奈良時代、絶大な権力を握っていた藤原不比等(ふじわらのふひと)が亡くなると、政治のトップに立ったのは天皇の血を引く長屋王(ながやおう)でした。彼は天武天皇の孫にあたり、妻の吉備内親王(きびのないしんのう)も天皇の娘という、誰もが認める超エリート皇族です。藤原氏の力が弱まった朝廷で、長屋王は皇族中心の政治を行い、人々から厚い信頼を集めて日本の政治を力強く引っ張っていました。
当時の長屋王がいかに凄い力を持っていたかは、現代の発掘調査でも証明されています。平城京の中心部にあった彼の屋敷跡からは、数万点にも及ぶ木簡(もっかん:文字を書いた木の札)が見つかりました。屋敷はなんと東京ドームがすっぽり入るほどの広さがあり、敷地内には氷室(ひむろ)や鶴を飼う場所までありました。全国から最高級の品々が集まり、長屋王は当時の日本で最も華やかで贅沢な暮らしをしていたのです。
長屋王が権力の絶頂にある一方で、焦りを感じていたのが不比等の息子たちである藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)でした。「父上が苦労して築いた藤原氏の権力を、このまま長屋王に奪われたままにしておくわけにはいかない」。彼らは、再び政治の実権を藤原氏の手に取り戻すため、ある壮大な計画を企てます。それは、自分たちの妹である光明子(こうみょうし)を利用するというものでした。
当時、天皇の正妻である「皇后」になれるのは、皇族の女性だけという絶対的なルールがありました。しかし藤原四兄弟は、自分たちの妹である光明子を聖武天皇(しょうむてんのう)の皇后にしようと考えたのです。天皇の義理の兄となれば、藤原氏は誰も文句を言えない最高の権力を手に入れることができます。彼らは、皇族のルールを捻じ曲げてでも、前例のない「皇族以外の皇后」を誕生させようと必死に画策しました。
この藤原氏の強引な計画に、真っ向から猛反対したのが長屋王でした。「天皇の正妻は皇族から選ぶのが昔からの絶対の決まりだ。藤原氏の娘を皇后にするなど、決して許されることではない!」。長屋王の主張は、日本の伝統を守るための完全な正論でした。しかし、この真っ直ぐすぎる正論こそが、藤原四兄弟にとって最も邪魔な壁となります。四兄弟は、長屋王を完全に排除するための恐ろしい罠を仕掛ける決意を固めました。
729年(神亀6年)2月10日、悲劇は突然幕を開けます。藤原氏の手先とされる人物が、「長屋王が密かに妖術を使い、国家を転覆させようと企んでいる」と朝廷に嘘の密告をしたのです。長屋王に天皇を呪い殺す理由など全くありませんでしたが、藤原氏の言いなりになっていた朝廷は、これを「国家への重大な反逆」として即座に受理します。長屋王を罪人に仕立て上げるための、あまりにも卑劣で強引なでっち上げでした。
密告を受けたその日の夜、藤原氏の命令によって派遣された軍勢が、広大な長屋王の屋敷を何重にも包囲しました。訳も分からないまま屋敷に閉じ込められた長屋王のもとに、朝廷の役人たちが厳しい尋問にやって来ます。長屋王は身の潔白を必死に訴えましたが、最初から彼を殺すことが目的の藤原氏がその言葉に耳を貸すはずがありません。皇族のトップとして国を支えてきた男は、一瞬にして逃げ場のない絶望の淵に立たされたのです。
2月12日、もはや助かる道はないと悟った長屋王は、誇り高き皇族としての最後の決断を下します。敵の手にかかって恥を晒すくらいならと、愛する妻の吉備内親王や子供たちに毒を飲ませて自らの手で命を絶たせた後、彼自身も毒をあおって壮絶な自害を遂げました。無実の罪を着せられたまま、一族ごと無惨にこの世から消し去られてしまったこの悲劇的な事件が、歴史に悪名高い長屋王の変(ながやおうのへん)です。
最大の邪魔者であった長屋王を排除した藤原四兄弟は、その半年後、ついに念願の計画を実行に移します。妹の光明子を、歴史上初めてとなる皇族出身以外の皇后(光明皇后)として即位させることに見事成功したのです。天皇の最大の親戚となった藤原四兄弟は、政治の実権を完全に掌握し、藤原氏の黄金時代を築き上げます。長屋王の死という尊い犠牲の上に、彼らの巨大な権力は打ち立てられたのでした。
しかし、長屋王の無念の死は人々の心に暗い影を落としました。事件からわずか8年後の737年、日本中に猛威を振るった天然痘(てんねんとう)という疫病により、なんと権力の絶頂にいた藤原四兄弟が全員揃って病死してしまったのです。人々はこれを「無実の罪で殺された長屋王の恐ろしい怨霊の呪いだ」と噂して震え上がりました。この政変は、藤原氏が他氏を排斥して権力を握っていく歴史の端緒を開いた、奈良時代の重大な転換点です。