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渡来人の移住 とらいじんのいじゅう 出来事

🕒 666年 📜 飛鳥時代
📍 場所: 日本全国 👤 関連: 天智天皇
666年、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れて滅亡した百済(くだら)から、約2,000人もの男女が日本へ逃れてきた集団亡命事件です。彼らは渡来人(とらいじん)として日本に受け入れられました。祖国を失った彼らは、大陸の最新の学問、法律、建築技術、武器の製造方法などを日本に伝えました。 天智天皇(中大兄皇子)は彼らの知識をフル活用して防衛網を築き、天皇を中心とした律令国家を建設していきます。日本の文化と政治システムが飛躍的に進化する決定的な契機となりました。
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炎上する百済と白村江の敗北

663年、日本は同盟国であった百済(くだら)を救うため、朝鮮半島に大軍を派遣しました。しかし、「白村江の戦い」で唐と新羅の強大な連合軍に大敗北を喫してしまいます。頼みの綱だった日本の水軍が壊滅したことで、百済は完全に滅亡してしまいました。祖国を焼かれ、唐の過酷な支配下に置かれることを恐れた多くの百済の人々は、生き延びるために決死の覚悟で海を渡って、日本へ逃れるという苦渋の決断を下しました。
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666年、約2,000人の大移動

666年、命からがら船に乗って日本に辿り着いた百済の難民は、男女合わせて約2,000人にも上りました。彼らの中には、王族や貴族、優秀な行政経験を持つ役人、そして高度な技術を持った職人たちが数多く含まれていました。中大兄皇子(のちの天智天皇)は、これほどの大規模な集団亡命を拒絶することなく、国家として彼らを「渡来人(とらいじん)」として手厚く受け入れるという懐の深い対応を見せます。
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帰れなくなった高句麗の使者

ちょうど同じ頃、百済の北にあった強国・高句麗(こうくり)からも日本へ外交の使者が来ていました。しかし、高句麗もまた唐からの激しい攻撃を受けて滅亡の危機に瀕しており(のちに668年に滅亡)、彼らは祖国へ帰る道を完全に絶たれてしまいました。百済の人々だけでなく、帰る場所を失った高句麗の優秀な使者たちもまた、そのまま日本に留まり、日本政府のためにその豊かな知識と才能を捧げることになったのです。
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国家の危機と渡来人の知識

なぜ日本政府は、大量の渡来人を手厚く保護したのでしょうか。それは、白村江での敗戦により「いつ唐の大軍が日本へ攻めてくるかわからない」という絶体絶命の危機にあったからです。最強の帝国・唐と戦うためには、唐の最新の戦術や兵器、そして防衛施設の作り方を知っている大陸の人々の生きた知識が喉から手が出るほど必要でした。渡来人たちは、日本の危機を救う最強のアドバイザーとして期待されたのです。
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最新鋭の防衛要塞・水城

渡来人たちの最初の大きな仕事は、日本の防衛システムの構築でした。彼らの指導のもと、九州の大宰府を守るために巨大な堤防である「水城(みずき)」や、朝鮮半島式の山城である大野城、基肄城(きいじょう)などが急ピッチで建設されました。高度な土木技術を持つ彼らがいなければ、これらの最新鋭の要塞を短期間で完成させることは不可能であり、当時の日本の安全保障は彼らの腕にかかっていたと言っても過言ではありません。
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近江大津宮の建設と技術力

防衛力を高めるため、中大兄皇子は海から離れた内陸の近江国(滋賀県)へと都を移し、新しい近江大津宮を建設しました。この新都の設計や建築にも、渡来人たちの最先端の建築技術がふんだんに使われています。彼らは瓦の焼き方や、巨大な木造建築を建てるための正確な測量や計算方法など、当時の日本人が持っていなかった大陸のノウハウを惜しみなく提供し、新しい国家のシンボルである美しい都を築き上げていきました。
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律令国家づくりへの貢献

渡来人たちの貢献は、土木や建築などのモノづくりだけではありません。天皇を中心とした強い国を作るためには、法律や役所のルールが必要です。唐の優れた政治システムや行政文書の作成方法に精通していた百済の元高級官僚たちは、日本初の本格的な法律と言われる「近江令」の作成など、律令国家(りつりょうこっか)の設計図を描くための重要なブレーン(知恵袋)として、朝廷の中枢で大いに活躍することになります。
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戸籍作りと漢字の普及

国家が国民の数を把握し、税金や兵士を集めるために作られた日本初の全国的な戸籍「庚午年籍(こうごねんじゃく)」の作成にも、渡来人が深く関わっていました。膨大な人々の名前や土地の記録を正確に漢字で書き残すためには、読み書きのプロフェッショナルが必要です。彼らは日本に正しい漢字の使い分けや文書管理のシステムを定着させ、日本の行政能力を飛躍的に向上させるという非常に大きな役割を果たしました。
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貴族になった渡来人たち

朝廷に不可欠な存在となった渡来人たちは、その素晴らしい功績を認められ、日本の貴族としての身分と新しい日本の名字(氏姓)を与えられました。彼らには広大な土地が与えられ、東国(関東地方)などに移住して未開の地域の開拓を進めた一族もいます。彼らは日本の社会に溶け込み、日本人と結婚して子孫を残していきました。現在でも、彼らが切り拓いた土地の地名や神社の名前に、その歴史の確かな痕跡を見る事ができます。
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大陸文化が花開いた歴史の転換点

祖国を失うという大きな悲劇から始まった百済の人々の集団亡命でしたが、彼らがもたらした知識と技術は、古代日本の歴史を劇的に早送りにしました。もし渡来人の受け入れがなければ、日本が唐のような強固な律令国家を完成させ、飛鳥時代から奈良時代へと続く華やかな文化を築き上げることはずっと遅れていたでしょう。彼らの存在は、日本の政治と文化が世界レベルへと進化を遂げる歴史の決定的な分岐点となったのです。
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