大化の改新を成功させ、強い国づくりを進めていた天智天皇(中大兄皇子)。彼には大きな悩みがありました。「自分が死んだ後、誰に天皇を譲るか?」です。当時は「弟」に譲るのが一般的なルールだったので、共に戦ってきた優秀な弟・大海人皇子が有力候補でした。しかし、天智天皇は晩年になって「やっぱり自分の可愛い息子である大友皇子に継がせたい!」と強く思うようになったのです。これが悲劇の始まりでした。
兄の気持ちの変化に気づいた大海人皇子は「このまま宮廷(近江大津宮)にいたら、命を狙われる!」と危険を察知しました。そこで「私は政治の世界から引退して、お坊さんになります」と嘘をつき、奥さん(後の持統天皇)を連れて奈良県の奥深く、吉野(よしの)の山奥へと逃げ込んだのです。天智天皇はこれを許しましたが、「虎に翼をつけて野に放ったようなものだ」と恐れる声もありました。
671年、天智天皇が病気で亡くなると、息子の大友皇子が政治の実権を握りました(近江朝廷)。しかし、大友皇子の政治は、地方の豪族たちから「税金が重すぎる!」「都を作るために働かされすぎだ!」と大不評でした。一方、吉野に隠れていた大海人皇子のもとには、「近江朝廷を倒してください!」と不満を持つ豪族たちからの連絡が次々と舞い込んでくるようになったのです。
672年6月、「大友皇子が私を殺そうとしている」という情報を得た大海人皇子は、ついに反乱を決意します!これを干支(えと)にちなんで壬申の乱(じんしんのらん)と呼びます。大海人皇子は吉野を急いで脱出し、東の地方(美濃国=岐阜県など)へ向けて猛ダッシュしました。なぜ東へ向かったのか?それは、東国の豪族たちの強大な軍事力を味方につけるためです。
大海人皇子の予想通り、近江朝廷に不満を持つ東国の豪族たちが数万人の大軍となって味方してくれました。一方の大友皇子も「反乱軍を討伐せよ!」と命令を出しますが、地方の豪族たちは大友皇子の命令を無視し、なかなか兵が集まりません。こうして、大友皇子率いる「政府軍」と、大海人皇子率いる「地方豪族の連合軍」という、日本の中心を二分する前代未聞の巨大な内乱が勃発したのです。
勢いに乗る大海人皇子軍は、大友皇子のいる近江大津宮(滋賀県)へと怒涛の進撃を開始します。7月、琵琶湖から流れ出る川にかかる「瀬田の唐橋(せたのからはし)」で、両軍が激突する最終決戦が行われました。大友皇子軍も橋の板を外して必死に抵抗しますが、大海人皇子軍の猛攻の前に防衛線はついに突破され、政府軍は総崩れとなってしまいました。
戦いに敗れ、味方も逃げ去って孤立した大友皇子は、もはやこれまでと悟り、わずか24歳で首を吊って自害しました。こうして約1ヶ月に及んだ壬申の乱は、反乱を起こした弟・大海人皇子が、正規の政府である大友皇子の軍を打ち破るという、歴史的な「大逆転勝利」で幕を閉じたのです。古代日本において、反乱軍が政権を倒した非常に珍しいケースとなりました。
勝利した大海人皇子は、都を飛鳥(奈良県)の飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)に戻し、天武天皇(てんむてんのう)として即位しました。内乱に勝って実力でトップの座を奪い取った天武天皇の権力は、誰も逆らえないほど超強力なものになりました。「天皇を中心とした、法律で国をまとめる強い国(律令国家)」を作るという天智天皇の夢を、天武天皇が圧倒的なパワーで引き継ぎ、完成させていくことになります。