天下統一を目前に控えた織田信長。1582年、家臣の豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)が中国地方の毛利氏と激戦を繰り広げていました。信長は秀吉を応援するため、自らも軍を率いて出陣することを決意。しかし、京都の本能寺(ほんのうじ)に宿泊した際、連れていた護衛はわずか100人程度でした。「自分の領地のど真ん中だから安全だ」という、天下人ゆえの油断があったのです。
その信長の応援部隊として先に出発していたのが、最も信頼されていた家臣の一人、明智光秀(あけちみつひで)です。しかし光秀は、途中で突然軍の進路を京都へ変更!「敵は本能寺にあり!」と叫び、主君である信長への謀反(裏切り)を決行しました。なぜ光秀が裏切ったのかは、日頃からいじめられていたという「怨恨説」や、天下を狙った「野望説」など、今も日本史最大のミステリーとされています。
1582年6月2日の早朝、本能寺は1万以上の明智軍に完全に包囲されました。騒ぎに気づいた信長は、相手が光秀だと知ると「是非に及ばず(仕方がない、どうしようもない)」と一言だけつぶやき、自ら弓や槍を持って奮戦。しかし、圧倒的な人数の差に勝てないと悟ると、お寺に火を放ち、燃え盛る炎の中で切腹して果てました。戦国のカリスマが、あっけなくこの世を去った瞬間です。
本能寺の変のもう一つの悲劇は、信長の長男であり、すでに織田家の家督(トップの座)を譲られていた織田信忠(おだのぶただ)も近くに宿泊していたことです。信忠は逃げることもできましたが、父の死を知ると「もはやこれまで」と二条御新造(二条城)に立てこもって明智軍と激しく戦い、最後は自害しました。これにより、織田家はナンバー1とナンバー2を同時に失うという壊滅的なダメージを受けます。
信長死す!この衝撃のニュースは、まさに歴史の特大ドミノの1枚目となりました。一番早く反応したのが、備中国(岡山県)で水攻めを行っていた豊臣秀吉です。秀吉は、光秀が毛利軍に送ろうとした密書を偶然手に入れて事件を知り、大号泣。しかしすぐに立ち直り、毛利軍と急いで和睦(平和条約)を結び、主君の仇を討つための猛烈な反撃作戦をスタートさせます。
秀吉の行動は常識外れのスピードでした。約2万の大軍を率いて、備中から京都までの約200kmの道のりを、なんとわずか数日で駆け戻ったのです!これを中国大返し(ちゅうごくおおがえし)と呼びます。道に松明を立てて夜中も走り続け、炊き出しの準備も完璧に行うという神業的な行軍により、光秀が「秀吉が戻ってくるのはまだまだ先だ」と油断している隙に、あっという間に京都に迫りました。
光秀は信長を倒した後、他の武将たちに「仲間になってくれ」と手紙を送っていましたが、誰も味方をしてくれませんでした。そこに秀吉の大軍が到着。両軍は京都の南で激突し(山崎の戦い)、勢いに乗る秀吉軍が圧勝します!敗れて逃げる途中で光秀は農民に討たれ、彼の天下はわずか10日ほどで終わってしまいました。これを「三日天下(みっかてんか)」と呼びます。
信長の仇を討った秀吉は、織田家の家臣の中で一気にトップに躍り出ます。信長の跡継ぎを決める「清洲会議(きよすかいぎ)」では、まだ赤ちゃんの三法師(信長の孫)を跡継ぎに推薦して自分の操り人形にし、ライバルの柴田勝家らを打ち破って、実質的に信長の後継者の座をゲット!本能寺の変からわずか数年で、秀吉は天下人の階段を駆け上がっていくことになります。
一方、その頃徳川家康は、わずかなお供だけを連れて堺(大阪府)を観光中でした。信長暗殺のニュースを聞き「私も明智軍に殺される!」とパニックになりますが、伊賀の忍者などの助けを借りて、険しい山道を越えて命からがら自分の領地(三河国)へ逃げ帰りました。これを「神君伊賀越え」と呼び、後の江戸幕府を開く家康の人生最大のピンチの一つとして語り継がれています。
このように、本能寺の変は単なる主君殺しの事件ではありません。信長が死んだことで、秀吉の電撃的な出世、家康の決死の逃避行など、全国の武将たちの運命が一瞬にしてひっくり返りました。もし光秀が裏切っていなければ、日本の歴史は全く違うものになっていたはずです。戦国時代のフィナーレを強引に早め、次の時代(豊臣政権〜江戸時代)への伏線を一気に張り巡らせた、まさに歴史の最大の分岐点です。