1333年、後醍醐天皇の呼びかけに応じた足利尊氏(あしかがたかうじ)や新田義貞(にったよしさだ)らの活躍により、150年近く続いた鎌倉幕府がついに滅亡しました。命がけで戦った全国の武士たちは、「新しい天皇の政治になれば、自分たちに豊かな土地(恩賞)が与えられ、奪われた領地も戻ってくるはずだ」と大きな期待を胸に抱いて、新しい都となる京都へと次々に集まってきました。
幕府を倒した後醍醐天皇は、武士から政治の実権を取り戻し、天皇と公家(貴族)が中心となる建武の新政(けんむのしんせい)をスタートさせました。しかし、天皇は自分に味方してくれた公家や一部の寺社ばかりを優遇し、実際に血を流して戦った武士たちへの恩賞(土地)の配分は後回しにされてしまいます。武士たちの期待は次第に不満へと変わり、京都の町には不穏な空気が漂い始めました。
後醍醐天皇は、「これからの土地の所有権は、すべて天皇の命令書である『綸旨(りんじ)』によって証明されなければならない」という絶対的なルールを作りました。そのため、自分の土地を守りたい武士や新しく土地が欲しい人々が、綸旨を求めて京都の役所に殺到します。しかし、天皇の側近たちが賄賂(わいろ)を受け取って偽の綸旨を出したりしたため、一つの土地に複数の持ち主が現れるという大混乱が発生しました。
「この土地は俺のものだ!」「いや、俺の綸旨が本物だ!」。全国から寄せられる土地のトラブルを解決するため、後醍醐天皇は雑訴決断所(ざっそけつだんしょ)という新たな裁判機関を設置しました。しかし、あまりにも訴えの数が多すぎたため、役人たちは全く処理しきれません。裁判は長引き、何ヶ月待っても判決が出ない状況に、武士たちのイライラは限界を超えようとしていました。
この絶望的な裁判の遅れと土地の混乱を強制的にリセットするため、1334年(建武元年)5月、後醍醐天皇はついに建武の徳政令を発布します。これは、鎌倉時代に出された「借金帳消し」の徳政令とは異なり、「不当に奪われた土地は、元の持ち主に無条件で返しなさい」という、土地の所有権に関する強力な法令でした。天皇はこれで一気にトラブルが解決すると考えていたのです。
しかし、この建武の徳政令には致命的な欠陥がありました。法令の中には「ただし、天皇の綸旨をすでに持っている者は除く」「建武の新政に功績があった者の土地は除く」といった、天皇の都合の良い「例外ルール」が山のように設けられていたのです。これでは、本当に土地を奪われて苦しんでいる一般の武士たちには全く法令が適用されず、力のある者だけが得をする不公平な仕組みでした。
法令の中身を知った武士たちは激怒しました。「結局、公家や天皇のお気に入りの連中だけが得をして、我々武士の生活は何も良くならないではないか!」。借金を苦にして土地を手放した者や、恩賞をもらえなかった武士たちの怒りの矛先は、建武の新政そのものへと向けられます。問題を解決するはずだった徳政令は、皮肉にも天皇への不満に油を注ぎ、火にガソリンをぶちまける結果となってしまったのです。
この頃、京都の二条河原に立てられた立て札に、建武の新政を強烈に皮肉った「二条河原の落書(にじょうがわらのらくしょ)」が貼り出されました。「この頃、都で流行るもの。夜討ち、強盗、偽りんじ(偽の綸旨)…」。政治の混乱、横行する犯罪、そして無能な役人たちを痛烈に批判したこの落書は、当時の人々が天皇の政治に対してどれほど呆れ果てていたかを現代に伝える貴重な歴史の証言となっています。
後醍醐天皇の政治に見切りをつけた武士たちの心は、彼らの不満を理解し、武家政権の復活を望む足利尊氏へと急速に集まっていきました。尊氏は武士たちの支持を背景に、ついに後醍醐天皇に対して反旗を翻します。土地の権利という、武士にとって命よりも大切なものを守れなかった建武の新政は、武士階級の強大な武力によってその存在を根底から否定されることになります。
建武の徳政令からわずか数年後の1336年、足利尊氏によって京都を追われた後醍醐天皇は吉野(奈良県)へ逃れ、建武の新政はあっけなく崩壊しました。尊氏が京都に新しい天皇を立てたことで、日本には二人の天皇が同時に存在する南北朝時代という約60年に及ぶ内乱の時代が幕を開けます。この徳政令の失敗は、公家中心の政治の限界を示し、室町幕府という新たな武家政権が誕生する歴史の決定的な契機となったのです。