1159年に起きた平治の乱(へいじのらん)で、源氏のトップである源義朝(みなもとのよしとも)は、最大のライバルである平清盛(たいらのきよもり)と激突しました。しかし、清盛の巧みな戦術と天皇を味方につける政治力の前に、義朝の軍勢は京都で大敗北を喫してしまいます。一族が次々と討ち取られる絶望的な状況の中、義朝は再起を図るため、自身の強力な地盤である東国(関東地方)を目指して京都からの脱出を決意しました。
義朝の逃避行は、想像を絶する過酷なものでした。真冬の猛吹雪の中、平氏の厳しい追っ手から逃れるため、険しい山道を少数の家臣と息子たちだけで進まなければなりませんでした。寒さと飢えで倒れる者が続出する中、かつて京都で栄華を極めた源氏の棟梁の姿は見る影もなく、ボロボロになっていました。それでも「関東にさえ辿り着けば、必ず味方が集まるはずだ」という一縷の望みだけを胸に、血の滲むような思いで東へと歩き続けたのです。
この逃避行の途中で、歴史を大きく変える悲劇が起こります。激しい吹雪と疲労の中、まだ13歳だった義朝の三男・源頼朝(みなもとのよりとも)が、父親の集団からはぐれて迷子になってしまったのです。頼朝を探す余裕すらない義朝は、涙を飲んで先を急ぐしかありませんでした。この時、もし頼朝が父親と行動を共にしていれば、のちに鎌倉幕府を開くことはなく、日本の歴史は全く違うものになっていたかもしれません。
1160年1月、義朝とわずかに残った家臣たちは、尾張国(愛知県)の野間(のま)という場所に辿り着きました。ここには、義朝の第一の家臣である鎌田政清(かまたまさきよ)の義理の父親にあたる、長田忠致(おさだただむね)という武将の屋敷がありました。「身内の家なら安心だ」。心身ともに限界を迎えていた義朝一行は、長田氏を頼って屋敷に転がり込み、久しぶりの温かい食事と休息をとって深く安堵しました。
しかし、義朝のその安心は最悪の形で裏切られます。長田忠致は、義朝を匿っていることが平氏にバレれば自分も殺されると恐れました。さらに「義朝の首を差し出せば、平清盛様から莫大なご褒美(恩賞)がもらえる大チャンスだ!」と、欲に目がくらんでしまったのです。長田親子は、主君である義朝と、自分の娘婿である鎌田政清を暗殺するための恐ろしい計画を密かに練り始めます。源氏の命運は、この卑劣な裏切りによって尽きようとしていました。
1月3日、長田忠致は「お疲れでしょうから、お風呂でゆっくり温まってください」と義朝を湯殿(お風呂)へと案内しました。義朝が刀を外し、無防備な状態でお湯に浸かってくつろいでいたその瞬間、長田の手下たちが武器を持って一斉に襲いかかりました。丸腰の義朝は抵抗することすらできず、「我に木太刀(木の刀)の一本でもあれば、こんな奴らに負けはしないのに!」と無念の叫びを残し、騙し討ちによって悲惨な最期を遂げたのです。
義朝が暗殺されたのと時を同じくして、別室で酒を飲まされていた忠臣・鎌田政清も、義父である長田忠致の罠にかかって騙し討ちにされました。主君を守れず、さらに身内に裏切られた政清の無念は計り知れません。こうして、関東で再起するという義朝の夢は、尾張の地で儚く散りました。義朝の首は京都へ送られて獄門(見せしめ)にされ、長田忠致は清盛から恩賞をもらいましたが、のちに「主君殺しの卑怯者」として全国の武士から激しく軽蔑されることになります。
父の死を知った長男の源義平(みなもとのよしひら:通称・悪源太)は、激怒して京都へ潜入し、平清盛の暗殺を企てました。しかし計画は失敗して捕らえられ、処刑されてしまいます。斬られる寸前、義平は「俺は雷となってお前たちを蹴り殺してやる!」という凄まじい呪いの言葉を遺しました。事実、彼を処刑した平氏の武将は、のちに本当に雷に打たれて死んだという伝説が残されており、源氏の激しい怨念を物語っています。
一方、雪山ではぐれていた三男の源頼朝は平氏に捕らえられ、京都へ引きずり出されて処刑される寸前でした。しかし、頼朝の顔が亡くなった自分の息子に似ていると同情した清盛の継母・池禅尼(いけのぜんに)が、命がけで清盛に助命を嘆願します。清盛は渋々これを認め、頼朝を伊豆国(静岡県)への流罪(島流し)に処しました。「虎を野に放つようなものだ」と周囲は反対しましたが、この清盛の温情が、のちに平氏一門を滅亡の淵へと追いやることになります。
源義朝の死と頼朝の流罪により、源氏は事実上の壊滅状態となり、邪魔者がいなくなった平氏は、武士として初めて政治の頂点に立つ平氏政権を打ち立てて我が世の春を謳歌します。しかし、生き残った頼朝は伊豆で20年もの間じっと耐え忍び、やがて平氏を打倒するために立ち上がります。義朝の無念の死は、源氏と平氏の血塗られた因縁を決定づけ、後の歴史を大きく動かす治承・寿永の乱(源平合戦)へと繋がる、歴史の決定的な分岐点となったのです。