古墳時代、第14代・仲哀天皇は九州の反乱勢力である熊襲(くまそ)を討伐するため、妻の神功皇后(じんぐうこうごう)と共に九州へ向かいました。その際、皇后に神が乗り移り「西の海にある金銀に溢れた豊かな国を与えよう」とお告げを下します。しかし、天皇は「西に国など見えない」と神の言葉を疑ったため、神の怒りに触れて陣中で急死してしまいます。この恐ろしい出来事が、伝説的な海外出兵の幕開けとなりました。
夫の急死という悲劇を乗り越え、神功皇后は自ら神の意志を継ぐ決意を固めます。彼女は神々に祈りを捧げて再びお告げを聞き、西の海の向こうにある国、すなわち朝鮮半島の新羅(しらぎ)へと自ら軍を率いて攻め込むことを決定しました。女性でありながら国家の最高責任者として大規模な軍事行動を起こすという、日本の神話・歴史上でも極めて異例で勇敢な大遠征の始まりです。彼女の強い決意が国を動かしました。
この大遠征において最大の困難は、皇后が亡き夫との子をお腹に宿した妊婦だったことです。出航の直前になって臨月を迎えてしまい、今にも陣痛が始まりそうになりました。しかし皇后は「今は国の大事であり、産気づいている場合ではない」と、なんと冷たい石を自分のお腹に巻き付けてサラシで固く縛り、無理やり出産を遅らせるという驚くべき行動に出ます。そして男装して武器を取り、勇ましく船に乗り込んだと伝えられています。
皇后の強い覚悟を見た神々は、彼女の船団に奇跡を起こします。大軍を乗せて玄界灘を進む船の周りに大小の魚たちが集まり、船を背負って海を押し進めたのです。さらに強力な追い風が吹き、船はまたたく間に新羅の海岸へと到達しました。大津波と共に現れた神々しい日本の大船団を見た新羅の王はすっかり戦意を喪失し、「今後は日本の家来になります」と戦うことなく降伏を誓ったという、劇的な勝利の伝説が残されています。
新羅があっけなく降伏したというニュースは、朝鮮半島に大きな衝撃を与えました。これを聞いた隣国の百済(くだら)と高句麗(こうくり)の王たちも、「あの恐ろしい日本の大軍と戦えば国が滅びてしまう」と恐れおののきました。彼らはすぐさま皇后のもとへ使者を送り、争うことなく朝貢(貢ぎ物を送ること)を約束したとされます。こうして新羅・百済・高句麗の三つの国(三韓)を服属させたことが「三韓征伐」の由来です。
朝鮮半島を服属させるという大仕事を成し遂げた神功皇后は、軍を率いて無事に九州の筑紫(現在の福岡県)へと帰還しました。お腹に石を巻き付けて我慢していた皇后は、帰国後ついに元気な男の子を出産します。この赤ん坊こそが、後に巨大な前方後円墳で知られ、ヤマト王権を大きく発展させることになる第15代・応神天皇(おうじんてんのう)です。母の強さと神々の加護を受け継いだ、新たな時代の君主の誕生でした。
この三韓征伐の物語は、どこまでが本当の歴史なのか証明するのは難しく、神話としての側面が強いとされています。しかし、完全な作り話ではなく、当時のヤマト王権が最先端の武器や農具を作るための鉄資源を求めて、実際に朝鮮半島南部へ強い関心を持ち、活発に渡海していた歴史的事実を色濃く反映しています。古代の日本人が、海の向こうの豊かな技術や資源をどれほど強く求めていたかを示す重要な証拠でもあります。
実際に4世紀末から5世紀初頭にかけて、日本が朝鮮半島に進出して激しい軍事活動を行っていたことは、中国・吉林省にある好太王碑(こうたいおうひ)などの確かな歴史記録とも一致します。神功皇后の伝説は、こうした複数の大王の時代に行われた朝鮮半島での数々の軍事行動や外交交渉の記憶が、一人の勇敢なヒロインの物語として何百年もかけてまとめられ、『日本書紀』などに劇的に記されたものと考えられています。
神功皇后と彼女が生んだ応神天皇は、後世の日本人に絶大な影響を与えました。彼らは「戦いの神様」である八幡神(はちまんしん)として神社に祀られるようになります。鎌倉幕府を開いた源頼朝をはじめとする全国の武士たちは、戦での勝利を祈るためにこの八幡神を熱烈に信仰しました。全国に数万社もある八幡宮のルーツは、お腹に石を巻き付けて海を渡った神功皇后の古代の伝説にしっかりと結びついているのです。
『古事記』や『日本書紀』に記された三韓征伐の神話は、ヤマト王権が「自分たちは朝鮮半島よりも優位な立場にあるのだ」という強い国家のプライドを国内外に主張するための重要な物語でした。史実と神話が入り交じるこの伝説は、古代の日本人がどのようにして対外的な意識を持ち、国家としての形を整えていったのかを知る上で欠かせない、東アジアの外交関係の端緒を開いた歴史の重大な分岐点と言える出来事です。