ペリーの黒船来航から数年後、アメリカはさらに一歩踏み込み、日本に対して本格的な貿易を始めるための条約を求めてきました。しかし、当時の孝明天皇は大の外国嫌いで、「外国人と付き合うなんて絶対に許さない!」と条約に猛反対します。幕府は天皇の許可(勅許)をもらって日本全体を納得させようとしましたが、天皇の態度は頑なで、幕府の政治は完全にストップしてしまいました。
この大ピンチに、幕府の臨時トップである大老(たいろう)に任命されたのが、彦根藩主の井伊直弼(いいなおすけ)です。彼は「このままモタモタしていたら、アメリカに戦争を仕掛けられて日本が滅んでしまう!」と強い危機感を持ちました。そしてなんと、天皇の許可を得ないまま、独断で日米修好通商条約にサインしてしまったのです!国のルールを無視したこの強行突破に、日本中の武士たちが激怒しました。
「天皇の許可なく条約を結ぶなんて許せない!」と猛反発する人々に対し、井伊直弼は力で徹底的にねじ伏せる恐怖政治をスタートさせます。これが安政の大獄(あんせいのたいごく)です。幕府に反対する大名や武士、学者たちを次々と捕らえ、処刑や島流しにしました。長州藩の天才思想家・吉田松陰(よしだしょういん)もこの時に死刑となり、幕府に対する人々の怒りと恨みは限界点に達していました。
安政の大獄で特にひどい弾圧を受けたのが、天皇を強く尊敬していた水戸藩(茨城県)でした。藩のトップが謹慎させられ、多くの仲間が処罰された水戸藩の熱い武士たちは「もはや井伊直弼を殺すしかない!」と決意します。彼らは藩に迷惑がかからないように自ら藩を辞めて浪人(脱藩)となり、薩摩藩の有志とも手を組んで、井伊直弼の命を奪うための極秘の暗殺計画を練り上げました。
運命の日は1860年3月3日(旧暦)。現在の暦では3月下旬にあたりますが、この日の江戸は季節外れの激しい大雪に見舞われていました。井伊直弼は、江戸城へ向かうために自分の屋敷を出発します。約60人の立派な護衛(大名行列)に守られていましたが、まさか白昼堂々、しかも幕府の心臓部である江戸城の目の前で襲撃されるなどとは、誰も夢にも思っていませんでした。
井伊直弼の行列が江戸城の桜田門に近づいたその時、一人の男が行列に飛び出し、直弼が乗るカゴに向かってピストルを放ちました!これが襲撃開始の合図です。銃弾は直弼の腰に命中し、彼は動けなくなってしまいます。それを合図に、周囲に隠れていた18人の浪士たちが一斉に刀を抜いて襲いかかりました。静かな雪の朝は、一瞬にして怒号と血しぶきが飛び交う凄惨な戦場へと変わったのです。
護衛の武士たちは約60人もいましたが、襲撃者たちに次々と倒されてしまいました。なぜなら、この日の「雪」が最大の罠になっていたからです。護衛たちは、大切な刀が雪や雨で濡れてサビないように「柄袋(つかぶくろ)」というカバーをすっぽりと被せていました。突然襲われた護衛たちは、このカバーが邪魔ですぐに刀を抜くことができず、鞘(さや)のまま必死に防ぐしかなく、圧倒的に不利な状況だったのです。
襲撃からわずか数分後、身動きが取れない井伊直弼のカゴに浪士が刀を突き刺し、ついに直弼は引きずり出されて首を討ち取られました。江戸幕府のナンバー2であり、飛ぶ鳥を落とす勢いだった絶対的権力者が、わずか十数人のテロリストによって白昼堂々暗殺されたのです。これが歴史に名高い桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)です。現場の雪は、飛び散った血で真っ赤に染まっていたと伝えられています。
「大老が暗殺された」なんて事実を認めたら、幕府のメンツは丸潰れです。幕府は慌てて「直弼様は急病で寝込んでいます」と嘘をつき、首を縫い合わせて生きているように見せかけようとしました。しかし、白昼の大事件を隠し通せるわけがなく、噂は一瞬で日本中に広まりました。「なんだ、幕府のトップでも簡単に殺せるじゃないか!」と、人々は江戸幕府を全く恐れなくなってしまったのです。
この桜田門外の変は、幕末の歴史を動かす超強力なドミノとなりました。幕府の権力が地に落ちたことで、外国を追い払おうとする尊王攘夷(そんのうじょうい)の運動が各地で爆発的に激化。暗殺やテロが日常茶飯事になり、日本はコントロール不能の大混乱時代に突入します。黒船来航で揺らいだ幕府の土台は、この事件によって決定的に破壊され、時代は「明治維新」へと猛スピードで突き進んでいくのです。