645年の乙巳の変(いっしのへん)で蘇我氏を倒し、大化の改新をスタートさせた中大兄皇子。しかし、彼はすぐに天皇にはなりませんでした。叔父の孝徳天皇や母の斉明天皇(さいめいてんのう)を天皇に立て、自分は皇太子として実権を握り続けました。政治改革の恨みを買うリスクを避けつつ、より自由に国家の土台作りに専念するためだったと言われています。彼が正式な天皇になるまでには、なんと20年以上もの長い歳月が必要でした。
661年、朝鮮半島の百済(くだら)を助けるために出兵した母・斉明天皇が、遠征先の九州で急死するという悲劇が起きました。国家の緊急事態に、中大兄皇子は天皇の位に就かないまま、皇太子の立場で政治と戦争の指揮をとり続ける「称制(しょうせい)」という異例の体制をとります。母の死を悲しむ暇もなく、彼は唐・新羅の連合軍という巨大な脅威に立ち向かう最高司令官として、日本の運命を背負うことになったのです。
663年、日本と百済の連合軍は、朝鮮半島の白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)で唐と新羅の巨大連合軍と激突します。しかし、軍事力や戦術で圧倒的に勝る唐の水軍の前に、日本の船は次々と炎上し、壊滅的な大敗を喫してしまいました。何万もの兵士を失い、生き残った者たちは命からがら日本へと逃げ帰ります。「次は日本本土が唐に攻め込まれるかもしれない」。中大兄皇子は、かつてない国家存亡の絶望的な危機に直面しました。
唐の侵略に怯える中大兄皇子は、すぐさま西日本の防衛強化に乗り出します。九州に「防人(さきもり)」と呼ばれる警備の兵士を置き、敵の接近を知らせるのろし台「烽(とぶひ)」を設置しました。さらに、太宰府の近くに水城(みずき)という巨大な防壁や、山城を次々と築き上げます。白村江での敗戦というトラウマが、日本を一つの「戦う国家」として団結させ、皮肉にも中央集権化を猛烈なスピードで進める決定的な契機となったのです。
667年、中大兄皇子は人々を驚かせる決断を下します。長年慣れ親しんだ飛鳥(奈良県)の地を捨て、山を越えた琵琶湖のほとりにある近江大津宮(おうみおおつのみや:滋賀県大津市)へ突然都を移したのです。飛鳥は海から川を伝って敵が攻め込みやすい地形だったため、内陸部へ逃げて防衛ラインを下げる必要がありました。故郷を離れることに多くの貴族や民衆が不満を持ちましたが、国家を守るための冷徹な大決断でした。
近江大津宮へ遷都した翌年の668年、大化の改新から実に23年もの時を経て、中大兄皇子はついに正式な天皇の座に就きました。これが第38代・天智天皇(てんじてんのう)の誕生です。外国からの侵略という未曾有の国難を乗り越えるためには、天皇という絶対的な権威のもとで国を一つにまとめる強力なリーダーシップが必要不可欠でした。ここに、名実ともに日本を率いる巨大な権力が完成したのです。
天智天皇には、共に大化の改新を戦い抜いた優秀な弟、大海人皇子(おおあまのおうじ:のちの天武天皇)がいました。大海人皇子は皇太弟として兄を支えていましたが、天智天皇は次第に自分の息子である大友皇子(おおとものおうじ)を可愛がり、次の天皇にしたいと考えるようになります。苦労を共にした兄弟の間に、権力を巡る暗く冷たい溝が生まれ始めました。この亀裂が、のちに日本を二分する大内乱の端緒を開くことになります。
670年、天智天皇は日本の歴史を変える画期的な政策を実行します。日本で初めてとなる全国規模の戸籍「庚午年籍(こうごねんじゃく)」を作成したのです。誰がどこに住んでいて、どんな家族がいるのかを国が完全に把握することで、公平に税金や兵役を負担させることができるようになりました。氏姓(氏族のルーツ)を確定させるこの戸籍は、天皇を中心とする律令国家の骨格を作り上げる歴史の重要な分岐点となりました。
さらに天智天皇は、国を治めるためのきちんとした法律の整備にも取り組みました。それが、日本初の体系的な法典とされる「近江令(おうみりょう)」です。これまでのような豪族たちの曖昧なルールや慣習ではなく、国家の役人の仕事や政治の仕組みを文字にして明確に定めたのです。この法律によって、日本の政治は「人が治める」形から「法が治める」という近代的な国家のスタイルへと大きく進化していくことになります。
671年、強力なリーダーシップで日本をまとめ上げた天智天皇は、病によりこの世を去りました。彼が死の直前に後継者に指名したのは、弟の大海人皇子ではなく、息子の大友皇子でした。身の危険を感じて吉野(奈良県)へ逃れていた大海人皇子は、兄の死後についに反旗を翻し、古代最大の内乱である壬申の乱(じんしんのらん)が勃発します。天智天皇が築き上げた中央集権国家の土台は、この内乱の勝利者によってさらに強固なものへと受け継がれていくのです。