江戸時代の中期、幕府の財政は米の収穫量に頼る古い仕組みのせいで大きな赤字を抱えていました。このピンチを救うために登場したのが、第10代将軍・徳川家治に重用された老中・田沼意次(たぬまおきつぐ)です。彼はこれまでの「農業第一」の考え方を大きく変え、商業や貿易をさかんにして商人から税金を取るという、当時としては非常に斬新で画期的な経済政策を次々と打ち出していきました。
田沼意次が目を付けたのが、下総国(現在の千葉県北部)にある巨大な湖である印旛沼(いんばぬま)と手賀沼でした。この地域は、大雨が降るたびに日本最大級の川である利根川から水が逆流し、沼が氾濫して周辺の村々が水没するという深刻な水害に長年苦しめられていました。農民たちはせっかく育てたお米を何度も洪水で流され、幕府に入ってくるはずの税金(年貢)も大きく減ってしまっていたのです。
そこで意次は、一石二鳥の巨大プロジェクトを立ち上げます。印旛沼と手賀沼の水を海(東京湾)へと抜くための長い水路を掘り、沼の水を抜いてカラカラに乾かしてしまおうという計画です。水がなくなれば洪水被害がなくなるだけでなく、沼の底に広がる広大な土地を新しい田んぼ(新田開発)に変えることができます。成功すれば莫大なお米の増産が見込める、まさに国家規模の大改造計画でした。
しかし、巨大な水路を掘るにはとてつもない費用がかかります。お金がない幕府は、ここで意次ならではの新しいアイデアを使いました。なんと、江戸の裕福な商人たちに「干拓に成功したら、できた土地から上がる利益の一部をあげるから、工事のお金を出してくれないか」と話を持ちかけたのです。これは「町人請負新田(ちょうにんうけおいしんでん)」と呼ばれ、民間の資金を活用して公共事業を行う現代のビジネスに通じる手法でした。
商人たちからの莫大な資金調達に成功し、1782年(天明2年)、ついに印旛沼・手賀沼の干拓工事が力強くスタートしました。計画では、沼から検見川(現在の千葉市)の海岸に向かって、約17キロメートルにも及ぶ長い水路(掘割)を人力で掘り進めることになっていました。全国から何万人もの労働者が集められ、モッコやクワを使った手作業による過酷で果てしない土木工事が始まりました。
しかし、現場の工事は想像を絶する困難の連続でした。深く掘り進めると硬い岩盤が立ち塞がり、ツルハシが次々と折れました。さらに地下から大量の水が湧き出し、せっかく掘った水路の壁が崩れ落ちてしまう泥沼の戦いとなったのです。当時の土木技術では自然の力に完全に打ち勝つことは難しく、工事は遅々として進まず、商人たちが出した莫大な資金は泥水のようにどんどん吸い込まれて消えていきました。
そして1786年(天明6年)、干拓事業に致命的なトドメを刺す大災害が関東地方を襲います。「天明の大洪水」と呼ばれる記録的な大雨が降り続き、利根川が歴史的な大氾濫を起こしたのです。荒れ狂う濁流は印旛沼にも流れ込み、数年かけて必死に掘り進めた水路や工事の設備は、一瞬にしてすべて土砂に埋もれて破壊されてしまいました。大自然の猛威の前に、人間の努力はあまりにも無力でした。
同じ年、政治の世界でも大激震が走ります。意次をかばい続けていた将軍・徳川家治が亡くなり、後ろ盾を失った田沼意次が反対派によって政治の舞台から完全に失脚してしまったのです。推進者である意次がいなくなり、さらに大洪水で工事現場も壊滅したことで、幕府はこの巨大プロジェクトの継続をきっぱりと諦めました。商人たちの夢も資金も幻と消え、最初の干拓事業は無念の中止となったのです。
意次の挫折から約60年後の1843年、老中・水野忠邦(みずのただくに)による「天保の改革」の中で、再び印旛沼の干拓が持ち上がりました。今度は幕府の大名たちを動員して水路の開削に挑みましたが、やはり自然の壁は厚く、さらに水野自身が改革の失敗で失脚したため、二度目の挑戦もあえなく中止となってしまいます。江戸幕府の力をもってしても、この沼を干拓することは最後まで不可能でした。
江戸時代を通じて決して叶うことのなかった干拓という壮大な夢は、なんと戦後の昭和時代になって、大型の重機や近代的なポンプ技術が導入されたことでようやく実現しました。田沼意次が描いた「水害をなくし、豊かな土地を創る」というビジョンは、決して間違っていなかったのです。失敗に終わったとはいえ、幕府が民間の力を使って自然に挑んだこの事業は、日本の開発史に刻まれる重要な歴史の一ページです。