易は、室町幕府にとって信じられないほどの超ボロ儲けビジネスでした。日本からは、切れ味抜群の日本刀や扇子、火薬の材料になる硫黄(いおう)などを輸出しました。逆に明からは、高級な生糸(絹織物の材料)や陶磁器などを輸入。日本で安く手に入るものを明で高く売り、明で安く買ったものを日本で高く売ることで、なんと一回の航海で仕入れ値の10倍〜100倍もの凄まじい利益が出たと言われています。
貿易の最大の目玉は、明から大量の銅銭(お金)を輸入したことです。特に永楽通宝(えいらくつうほう)などの明銭が日本にドバッと流れ込みました。当時の日本は自分たちでお金を作る技術がなかったため、この中国の硬貨がそのまま日本全国で使われるようになります。お米や布を交換していた時代から、「お金で物を買う」という貨幣経済が一気に発展し、日本の人々の生活を根本から変える特大ドミノとなりました。
義満の死後、第4代将軍の足利義持(よもち)は「父上はお金のために中国の家来になったが、日本の将軍のプライドが許さん!」と激怒し、なんとこの超美味しい貿易を自分からストップしてしまいます。しかし、長年お金のうまみを知ってしまった幕府や大名たちは「貿易がないとお金が稼げない!」と大ブーイング。結局、第6代将軍の足利義教(よしのり)の時代に「やっぱりお金には勝てない」と貿易は再開されました。
室町時代の後半になると、幕府の力が弱まり、代わりに力を持った守護大名たちが貿易の利益を奪い合うようになります。特に、堺(大阪府)を拠点とする細川氏と、博多(福岡県)や山口を拠点とする大内氏が激しく対立!1523年には、なんと中国の寧波(ニンポー)という港町で、細川氏と大内氏の貿易船同士が大ゲンカを始めるという国際的な大事件(寧波の乱)まで引き起こしてしまいました。
寧波の乱のあと、中国での貿易の主導権を完全に握ったのは大内氏でした。大内氏は博多の商人たちと結託し、莫大な富を独占して西日本最強の大名へと成長します。しかし1551年、その大内氏が家臣の裏切りによって突然滅亡してしまいます。貿易を取り仕切るトップの大名がいなくなったことで、1404年から100年以上続いた日明貿易(勘合貿易)も、ついに終わりを迎えることになりました。
日明貿易が終わったことで、大名たちは「外国との貿易」ではなく「日本の土地」を武力で奪い合って豊かになるしか道がなくなりました。さらに、正式な貿易がなくなったことで、再び東シナ海には後期倭寇と呼ばれる海賊たちが大量に発生し、大暴れし始めます。勘合貿易という莫大な富の泉が枯れたことは、室町幕府の衰退を決定づけ、血みどろの戦国時代へと歴史のドミノをさらに激しく倒していくことになったのです。