江戸幕府の第5代将軍・徳川綱吉(とくがわつなよし)は、学問が大好きで真面目な性格でしたが、一つ大きな悩みを抱えていました。それは、次の将軍となる「男の子(跡継ぎ)」がなかなかできないことでした。心配した綱吉の母である桂昌院(けいしょういん)が、お坊さんに相談したところ、「前世で生き物をたくさん殺した報いです。生き物、とくに将軍様の生まれ年である『犬』を大切にすれば、必ず世継ぎが生まれますよ」とアドバイスされました。これがキッカケになったという説が有名です。
最初は「犬猫をいじめないように」という軽いお触れでしたが、真面目すぎる綱吉はエスカレートしていきます。1685年頃から約24年間にわたり、なんと135回以上も動物を保護する法律が出されました。これらをまとめて生類憐れみの令と呼びます。対象は犬や猫だけでなく、牛、馬、鳥、魚、さらには蚊やハエなどの虫にまで及びました。「魚を釣ってはいけない」「捨て子や行き倒れの人も保護しろ」など、内容はどんどん極端になり、人々の生活に大きく干渉するようになっていきました。
とくに特別扱いされたのが犬です。江戸の町で犬がケンカをしていると、役人が飛んできて「お犬様、おやめください!」と仲裁に入り、大名ですら道を譲らなければなりませんでした。さらに綱吉は、江戸の中野(現在の東京都中野区)などに東京ドーム数十個分という巨大な「犬小屋」を建設し、なんと約10万匹もの野犬を税金で超VIP待遇で飼育したのです。毎日のエサ代だけで莫大なお金がかかり、その負担はすべて農民や庶民に重くのしかかりました。
この法律が「天下の悪法」と呼ばれた最大の理由は、違反した時の罰が異常に重かったことです。犬を叩いたり石を投げたりしただけで逮捕され、犬を殺せば切腹や死刑、島流しになることもありました。さらに「あいつが犬をいじめていました」と密告すればご褒美がもらえる制度まで作られたため、江戸の町は「誰に見られているか分からない」という疑心暗鬼の密告社会になってしまいました。庶民は常にお犬様の機嫌を伺いながら、ビクビクして生活する地獄の日々だったのです。
長い間「狂った法律」と言われてきた生類憐れみの令ですが、最近の歴史の研究では評価がガラリと変わってきています。当時の日本は戦国時代の名残があり、「人を殺しても平気」「弱い者を切り捨てる」という野蛮な空気がまだ残っていました。綱吉は、学問(儒教)の教えを広め、武力ではなく法律で国を治める文治政治(ぶんちせいじ)を目指していたのです。「生き物の命を大切にしなさい」と徹底的に教育することで、野蛮な武士たちを平和な社会に馴染ませる高度な政策だったとも言われています。
1709年、徳川綱吉がこの世を去ります。綱吉は死の直前まで「自分が死んでも、この法律だけは絶対に続けてくれ」と遺言を残しました。しかし、次の第6代将軍・徳川家宣(とくがわいえのぶ)と、優秀な学者である新井白石(あらいはくせき)は、世の中の人々がどれほど苦しんでいるかをよく知っていました。彼らは綱吉の葬儀が終わるやいなや、即座に生類憐れみの令を廃止しました。このニュースに江戸中の人々は歓喜し、新しい時代を大歓迎したのです。