享徳の乱 きょうとくのらん 合戦 ☆ 重要

🕒 1455年12月27日 〜 1483年11月27日 🍵 室町時代
📍 場所: 神奈川県,茨城県,静岡県,東京都 関東地方一円(鎌倉、古河、堀越など) 👤 関連: 足利成氏,上杉憲忠
1454年末(データ上は1455年)、鎌倉公方の足利成氏が、対立する関東管領の上杉憲忠を暗殺したことで始まった関東地方の大乱です。この事件を機に、室町幕府・上杉氏の連合軍と、足利成氏を支持する関東の武士たちが激突し、関東地方を東西に二分する戦いが約28年間も続きました。応仁の乱よりも早くに関東を実力主義の時代へと引きずり込み、東日本における戦国時代の幕開けとなる歴史の決定的な契機となった超重要事件です。
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終わっていなかった遺恨

かつて「永享の乱」で室町幕府に滅ぼされた鎌倉公方ですが、幕府は関東を治めるため、死んだ公方の子である足利成氏(あしかがしげうじ)を新しい鎌倉公方として復活させました。しかし、成氏の補佐役である関東管領には、父を死に追いやった宿敵・上杉氏の上杉憲忠(うえすぎのりただ)が就任します。親の仇とも言える上杉氏と政治を行う状況に、成氏の心の中には激しい憎悪と不満がドロドロと渦巻いていました。
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惨劇!上杉憲忠の暗殺

1454年末(年表データ上は1455年)、足利成氏は恐るべき計画を実行に移します。上杉憲忠を「お酒を飲もう」と自分の屋敷に招待し、油断した憲忠とその家臣たち22名を武装した兵士に襲わせて惨殺したのです。関東のトップである公方が、ナンバー2である関東管領を騙し討にするという前代未聞の凶行でした。この血塗られた暗殺事件から、関東全域を巻き込む28年にも及ぶ享徳の乱(きょうとくのらん)が幕を開けました。
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激怒した上杉一族の反撃

憲忠を暗殺された上杉氏(山内上杉家・扇谷上杉家)は激怒し、一族の全軍勢を挙げて足利成氏への報復攻撃を開始しました。さらに京都の室町幕府も上杉氏の味方につき、成氏を「幕府に逆らう反逆者」として討伐する命令を出します。幕府と上杉氏の連合軍による猛攻を受けた成氏は、本拠地である鎌倉を守り切ることができず、命からがら逃亡を余儀なくされました。武士たちの都・鎌倉が戦火に包まれた瞬間です。
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誕生!古河公方の逆襲

鎌倉を追われた足利成氏は、下総国(茨城県)の古河(こが)という場所に逃げ込み、そこを新しい本拠地に定めました。これ以降、成氏とその子孫は古河公方(こがくぼう)と呼ばれるようになります。上杉氏の支配に不満を持っていた関東の地元の武士たちは「成氏様こそが正当な関東のリーダーだ!」と次々に古河公方の味方につき、上杉氏の軍勢を激しく打ち破るなど、強大な勢力として息を吹き返したのです。
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幕府の刺客・足利政知

予想以上に強い古河公方に手を焼いた室町幕府の第8代将軍・足利義政(あしかがよしまさ)は、新たな作戦に出ました。「成氏はクビだ!私の兄を新しい正式な鎌倉公方として派遣する!」。こうして将軍の兄である足利政知(あしかがまさとも)が、成氏を討伐するための刺客として京都から関東へと送り込まれました。幕府の全面的な支援を受けた政知の登場により、事態はさらに複雑で泥沼の争いへと発展していきます。
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鎌倉に入れない堀越公方

しかし、意気揚々と関東にやってきた足利政知でしたが、古河公方・成氏の軍事力が強すぎて、なんと目的地である鎌倉に入ることすらできませんでした。仕方なく政知は、手前の伊豆国(静岡県)の堀越(ほりごえ)という場所に留まり、そこに御所を構えることになります。そのため、政知の勢力は堀越公方(ほりごえくぼう)と呼ばれました。関東の真の支配者を決めるための戦いは、一進一退の膠着状態に陥ります。
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利根川で真っ二つの関東

この結果、関東地方は利根川を境界線として完全に真っ二つに分断されました。東側は古河公方(足利成氏)と地元の武士たちが支配し、西側は堀越公方(足利政知)と上杉氏、そして室町幕府の連合軍が支配するという異常事態です。両軍は毎年のように国境付近で激しい合戦を繰り広げますが、どちらも決定的な勝利を掴むことができず、血で血を洗う不毛な戦争状態が果てしなく続くことになりました。
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太田道灌の活躍と内部崩壊

長引く戦いの中で、上杉氏の側で大活躍したのが天才的な武将・太田道灌(おおたどうかん)です。彼は防衛の拠点として江戸城を築城し、古河公方の軍勢を何度も打ち破りました。しかし、戦いが長引くにつれて、今度は味方であるはずの上杉氏の内部で「山内上杉家」と「扇谷上杉家」が権力を巡って仲間割れを始めます。さらに大功労者の太田道灌が主君に暗殺されるなど、上杉側の陣営は内側からボロボロに崩壊していきました。
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28年目の和睦「都鄙合体」

戦いが始まってから28年が経過した1483年、両陣営はついに和睦(平和条約)を結びました。京都の幕府も「応仁の乱」でボロボロになっており、関東の戦いにかまっている余裕が全くなくなっていたのです。幕府は古河公方・成氏の罪を許し、関東の支配権を事実上認めることで、ようやく長きにわたる大乱に終止符が打たれました。この幕府(都)と関東(鄙)の和睦劇を「都鄙合体(とひがったい)」と呼びます。
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東国における戦国時代の幕開け

和睦によって享徳の乱は正式に終わりましたが、関東に本当の平和が戻ることはありませんでした。この28年間で「家柄や幕府の権威に関係なく、実力で敵を倒した者が勝者になる」という下克上(げこくじょう)のルールが関東の武士たちに完全に根付いてしまったからです。京都の応仁の乱よりも早く、関東地方を弱肉強食の戦国時代へと引きずり込んだ歴史の決定的な分岐点となったのが、この大乱なのです。
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