鎌倉時代の末期、幕府の力は衰え、武士たちの不満が爆発寸前になっていました。この状況を見た後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、自ら政治を行うために幕府を倒す計画(元弘の乱)を実行します。一度は失敗して隠岐島(島根県)に流罪となりますが、天皇は決して諦めず島を脱出しました。天皇の執念に呼応し、楠木正成などの悪党と呼ばれる武士たちが各地でゲリラ戦を展開し、幕府を大いに苦しめていました。
幕府が西日本を監視し、朝廷をコントロールするための最重要拠点が、京都に置かれた六波羅探題(ろくはらたんだい)でした。承久の乱の後に設置されて以来、100年以上にわたって幕府の権威の象徴として君臨してきました。当時のトップ(探題)は北条仲時と北条時益の二人です。彼らは、押し寄せる天皇方の反乱軍を鎮圧するため、京都の町を舞台にして激しい防衛戦を繰り広げることになります。
六波羅探題に最初に大きなダメージを与えたのは、播磨国(兵庫県)の武士である赤松円心(あかまつえんしん)でした。彼は後醍醐天皇の命令を受けて挙兵し、数千の兵を率いて京都へ攻め込みます。円心の軍勢は機動力を活かして京都の町中で激しい市街戦を展開し、六波羅の軍勢を大いに苦しめました。しかし、六波羅探題も関東から派遣されたエリート部隊であり、決着はなかなかつきませんでした。
苦戦する六波羅探題を救うため、鎌倉幕府は関東から大軍を派遣します。その総大将に選ばれたのが、名門・足利氏の当主である足利高氏(のちの足利尊氏)でした。尊氏は幕府の中でもトップクラスの実力と人望を持つ武将です。彼が京都へ向かえば、天皇方の反乱はすぐに鎮圧されると誰もが信じていました。しかし、尊氏の胸の奥には、幕府の期待とは全く別の、ある重大な決意が秘められていたのです。
京都へ向かう道中、足利尊氏は丹波国(京都府北部)で突如として進軍を止め、なんと「幕府を裏切り、天皇方に味方する」という衝撃の宣言を行いました。名門である足利氏が幕府に反旗を翻したというニュースは、日本中を駆け巡ります。幕府に不満を持っていた多くの武士たちが「尊氏様が立つなら!」と次々に彼の軍勢に合流し、討伐軍はあっという間に幕府を滅ぼすための巨大な反乱軍へと変貌したのです。
1333年(元弘3年)5月7日、数万に膨れ上がった尊氏の軍勢は、赤松円心らとともに六波羅探題への総攻撃を開始しました。かつての味方である最強の武将が、最大規模の軍隊を率いて襲いかかってきたのですから、六波羅側はひとたまりもありません。京都の町は業火に包まれ、壮絶な戦いの末、ついに100年以上続いた幕府の西日本支配の象徴である六波羅探題は、完全に陥落してしまいました。
六波羅が炎上する中、トップである北条仲時と北条時益は、天皇方の光厳天皇や後伏見上皇らを連れて、本拠地である鎌倉を目指して東へ逃亡を図りました。しかし、道中の近江国(滋賀県)でもすでに反乱軍が待ち構えており、時益は野盗の襲撃を受けて討ち死にしてしまいます。残された仲時らの一行も、琵琶湖の東にある番場(ばんば)という宿場町で、反乱軍の軍勢に完全に包囲されてしまいました。
逃げ道を完全に絶たれた北条仲時は、もはやこれまでと覚悟を決めます。彼は連れ出していた天皇や上皇たちを解放し、彼らの安全を確保した後、近くの蓮華寺(れんげじ)というお寺の境内に入りました。そして、仲時をはじめとする北条氏の武士や家臣たち432名が、本堂の前で次々と自刃(切腹)するという壮絶な最期を遂げたのです。これにより、西日本における鎌倉幕府の勢力は完全に消滅しました。
西の拠点である六波羅探題が足利尊氏によって滅ぼされたという大ニュースは、すぐさま東国(関東)に伝わりました。この勝利に勇気づけられたのが、上野国(群馬県)の武将・新田義貞(にったよしさだ)です。「今こそ北条氏を倒す時だ!」。義貞はすぐさま挙兵し、鎌倉を目指して猛烈な勢いで進軍を開始します。六波羅の陥落は、東国に眠っていた反幕府のエネルギーを一気に爆発させる起爆剤となったのです。
足利尊氏による六波羅探題の戦いでの大勝利は、長きにわたった鎌倉幕府の権威を完全に地に堕としました。もし尊氏の裏切りと六波羅の陥落がなければ、新田義貞の鎌倉攻めも成功せず、歴史は全く違う方向に進んでいたでしょう。この劇的な事件は、建武の新政から室町幕府へと続く新しい時代の扉を開き、武家社会の構造を根本から塗り替える、歴史の決定的な契機となったのです。