戦国最強と呼ばれた武田信玄が亡くなった後、息子の武田勝頼(たけだかつより)が武田家を継ぎました。勝頼は「偉大な父を超えてみせる!」とやる気に満ちあふれ、領土を広げるために徳川家康の領地である三河国(愛知県)へ次々と猛攻を仕掛けます。当時、無敵の強さを誇った「武田騎馬隊」の圧倒的なパワーの前に、家康は防戦一方で大ピンチに陥っていました。
1575年、勝頼率いる約1万5千の大軍が、徳川方の重要拠点である「長篠城(ながしのじょう)」を完全に包囲しました。城を守る奥平信昌とわずか500人の兵士たちは、激しい攻撃に耐えながら必死に防衛しますが、食料も矢も底をつきかけ、ついに落城の危機に瀕します。家康に助けを求めたくても、城の周りは武田軍に囲まれていて、一歩も外に出られない絶体絶命の状況でした。
この大ピンチに「私が伝令に行きます!」と名乗り出たのが、城の足軽である鳥居強右衛門(とりいすねえもん)です。彼は夜の闇に紛れ、武田軍の厳しい警戒網を泳いで突破!なんと約65kmもの山道を走り抜き、岡崎城にいた家康と織田信長に「長篠城を助けてください!」と伝えることに成功します。信長・家康の大軍がすぐに出発すると知った強右衛門は、休むことなく再び城へ向かって走り出しました。
しかし、城に戻る直前で強右衛門は武田軍に捕まってしまいます。勝頼は「城に向かって『援軍は来ない、諦めて降伏しろ』と叫べ。そうすれば命を助けてやる」と命令しました。しかし強右衛門は、城の仲間に向かって「あと少しの辛抱だ!すぐに信長様の大軍が助けに来るぞ!」と、自分の命と引き換えに本当のことを叫んだのです。彼はその場で処刑されましたが、この魂の叫びを聞いた城兵たちは最後まで戦い抜く決意を固めました。
強右衛門の死の直後、織田信長と徳川家康の連合軍・約3万8千人という桁違いの大軍が長篠に到着しました。信長の目的は、ただ長篠城を救うことではありません。最強の敵である武田軍を、ここで完全に叩き潰すことでした。信長の軍勢には、ヨーロッパから伝わったばかりの最新兵器である鉄砲が約3000丁も用意されていました。当時の常識をはるかに超える数であり、信長の本気度が伺えます。
信長は、武田軍の最大の武器である「騎馬隊の突撃」を封じるため、画期的なアイデアを思いつきます。それは、丸太を結びつけて作った馬防柵(ばぼうさく)という巨大な防護柵を、戦場に何キロにもわたって設置することでした。この柵があれば、馬はそれ以上前に進めず、突撃のスピードと破壊力を完全に無力化できます。信長は、敵の長所を冷静に分析し、それを封じ込めるための完璧な罠を仕掛けたのです。
当時の鉄砲は、一発撃つと次の弾を込めるまでに数十秒もかかるという弱点がありました。そこで信長が考え出したと言われるのが「三段撃ち」です。鉄砲隊を3つのグループ(列)に分け、「第1列が撃つ間に、第2列・第3列が弾を込め、順番に前に出て撃つ」というシステムです。これにより、雨のように途切れることなく弾を連射できるようになり、鉄砲の弱点を見事に克服した画期的な新戦術が誕生しました。
ついに両軍が激突!誇り高き武田軍の騎馬隊は、柵の向こうの織田軍に向かって猛然と突撃を開始します。しかし、馬防柵に阻まれて動きが止まったところへ、信長の鉄砲隊が一斉射撃!バタバタと倒れる仲間を乗り越えて何度も突撃を繰り返す武田軍でしたが、連続して放たれる銃弾の前に、歴戦の勇将たちが次々と命を落としていきました。最強の騎馬隊が、最新兵器の前にあっけなく崩れ去った瞬間です。
圧倒的な火力の前に手も足も出なくなった武田勝頼は、ついに退却を決断します。しかし、この戦いで武田軍は重臣たちをはじめ、多くの優秀な武将と約1万人もの兵士を失うという壊滅的なダメージを受けました。この大敗北により、日本中から恐れられた名門・武田家は一気に衰退の道を転げ落ち、数年後には信長によって完全に滅ぼされてしまう運命をたどることになります。
この長篠の戦い(ながしののたたかい)は、ただの勝敗以上の大きな意味を持っていました。それまでの「刀や槍を持ち、大将同士が一騎討ちをする」という個人の武力に頼る戦い方から、「鉄砲という最新兵器を使い、集団でシステマチックに戦う」という近代的な戦術へと、日本の軍事の常識が完全にひっくり返ったのです。この戦いを制した織田信長は、天下統一への道を爆速で駆け上がっていくことになります。