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鎖国令(第5次) さこくれい(だいごじ) 政治 ☆ 重要

🕒 1639年7月5日
📍 場所: 長崎県 長崎 👤 関連: 徳川家光
1639年(寛永16年)、江戸幕府の第3代将軍・徳川家光が発布した、ポルトガル船の来航を全面的に禁止する極めて厳格な法令です。直前に起きた島原・天草一揆に衝撃を受けた幕府は、キリスト教の流入を完全に断ち切るために、莫大な利益を生んでいたポルトガルとの貿易を打ち切る決断を下しました。この法令によって外国との交流はオランダと中国などに限定され、日本人の海外渡航禁止とあわせて、約200年続く鎖国体制が完成する歴史の決定的な転換点となりました。
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前段の危機!島原・天草一揆の衝撃

1637年に勃発した島原・天草一揆は、江戸幕府に計り知れない衝撃を与えました。キリスト教徒の農民たちが団結し、幕府の正規軍を相手に数ヶ月も激しい籠城戦を繰り広げたからです。「もしキリスト教徒が外国の軍隊と手を結んで反乱を起こせば、幕府は本当に滅ぼされてしまうかもしれない」。この恐るべき現実を目の当たりにした第3代将軍・徳川家光は、キリスト教に対する警戒心をかつてないほど高めることになりました。
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ポルトガルへの強い疑念

幕府が最も強く警戒したのが、熱心にカトリックを布教しようとするポルトガル人でした。彼らは貿易で莫大な利益を得る一方で、商人の中に宣教師を紛れ込ませて日本へ密入国させていると疑われていました。一揆をなんとか鎮圧した幕府は、「ポルトガル船が来航し続ける限り、日本国内からキリスト教の根を完全に断ち切ることは不可能だ」と痛感します。国家の安全を守るため、幕府はポルトガルとの関係をどうするかという最終判断を迫られました。
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第5次鎖国令の断行

1639年(寛永16年)、幕府はついに決定的な行動に出ます。それがテストで頻出の「第5次鎖国令」の発布です。この法令の最も重要なポイントは、ポルトガル船の来航を全面的に禁止したことです。「今後、ポルトガル船が日本の港に入った場合は、直ちに船を打ち壊し、乗組員は全員死刑にする」という非常に厳格で容赦のない命令でした。約100年間にわたって続いていた日本とポルトガルとの南蛮貿易は、この日を境に完全に断ち切られたのです。
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巨額の利益を捨てる覚悟

ポルトガルとの貿易を打ち切ることは、幕府にとっても非常に苦しい決断でした。当時、ポルトガル船がもたらす中国産の生糸(絹の原料)などは日本国内で飛ぶように売れており、莫大な利益を生み出していたからです。しかし将軍家光は、「目の前のお金よりも、幕府の支配体制と国家の安全を守ることの方がはるかに重要である」と判断しました。経済的な大打撃を覚悟してでも、キリスト教の脅威を物理的に排除する道を選んだのです。
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残されたオランダの思惑

この幕府の決断を誰よりも喜んだのは、同じヨーロッパの国であるオランダでした。オランダはプロテスタントの国であり、「私たちはキリスト教の布教は一切しません。貿易だけが目的です」と幕府に強くアピールしていました。さらに、島原・天草一揆の際には、幕府軍に協力して反乱軍の城に海から大砲を撃ち込み、幕府への絶対的な忠誠を示していたのです。オランダはライバルであるポルトガルを追い落とし、日本との貿易を独占する絶好のチャンスを掴みました。
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貿易の窓口「出島」への移動

ポルトガル人が追放された後、長崎の町には巨大な人工島である出島(でじま)が空っぽの状態で残されました。幕府は1641年、平戸(長崎県)にあったオランダの商館(貿易の拠点)を、この出島へと強制的に移転させます。「オランダ人もキリスト教徒であることに変わりはない。自由にさせておくのは危険だ」と考えた幕府は、オランダ人を出島の中に完全に隔離し、厳重な監視の下でしか日本と貿易ができない仕組みを作り上げたのです。
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中国船の管理と「唐人屋敷」

ポルトガルが排除された後、日本が貿易を許したもう一つの相手が、隣国の中国(当時は明、のちに清)でした。中国船もキリスト教の布教とは無関係であったため、引き続き長崎への入港が認められました。しかし、彼らもまた長崎の町を自由に歩き回ることは許されず、のちに「唐人屋敷(とうじんやしき)」という専用の居住区に集められて厳しく監視されることになります。幕府は、外国人との接触を最小限に抑えるための徹底した隔離政策を進めていきました。
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「四つの口」による外交管理

こうしてヨーロッパの国はオランダのみとなり、アジアでは中国、朝鮮、琉球(沖縄)、アイヌ(北海道)とのみ交流が続けられました。長崎、対馬、薩摩、松前の「四つの口」と呼ばれる限られた窓口だけが開かれ、それ以外の場所での外国との交流は固く禁じられました。幕府が外交と貿易の権利を完全に独占し、海外からの情報や富を大名に渡さず、自分たちだけでコントロールする強固な支配体制がここに築き上げられたのです。
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マカオからの使者への無情な処断

鎖国令が出された翌年の1640年、ポルトガルの拠点であったマカオから、貿易の再開を求める使節団が長崎にやってきました。しかし、幕府の対応は冷酷を極めました。「命令を破って来航した者は死刑である」。幕府は使節団の乗組員61名を容赦なく処刑し、生き残ったわずかな船員だけをマカオへ送り返して「二度と日本に来るな」と強烈な警告を与えました。この凄惨な事件により、日本が二度と扉を開かないという固い決意が世界に示されたのです。
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「鎖国」の完成と200年の平和

1639年のこの第5次鎖国令をもって、日本人の海外渡航禁止と外国船の来航制限という一連の政策が最終的な完成を見ました。のちに鎖国と呼ばれるこの体制により、日本は外国からの侵略や宗教的な混乱から国を守ることに成功します。その一方で、世界最先端の科学革命や産業革命の流れからは取り残されることになりました。この法令は、日本が独自の文化と約200年にわたる平和な江戸時代を築き上げる、歴史の決定的な契機となったのです。
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