保元の乱で勝利の立役者となった平清盛(たいらのきよもり)と源義朝(みなもとのよしとも)でしたが、戦いの後の「ご褒美(恩賞)」で明暗が分かれました。政治の実権を握った信西(しんぜい)という貴族が、清盛を特別扱いしてどんどん出世させたのに対し、義朝には低い身分しか与えなかったのです。「同じように命懸けで戦ったのに不公平だ!」と、義朝の心の中には清盛と信西に対する激しい怒りと不満のマグマがグツグツと溜まっていきました。
1159年冬、ついに義朝の怒りが爆発します。信西を憎む別の貴族・藤原信頼(ふじわらののぶより)と手を組み、最大のライバルである清盛が家族旅行(熊野詣)で京都を留守にした一瞬の隙を狙ってクーデターを起こしたのです!これが平治の乱(へいじのらん)の始まりです。義朝たちは後白河上皇を御所に閉じ込めて政治の実権を奪い取り、逃げた信西を山の中まで追い詰めて討ち取るという、鮮やかな先制攻撃を成功させました。
旅行先でクーデターの知らせを聞いた平清盛は「絶体絶命か!」と焦りますが、冷静さを取り戻して猛スピードで京都へ引き返します。京都に戻った清盛は、義朝を油断させるためにわざと「あなたに従います」と降伏するフリをしました。そして義朝たちが油断して宴会を開いている夜に、なんと後白河上皇と二条天皇をこっそり女装させて、自分の屋敷(六波羅)へ脱出させるというスパイ映画のような大救出作戦を見事に成功させたのです!
天皇と上皇を自分の手元に置いたことで、清盛率いる平氏軍は「正しい天皇の軍隊(官軍)」となり、逆に義朝の源氏軍は「天皇に逆らう悪い軍隊(賊軍)」になってしまいました。立場が完全に逆転した中で、ついに源氏と平氏の両軍が京都で激突します!義朝軍も必死に戦いますが、清盛の計算し尽くされた巧妙な作戦の前に大敗北。天皇という最強の後ろ盾を失い、さらに兵力でも劣る源氏は、なす術なく京都から逃げ出すしかありませんでした。
戦いに敗れた源義朝は、味方の武士が多い関東地方(東国)を目指して雪の中を逃げ延びます。しかし、その逃避行はあまりにも悲惨なものでした。途中の尾張国(現在の愛知県)で、味方だと思っていた家来の裏切りに遭い、なんと無防備にお風呂に入っている最中に襲撃されて暗殺されてしまったのです。「木太刀の一本でもあれば…」という無念の言葉を残し、源氏のトップであった義朝は非業の最期を遂げました。
この戦いが初陣(初めての戦争)だった義朝の13歳の息子・源頼朝(みなもとのよりとも)も、逃げる途中で吹雪にあい、父親たちとはぐれて平氏の軍に捕まってしまいました。本来なら死刑になるところですが、清盛の義理の母親(池禅尼)が「亡くなった自分の息子に顔が似ていて可哀想だ」と命乞いをしてくれたおかげで、奇跡的に死刑を免れます。頼朝は伊豆(静岡県)へと島流しになり、ここから約20年間の長く孤独な流人生活が始まりました。
頼朝の異母弟で、当時まだほんの小さな子どもだった牛若丸(のちの天才武将・源義経)も平氏に捕らえられました。しかし、牛若丸の美しい母である常盤御前(ときわごぜん)が、子供たちの命を助けることを条件に清盛の側室(お妾さん)になることを決意し、命を救われました。牛若丸は京都の鞍馬寺(くらまでら)へ預けられ、密かに打倒平氏の闘志を燃やしながら修行を積むことになります。二人の兄弟を生かしたことが、のちに平氏の運命を狂わせるのです。
平治の乱で最大のライバルであった源氏を徹底的に叩き潰した平清盛は、武士の頂点に君臨します。後白河上皇からの厚い信頼を得た清盛は、武士として初めて政治の最高職である太政大臣(だいじょうだいじん)に大出世!一族で高い役職を独占し、日宋貿易で莫大なお金も手に入れ、「平家にあらずんば人にあらず」と言われるほどの絶頂期、平氏政権の黄金時代へと歴史のコマを大きく進めていくことになります。