古墳時代の中頃、ヤマト王権は国を強くして武器や農具を作るために、大量の「鉄」を必要としていました。当時の日本列島ではまだ鉄を安定して自給できず、海を越えた朝鮮半島の南部(加耶地方)などから鉄を輸入しなければならなかったのです。この貴重な鉄資源のルートを守り、さらに東アジアでの影響力を拡大するために、倭(当時の日本)は朝鮮半島の政治的な争いに深く介入していくことになります。これが古代の巨大な戦争への端緒を開きました。
4世紀後半の朝鮮半島は、三国時代の激動期を迎えていました。北方の広大な領土を支配する強国・高句麗(こうくり)が、天才的な軍事指導者である好太王(こうたいおう:広開土王とも呼ばれる)の指揮のもと、凄まじい勢いで南へと領土を広げ始めたのです。この高句麗の猛烈な南下政策は、半島南部にあった百済(くだら)や新羅といった国々を大いに震え上がらせ、同時に倭が確保していた鉄資源の輸入ルートにも深刻な軍事的脅威をもたらしました。
高句麗の脅威に対抗するため、百済は海を越えた倭に軍事的な助けを求めました。倭もまた、同盟国である百済を助け、鉄の権益を守るために大軍を朝鮮半島へと派遣します。391年、ついに海を渡った倭軍は、新羅や百済の領土で軍事行動を起こし、半島南部の勢力図を大きく塗り替えようとしました。この倭の積極的な進軍と勢力拡大が、北から南下して半島統一を狙う強大な高句麗軍と真っ向から衝突する決定的な契機となったのです。両軍の激突は避けられないものとなりました。
倭軍と高句麗軍の本格的な戦闘が始まると、倭軍はかつて見たこともない恐ろしい敵に直面します。当時の倭軍は、歩兵(徒歩の兵士)が剣や弓で戦うスタイルが中心でした。しかし、好太王が率いる高句麗軍は、馬も兵士も分厚い鉄の鎧で身を包んだ「重装騎兵(装甲騎兵)」の部隊を持っていたのです。地響きを立てて密集突撃してくる鉄の騎馬軍団は、当時の最新鋭の戦車のようなものであり、歩兵主体の倭軍に大パニックと壊滅的な打撃を与えました。技術力の差は圧倒的でした。
396年、好太王は自ら大規模な水軍と陸軍を率いて百済の首都を包囲し、ついに百済の王を降伏させてしまいました。頼みの綱だった百済が敗れたことで、倭軍は大きな窮地に立たされます。それでも倭は諦めず、たびたび海を渡って援軍を送り、高句麗軍への反撃を試みました。一時は新羅の首都近くまで進軍して高句麗軍と激戦を繰り広げますが、高句麗の5万もの大軍と圧倒的な騎馬兵力の前に押し返されてしまいます。半島の覇権を巡る、泥沼の消耗戦へと突入していきました。
404年、倭軍はこれまでの劣勢を一気に覆すため、かつての帯方郡(現在の北朝鮮と韓国の国境付近)の地域まで大きく北上し、高句麗の領土に対して直接の大規模な攻撃を仕掛けました。しかし、ここで再び名将・好太王が立ちはだかります。好太王は精鋭部隊を率いて倭軍を迎え撃ち、倭軍に無数の死傷者を出すほどの壊滅的な大敗北を与えました。この決定的な敗戦により、倭軍の野望は打ち砕かれ、朝鮮半島北部への進出を完全に断念して撤退せざるを得なくなったのです。
この戦争の詳しい経過は、実は日本の歴史書である『日本書紀』などには明確に書かれていません。私たちがこの激戦を知ることができるのは、現在の中国吉林省に立つ高さ約6メートルの巨大な石碑、好太王碑(こうたいおうひ:広開土王碑)のおかげです。好太王の息子が父の功績を讃えて建てたこの石碑には、「倭が海を渡って百済や新羅を臣民にした」ことや、「高句麗軍が倭軍を大破した」という記録が克明に刻まれており、歴史のテストにも頻出する超重要キーワードです。
戦争そのものには敗れましたが、この戦いは日本の歴史を劇的に進化させる重大な歴史の分岐点となりました。敗戦のショックを受けた倭の指導者たちは、高句麗の圧倒的な軍事技術を貪欲に吸収しようとしたのです。朝鮮半島から日本に渡ってきた渡来人たちを通じて、馬を飼って乗る技術(乗馬の風習)や、硬い鉄製の鎧や武器を作る最新の鍛冶技術、さらには須恵器(すえき)と呼ばれる硬質の土器の製法など、大陸の最先端テクノロジーが一気に日本へともたらされました。
軍事力だけで高句麗に対抗するのは無理だと悟った倭は、外交戦略を大きく転換させます。海を越えたさらに巨大な帝国である「中国(当時の南朝・宋など)」に使いを送り、中国の皇帝から正式な将軍としての称号をもらうことで、国際的な権威を高めようとしたのです。これが歴史の教科書に登場する「倭の五王」による外交の始まりです。武力だけでなく、中国との外交交渉によって朝鮮半島での有利な立場を築こうとする、日本の新しい国際戦略の端緒を開いた出来事でした。
倭と高句麗の激しい戦争は、ヤマト王権の国内政治の仕組みも大きく変えました。大軍を海を越えて派遣し、馬や鉄の最新技術を独占的に管理するためには、大王(天皇)を中心とした強力でまとまりのある組織が必要になったからです。全国の豪族たちをランク付けしてまとめ上げ、巨大な前方後円墳を築いて権力を全国に見せつける体制が強化されました。朝鮮半島での激闘と敗北は、古代の日本が中央集権的な強い国家へと成長していくための、決定的な契機となったのです。