1864年の禁門の変において、京都で御所に向かって発砲してしまった長州藩(山口県)は、天皇に刃を向ける「朝敵(国賊)」という最悪の烙印を押されてしまいました。激怒した天皇の意向を受け、江戸幕府は全国の大名たちに対して「反逆者である長州藩を直ちに討伐せよ!」という強力な命令を下します。こうして、約15万人とも言われる幕府の強大な大軍勢が、長州藩を完全に包囲するために進軍を開始しました。
幕府の大軍が迫り来る中、長州藩にもう一つの巨大な危機が襲いかかります。以前、長州藩が外国船を砲撃したことへの報復として、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの艦隊が下関に襲来したのです(四国艦隊下関砲撃事件)。最新鋭の大砲による猛攻を受け、長州藩の砲台はなす術もなく完全に破壊されてしまいました。国内の大軍だけでなく、強大な外国からも同時に攻撃されるという絶体絶命の窮地に陥ります。
長州藩を包囲した幕府軍の実質的なリーダー(参謀)として軍を指揮していたのは、なんと薩摩藩の西郷隆盛(さいごうたかもり)でした。薩摩藩はつい先日まで京都で長州藩と血みどろの戦いをしており、両者は激しく憎み合う関係でした。誰もが「西郷は長州藩を徹底的に武力で叩き潰すだろう」と考えていましたが、先見の明を持つ西郷は、同じ日本人同士で大規模な殺し合いをすることの無意味さと危険性を冷静に見抜いていました。
「いま日本国内で大規模な内乱を起こせば、その隙を突いて外国に国を乗っ取られてしまう」。そう考えた西郷隆盛は、幕府軍の総督を説得し、武力による総攻撃を思いとどまらせました。そして長州藩に対して「反乱の責任者である三人の家老(重臣)を切腹させれば、武力攻撃は取りやめて軍を引く」という、驚くほど寛大な降伏条件を提示したのです。西郷は武力ではなく、政治的な交渉で事態を収拾しようと試みました。
幕府軍からの降伏条件を受け、絶体絶命の長州藩内部では激しい議論が巻き起こりました。「どんな条件を出されても、最後まで戦い抜くべきだ!」と主張する高杉晋作らの強硬派(正義派)に対し、「いま戦えば藩が完全に滅亡してしまう。幕府に謝罪して従おう」と主張する保守派(俗論派)が真っ向から対立します。しかし、度重なる敗戦で藩の力は限界に達しており、生き残るためには保守派の意見に従うしか道は残されていませんでした。
最終的に長州藩の主導権を握った保守派は、幕府への完全な降伏を決断します。1864年11月、禁門の変を主導した責任をとる形で、福原越理ら三人の家老が自刃(切腹)を遂げました。さらに、藩主である毛利敬親(もうりたかちか)父子も謹慎し、幕府に対して深い謝罪の意を示したのです。藩を救うために尊い命が犠牲となり、長州藩の武士たちは血の涙を流しながら屈辱的な降伏を受け入れることになりました。
長州藩が条件を完全に飲んだことを確認した西郷隆盛は、約束通りに攻撃を中止し、幕府軍に撤退の命令を出しました。血を流すことなく遠征を終わらせた西郷の見事な手腕でしたが、幕府の強硬派からは「長州を完全に潰す絶好のチャンスだったのに、処分が甘すぎる!」と強い不満が噴出します。しかし、結果的に第一次長州征伐は一度も本格的な戦闘が行われないまま、幕府側の勝利という形で幕を閉じることになりました。
幕府に降伏し、保守派が実権を握った長州藩では、「幕府と戦おう」と主張していた強硬派の志士たちへの厳しい弾圧が始まりました。命の危険を感じた高杉晋作(たかすぎしんさく)は、藩を脱出して九州の福岡などへ逃亡し、身を隠しながら再起のチャンスをうかがいます。また、長州藩に逃げ込んでいた三条実美(さんじょうさねとみ)ら五人の公家たちも、福岡県の太宰府へと移され、厳しい監視の下で不遇の日々を送ることになりました。
この軍事遠征が戦わずして成功したことで、江戸幕府の権威は一時的に大きく回復しました。「やはり将軍家の力は絶大だ」と全国の大名たちに知らしめることができたからです。しかし、これはあくまで表面上の平和に過ぎませんでした。幕府は長州藩の息の根を完全に止めるために、さらに厳しい処分(領地の没収など)を追加しようと画策し始めます。この幕府の執拗な追及が、やがて長州藩の死に物狂いの反撃を招くことになります。
屈辱的な降伏からわずか1ヶ月後、逃亡していた高杉晋作がわずか80人の仲間と共に下関の功山寺で突如として決起します!「幕府の言いなりになる弱腰な藩の上層部をぶっ倒す!」という高杉の捨て身の行動は、多くの武士や農民たちの心を打ち、奇跡のクーデターを成功させました。再び強硬派が実権を握った長州藩は、幕府との全面対決へと突き進みます。この事件は、明治維新へ向けた歴史の決定的な契機となったのです。