本圀寺の変 ほんこくじのへん

🕒 1569年1月5日 〜 1569年1月10日 🍵 室町時代
📍 場所: 京都府 本圀寺(京都府京都市) 👤 関連: 織田信長,足利義昭,明智光秀
1569年、織田信長が足利義昭を第15代将軍に擁立した直後、京都の六条本圀寺(ほんこくじ)で起きた大規模な将軍襲撃事件です。信長が岐阜へ帰った隙を狙い、畿内奪還を目論む三好三人衆や斎藤龍興らの大軍が将軍の仮御所を急襲しました。守備隊の明智光秀らの決死の防戦と味方の援軍により見事撃退に成功。急報を聞いた信長が豪雪の中をわずか2日で岐阜から京都へ電撃帰還したことでも有名です。この事件を機に信長は強固な二条城の建設を開始し、畿内の支配体制をさらに強める決定的な契機となった、戦国時代の重要な歴史の分岐点です。
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信長の上洛と義昭の将軍就任

1568年、戦国時代のカリスマ・織田信長は、前将軍の弟である足利義昭をサポートして京都へ上洛することに成功しました。信長の圧倒的な軍事力を背景に、足利義昭は室町幕府の第15代将軍に就任します。義昭は、ひとまず京都の六条にある本圀寺(ほんこくじ)という大きなお寺を臨時の御所(仮の住まい)として暮らし始めました。信長による天下統一への第一歩が綺麗に決まり、京都には久しぶりに穏やかな平和が戻ってきたかのように見えました。
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信長の美濃帰還と京都の空白

足利義昭を将軍の座につけ、京都の治安をある程度整えた織田信長は、自分の本拠地である美濃国(現在の岐阜県)の岐阜城へと帰ることにしました。「これでひとまず安心だろう」と考えた信長は、主要な大軍を引き連れて京都を離れます。当時の京都に残されたのは、将軍の側近であった明智光秀(あけちみつひで)や細川藤孝らが率いる、わずか数千人の守備隊だけでした。この信長の油断とも言える京都の軍的な空白が、思わぬ大事件を呼び寄せることになります。
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三好三人衆の牙と逆襲計画

信長が京都を去ったというニュースを聞いて、激しく牙を剥いた勢力がいました。信長によって京都から追い出されていた三好三人衆(みよしさんにんしゅう:三好長逸・三好政康・岩成友通)や、信長に国を奪われた斎藤龍興らです。「信長がいない今こそ、義昭を暗殺して京都を奪い返す最大のチャンスだ!」。彼らはすぐさま数万の軍勢をかき集め、雪が降る極寒の畿内を秘密裏に進軍し、京都にいる将軍・足利義昭の首を狙って奇襲作戦を敢行したのです。
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仮御所・本圀寺への急襲

1569年1月5日、三好三人衆の軍勢が突如として京都の本圀寺を完全に包囲しました。お寺の周りはたちまち数万の敵兵で埋め尽くされ、激しい怒号が響き渡ります。本圀寺はもともとただのお寺であり、本格的な戦い(合戦)に耐えられるような頑丈な石垣や深い堀といった城の設備は一切ありませんでした。あまりにも突然の急襲に、お寺の中にいた将軍・義昭や側近たちは大パニックに陥り、まさに絶体絶命のピンチを迎えることになったのです。
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明智光秀ら守備隊の死闘

この大ピンチに、お寺の防衛隊の指揮を執ったのが、のちに歴史を大きく揺るがすことになる明智光秀でした。光秀は冷静沈着にお寺の門を固めさせ、少ない兵力を見事に配置して、押し寄せる三好軍の猛攻を必死に食い止めました。また、義昭の忠実な家臣である細川藤孝も刀を振るって最前線で激しく戦いました。お寺の建物が次々と燃え上がり、矢や鉄砲の弾が飛び交う生々しい地獄絵図の中で、守備隊は「将軍様を絶対にお守りする」という執念だけで戦い続けました。
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激戦と三好軍の敗退

本圀寺での死闘が続く中、将軍のピンチを知った近隣の織田方の武将たち(池田勝正や三好義継、浅井長政の援軍など)が、次々と京都へ向けて駆けつけました。彼らは本圀寺を包囲していた三好三人衆の軍勢に対して、後ろから猛烈な一撃を加えます。守備隊の決死の奮戦と、この絶妙なタイミングで到着した味方の援軍の挟み撃ちにより、さすがの三好軍も大混乱に陥りました。激しい戦闘の末、一歩も引かない織田方の気迫に押され、三好軍はついに撤退していきました。

岐阜への急報と信長の激怒

一方、京都での襲撃事件の第一報は、岐阜城にいた織田信長のもとへと凄まじいスピードで届けられました。報告を聞いた信長は、自分の油断が招いた最悪の危機に烈火のごとく激怒しました。「我が奉じた将軍を襲うとは絶対に許さん!」。当時の季節は真冬であり、岐阜から京都へ向かう山道には深い雪が降り積もっていました。周囲の家臣たちは「この大雪では進軍は不可能です」と引き止めましたが、怒れる信長がその言葉に耳を貸すことはありませんでした。
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豪雪を突き進む電撃作戦

信長は、大軍が準備を整えるのを待つ時間さえ惜しみ、わずか数人の側近だけを連れて岐阜城を飛び出しました。大雪が吹き荒れ、足元が凍りつく過酷な山道を、信長は馬を激しく駆ってひたすら西へと突き進みます。寒さで体がかじかみ、馬が倒れそうになるほどの過酷な極限状態の強行軍でしたが、信長の頭の中には「義昭を救う」という一念しかありませんでした。この常識破りの電撃的な猛スピード移動こそが、戦国王・信長の真骨頂だったのです。
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驚異の2日帰還と将軍の驚愕

なんと信長は、普通なら1週間近くかかる岐阜から京都までの距離を、猛吹雪の中わずか「2日」という驚異的なスピードで駆け抜けました。1月10日、雪と泥にまみれた信長が本圀寺に現れた時、すでに戦いは終わっていましたが、将軍・義昭や明智光秀らは信長のあり得ない早さでの到着に言葉を失うほど驚愕しました。信長は義昭の無事を確認して安堵すると同時に、二度とこのような危機を起こしてはならないと、心に固く誓ったのです。
二条城

二条城の建設と支配の強化

この本圀寺の変(ほんこくじのへん)は、信長にある重大な決意をさせました。「お寺では将軍の命を守れない。京都に強固な城を造る必要がある」。信長はすぐさま、京都のど真ん中に頑丈な石垣と深い堀、そして豪華な天守を持つ二条城(二条御所)の建設をスタートさせました。この防衛力の強化と圧倒的な城の完成は、将軍の権威を誇示すると同時に、信長による畿内支配を確固たるものにする決定的な契機となった、室町幕府滅亡へ向かう歴史の分岐点です。
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