1780年代、日本列島は未曾有の異常気象に見舞われました。浅間山の大噴火や冷害が重なり、農作物が全く育たなくなったのです。これが歴史に残る天明の大飢饉(てんめいのだいききん)です。全国で深刻な食糧不足が発生し、道端には餓死者が溢れかえりました。人々は生き延びるために草の根や木の皮まで食べ尽くし、村々は壊滅的な被害を受け、江戸時代の社会基盤が根底から揺らぐ大惨事となってしまったのです。
飢えと絶望に苦しむ民衆の怒りは、ついに爆発します。米を隠し持って値段をつり上げる悪徳商人たちを狙い、全国各地で打ちこわし(暴動)が多発しました。江戸の町でも大規模な暴動が起き、幕府の警察力でも抑えきれない状態に陥ります。この大混乱の責任を問われ、当時の政治のトップだった田沼意次は失脚しました。「このままでは国が滅んでしまう」という強い危機感が、日本中を覆い尽くしていたのです。
この絶望的な状況の中で、幕府のトップ(老中)に大抜擢されたのが、徳川将軍家の血を引く超エリート・松平定信(まつだいらさだのぶ)でした。彼は非常に真面目で厳しい性格の持ち主であり、「二度と民衆を飢えさせてはならない!」と強い決意を固めます。定信は、乱れた世の中を立て直すため、歴史のテストにも必ず出題される超重要な政治改革である寛政の改革(かんせいの改革)を猛烈な勢いでスタートさせたのです。
定信が飢饉対策の目玉として1789年に打ち出したのが、全国の大名に対する囲米の制(かこいまいのせい)です。ルールは極めて具体的で、「大名は自分の領地の収入1万石につき、毎年50石の米を専用の蔵に貯蓄せよ」というものでした。豊作の年に余った米を国が強制的にストックさせ、もし不作の年が来たらその米を放出することで、米の値段を安定させて人々を飢えから救おうという、国家規模のセーフティネットだったのです。
民衆を救うための素晴らしい制度でしたが、命令された大名たちにとっては地獄でした。参勤交代などでただでさえ藩の財政は火の車だったのに、「お金に換えるための貴重なお米を、使わずに蔵にしまっておけ」と言われたからです。しかし、定信の命令は絶対でした。もし幕府の調査で「米を貯蓄していません」とバレれば、厳しい罰が待っています。大名たちは泣く泣く支出を切り詰め、必死に備蓄米をかき集めることになりました。
定信は単に命令を出すだけでなく、そのルールが本当に守られているか厳しく監視しました。中には「蔵に米があるように見せかけて、実は裏でこっそり売ってお金に換えていた」というズルをする役人や大名もいました。しかし、定信が派遣した監査役に見つかれば容赦なく処罰されました。この「絶対にルールを守らせる」という定信の異常なまでの厳格さが、結果的に全国に強固な食糧備蓄システムを作り上げる歴史の転換点となります。
備蓄の対象は武士や大名だけではありません。定信は、江戸の町人たちに対しても画期的なシステムを導入しました。町内会費のようなお金を節約させ、浮いたお金の70%を強制的に貯金させたのです。これを七分積金(しちぶつみきん)と呼びます。この莫大な貯金を利用して、江戸の町外れに巨大な米蔵を建てて米を買って備蓄したり、貧しい人にお金を貸したりしました。これにより江戸の町の防災力は劇的に向上したのです。
さらに定信は、全国の農村に対しても「村人同士で助け合うシステム」を作るよう強く推奨しました。村の有力者やお金持ちが自主的に米やお金を出し合い、村専用の備蓄蔵である「社倉(しゃそう)」や「義倉(ぎそう)」を全国各地に作らせたのです。お上(幕府)からの強制だけでなく、コミュニティレベルでの自発的な相互扶助の仕組みを広めたことで、日本中に幾重もの命のセーフティネットが張り巡らされていきました。
こうして飢饉への完璧な備えを作り上げた松平定信でしたが、彼の政治はあまりにもルールが厳しすぎました。贅沢を一切禁止され、息苦しい生活を強いられた民衆や武士たちは「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こいしき」と皮肉を歌い、定信を激しく嫌いました。結局、定信はわずか6年余りで老中を辞めさせられてしまいます。しかし、彼が作った囲米の制などのシステムは、彼が去った後も生き残りました。
定信が去ってから約40年後、日本を再び天保の大飢饉(てんぽうのだいききん)という大災害が襲います。しかしこの時、かつて定信が強制的に作らせた「囲米」や「七分積金」が奇跡的な効果を発揮しました。備蓄されていた大量の米や資金が放出され、江戸の町では餓死者をほとんど出さずに済んだのです。厳しすぎて嫌われた松平定信の政策は、長い時を経て何万もの命を救い、日本の危機管理の歴史に決定的な契機をもたらしました。