1582年6月2日、天下統一を目前にしていた織田信長が、最も信頼していた家臣・明智光秀の裏切りによって自害に追い込まれました(本能寺の変)。「まさか、あの信長様が…!」日本中がパニックに陥る中、光秀は「私が天下を取る!」と京都を制圧し、味方を増やすために急いで手紙を送りまくりました。しかし、誰もが「信長の次は誰が天下を握るのか」と様子見をしており、光秀の思惑通りには進みませんでした。
その頃、豊臣秀吉(羽柴秀吉)は岡山県で毛利氏と戦っていました。信長の死を極秘で知った秀吉と軍師の黒田官兵衛は、すぐさま毛利氏と平和条約(和睦)を結びます。そして、なんと約2万の大軍を引き連れて、岡山から京都までの約200kmを、たったの数日間というあり得ないスピードで猛ダッシュして戻ってきたのです!これを伝説の「中国大返し」と呼びます。
「えっ、もう秀吉が帰ってきたの!?」明智光秀は大慌てです。秀吉が他のどの武将よりも早く戻ってきたため、光秀は味方を十分に集める時間がありませんでした。頼りにしていた親友の細川藤孝や筒井順慶にも「裏切り者には味方できない」と見捨てられ、光秀軍は約1万6千人しか集まりませんでした。一方の秀吉軍は、途中で味方をどんどん吸収し、約4万人の大軍勢に膨れ上がっていたのです。
6月13日、両軍は京都と大阪の県境にある「山崎」という狭い場所で激突します(山崎の戦い)。この場所には天王山(てんのうざん)という小高い山があり、「ここを陣取った方が戦いを有利に進められる」という超重要なポイントでした。現在でも、スポーツや選挙で「勝負の分かれ目」のことを「天王山」と呼ぶのは、この戦いが語源となっています。
天王山を先に占拠したのは秀吉軍でした。高山右近や中川清秀といった武将たちが山の上から光秀軍を激しく攻撃します。光秀軍も「ここで負けたら終わりだ!」と必死に抵抗し、一時は互角の激しい戦いが繰り広げられました。しかし、やはり「4万 対 1万6千」という圧倒的な兵力の差はいかんともしがたく、徐々に光秀軍は押し込まれていき、ついには陣形が崩壊してしまいます。
完全に勝負がついたと悟った明智光秀は、暗闇に紛れて自分の城(坂本城)へ逃げ帰ろうとしました。しかしその途中、京都の小栗栖(おぐりす)という竹やぶを通りかかった際、落ち武者狩りをしていた地元の農民たちに竹槍で突かれ、命を落としてしまいます(諸説あり)。本能寺の変からわずか11日後の出来事でした。天下を握った期間が短すぎたため、光秀の天下は「三日天下」と皮肉交じりに呼ばれることになります。
この山崎の戦いに勝利したことで、豊臣秀吉の運命は劇的に変わります。「誰よりも早く信長様の仇を討った大英雄」という最強の称号を手に入れた秀吉は、織田家の中で誰も逆らえない発言力を持つようになりました。この数週間後に開かれた「清洲会議」で、秀吉は織田家の実権を完全に握り、柴田勝家などのライバルを蹴落として、自らが天下人になるためのロケットスタートを切ったのです。