1177年の鹿ケ谷の陰謀(ししがたにのいんぼう)で、後白河法皇(ごしらかわほうおう)の側近たちが平氏打倒を企てたことが発覚して以来、平清盛(たいらのきよもり)と法皇の関係は冷え切っていました。かつては協力して政治を行っていた二人でしたが、法皇は次第に強大になりすぎる平氏の権力を削ごうと、様々な嫌がらせや挑発を水面下で仕掛けるようになります。これが、歴史を揺るがす大事件の火種となりました。
1179年、清盛の娘である平盛子(もりこ)が24歳の若さで病死しました。彼女は名門・藤原摂関家のトップの妻であり、夫の死後に広大な領地(荘園)を受け継いでいました。ところが後白河法皇は、清盛に一切の相談もなく、盛子が管理していたこの莫大な領地を一方的に没収してしまったのです。身内を亡くした悲しみの中で、平氏の財産を露骨に奪う法皇のやり方に、清盛は激しい怒りと不信感を募らせました。
領地没収の直後、さらに平氏を揺るがす悲劇が起きます。清盛の長男であり、一族のまとめ役であった平重盛(たいらのしげもり)が病死したのです。重盛は非常に真面目で温厚な性格であり、暴走しがちな父・清盛と、気まぐれな後白河法皇の間を取り持つ「唯一の緩衝材(ストッパー)」でした。平氏にとっても朝廷にとっても重要なパイプ役であった重盛の死により、清盛と法皇の衝突を防ぐ者は誰もいなくなってしまいます。
重盛の死に対し、後白河法皇は全く同情を示しませんでした。あろうことか、亡くなった重盛が治めていた越前国(福井県)の領地までも、すぐに没収してしまったのです。さらに法皇は、清盛が推薦した役人の人事を無視し、自分のお気に入りであるわずか8歳の少年を高い役職(中納言)に任命するという露骨な嫌がらせを行いました。度重なる領地の没収と政治的な挑発は、ついに清盛の堪忍袋の緒を完全に断ち切ることになります。
「もはや法皇様をそのままにしておくことはできない!」。激怒した平清盛は、隠居していた福原(現在の神戸市)から、数千騎という重武装の大軍勢を率いて京都へ向けて進軍を開始しました。朝廷の頂点に立つ天皇や法皇に対して、武士が軍隊を率いて脅しをかけるなど、当時は絶対に許されない前代未聞のクーデターです。清盛の上京の知らせを聞いた京都の貴族たちは、何が起こるのかと恐怖のどん底に突き落とされました。
1179年11月、平氏の大軍が京都を完全に制圧しました(治承三年の政変)。圧倒的な武力を背景にした清盛は、自分に反抗的だった関白を即座にクビにし、自分の娘婿である近衛基通を新しい関白に任命します。さらに、後白河法皇の側近であった高官たち約40人を一斉に解任し、財産を没収して遠くへ追放(流罪)にしました。法皇の手足となる人物を朝廷からすべて排除し、政治の実権を完全に平氏の手に取り戻したのです。
クーデターの最終ターゲットは、諸悪の根源である後白河法皇本人でした。清盛は法皇を京都の南にあった鳥羽殿(とばどの)という離宮に無理やり連行し、武装した兵士たちで周りを囲んで軟禁状態(幽閉)にしてしまいました。かつて「日本一の大天狗」と呼ばれ、権謀術数を駆使して朝廷に君臨した最高権力者は、武士の暴力の前にあっけなく自由と権力を奪われました。天皇や法皇すらも武力で圧倒する、恐ろしい時代の幕開けです。
後白河法皇が幽閉されたことで、白河天皇の時代から約100年続いていた天皇の父親による政治、すなわち院政(いんせい)が完全にストップしました。朝廷のトップを黙らせた清盛は、名実ともに日本の絶対的な独裁者となります。反対する者は一人もおらず、「平氏にあらずんば人にあらず」という言葉通りの、平家一門による完全な軍事独裁政権が完成しました。しかし、この強引な手法は大きな反発を生むことになります。
平氏の圧倒的な軍事力を前に、京都の貴族や大きなお寺の僧侶たちは恐怖で完全に沈黙しました。しかし、皇族を武力で脅して幽閉するという清盛の極端なやり方は、当時の社会の常識から大きく外れており、「いくらなんでもやりすぎだ」と全国の武士や貴族たちの心に静かな、しかし激しい憎悪の炎を植え付けました。平家一門の栄華の絶頂は、同時に彼らが全国から孤立し、破滅へと向かうカウントダウンの始まりでもあったのです。
この治承三年の政変は、日本の歴史を根本から覆す歴史の決定的な分岐点となりました。法皇が幽閉されたことに怒った息子の以仁王(もちひとおう)が、翌年ついに平氏打倒の命令書(令旨)を全国にバラまきます。これに応えて伊豆の源頼朝や木曾の源義仲が次々と立ち上がり、日本全体を巻き込む治承・寿永の乱(源平合戦)という大戦乱へと発展していくのです。清盛のクーデターは、自らを滅ぼす巨大な炎の導火線でした。